著者
野口 雅弘
出版者
関西社会学会
雑誌
フォーラム現代社会学 (ISSN:13474057)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.33-42, 2021 (Released:2022-07-08)
参考文献数
28

日本における官僚制をめぐる言説とその変容を検討することで、「2010年代の政治と権力」の特徴と問題について考察することが、このペイパーの目的である。1990年代の橋本行革以来、内閣機能の強化が図られてきた。公務員および公務員組織をバッシングして、政治的求心力を獲得するというのが、この時代の統治の特徴であった。エリートや既得権に対抗する下からの運動を「ポピュリズム」と呼ぶとすれば、「2010年代の政治と権力」は「官僚叩きポピュリズム」の力学で動いてきたといえる。菅首相は「縦割り」打破といっている。しかし、いま私たちが目にしているのは、不毛な「官庁セクショナリズム」による行政のアナーキーではない。むしろ問題は、首相やその周辺への「権力の偏重」であり、権力の私物化であり、気まぐれな政策(アベノマスク、GoTo)の垂れ流しである。かつて「リベラル」の課題は官僚制の「鉄の檻」(マックス・ウェーバー)に抵抗することだった。しかし今日、「官僚叩きポピュリズム」の結果、国家公務員採用試験の受験者は減り続け、若手官僚の離職も深刻になっている。官僚組織は「鉄の檻」ではなく、メンテナンスが必要な「脆弱な殻」という視点からも考察される必要がある。旧来のテクノクラシー(「官治」)批判の構図で議論を継続することはもはや適切ではない。
著者
野口 雅弘
出版者
早稲田大学
雑誌
特別研究員奨励費
巻号頁・発行日
2001

昨年度執筆した「ウェーバーと自然法」と題する論文では、ウェーバーの著作における西洋、近代、禁欲的プロテスタンティズムの間にある齟齬に注目し、ポリフォニックな西洋的秩序の理念型を抽出した。本年度の研究は、こうした視座を、彼の「音楽社会学」の議論と対応させることで傍証し、また同時代の芸術史家アビ・ヴァールブルクのイコノロジーと対比しながら明確化しつつ、こうした作業を基礎にして一本の論文と一つの研究発表を行なった。まず、論文「ウェーバーと全体主義再考--エリック・フェーゲリンの視角から」(『年報政治学』投稿中)では、冷戦の終焉以降の、主にドイツにおける「全体主義研究ルネサンス」において注目を集めているフェーゲリンの「政治宗教」「グノーシス主義」の視角から、ウェーバーとナチズムの親近性を問題にする従来の解釈(モムゼン・パラダイム)を批評し、「文明の衝突」が言われる状況におけるウェーバーの政治理論の意義を示した。この際とくに、ウェーバーの多神論が、対立を止揚しようとする近代的普遍主義と全体主義に共通する「殲滅」の傾向性に対して、一定の歯止めになっていることを強調した。次に「『ウェーバーと近代』から『ウェーバーと西洋』へ---ウェーバーの著作における静養・近代・普遍」・(「思想史の会」、第30回研究会、2003年12月21日、於法政大学)では、西洋化=近代化=普遍化(=アメリカ化)という近代化論の前提のもとで理解されてきたウェーバー解釈の時代拘束性を指摘し、それを相対化しながら、彼の理論は近代的な普遍主義ではなく、「西洋」的な、つまり異文化に開かれた、多元主義的普遍主義であると論じた。この発表の内容は近日、論文で発表する予定である。
著者
野口 雅弘
出版者
岐阜大学
雑誌
若手研究(スタートアップ)
巻号頁・発行日
2007

「ウェーバー的な官僚制論」といわれるものは、マートンの逆機能など、多くの批判を受けてはきたが、それでも官僚制論の基本とされてきた。それは、大規模組織に、多くの構成員を包摂し、彼らをきびしく規律化することで成り立ち、そうして達成された効率性ゆえに拡大を続ける「鉄の檻」という官僚制理解である。しかしこれは、グローバル化と新自由主義化の傾向において「リキッド・モダニティ」(バウマン)がいわれるなかで、大きな修正を求められている。ところが、「官から民へ」、「小さな政府」、住民との〈協働〉(「新しい公共」論)などの、近年の官僚制をめぐる議論では、旧来の官僚制理解を前提にしつつ、「大きすぎ」で、「抑圧的」な官僚制を攻撃するという論法がしばしば使われている。本研究は、こうした状況に対して、政治理論の古典文献を再読解することを通じて応答しようとする試みであり、その成果は、以下の二つのテーゼにまとめることができる。ひとつは、「脱政治化された秩序」と官僚制の相関性であり、いまひとつは、官僚制とアソシエーションのジレンマである。前者の「脱政治化」とは、政治的な抗争関係が顕在化しないように作用する言説を問題化しようとするタームである。政治的な抗争が封印されると、現状において自明視されている「慣習」が批判的に検討され、熟慮され、そうして変容するという可能性が閉ざされてしまう。このような「脱政治化」は、ある意味での経済的「合理性」を一元的に貫徹しようとする新自由主義から調和的な秩序構想のなかで政治的コンフリクトの契機を根絶しようとする儒教システムにまで見いだすことができる。以上のような観点からすると、官僚制的な組織が「小さく」なったとしても、それで問題が解決するわけではなく、さまざまな政治的抗争が政治のシーンから見えにくくなることにともなう問題があることが見えてくる。本研究は、ウェーバーの『儒教と道教』を「脱政治化された秩序」の分析の書として受け止め、そこにおける官僚制支配の機制を検討した。後者の観点(官僚制とアソシエーションのジレンマ)からすると、(抑圧的で、画一的な)官僚制という「悪」に対して(自発的な)アソシエーションという「善」が対抗するという思考では、自由なアソシエーション、あるいは〈民〉の活動によって(何らかの形で保持されるべき)「普遍性」が底割れするという連関を見落としかねないということになる。たしかにマルクスのヘーゲル批判にあるように、官僚制による「普遍性」の僭称にともなう問題も大きいし、実際「日本官僚制」批判ではこの側面が強調される十分な理由があった。しかし、今日、〈官〉の縮小のなかで別の問題状況が出てきている。こうしたなか、ウェーバーのアメリカ論を、官僚制とアソシエーションのジレンマを引き受けながら思考しようとした議論として検討することは重要になってきている。