- 著者
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野口 雅弘
- 出版者
- 岐阜大学
- 雑誌
- 若手研究(スタートアップ)
- 巻号頁・発行日
- 2007
「ウェーバー的な官僚制論」といわれるものは、マートンの逆機能など、多くの批判を受けてはきたが、それでも官僚制論の基本とされてきた。それは、大規模組織に、多くの構成員を包摂し、彼らをきびしく規律化することで成り立ち、そうして達成された効率性ゆえに拡大を続ける「鉄の檻」という官僚制理解である。しかしこれは、グローバル化と新自由主義化の傾向において「リキッド・モダニティ」(バウマン)がいわれるなかで、大きな修正を求められている。ところが、「官から民へ」、「小さな政府」、住民との〈協働〉(「新しい公共」論)などの、近年の官僚制をめぐる議論では、旧来の官僚制理解を前提にしつつ、「大きすぎ」で、「抑圧的」な官僚制を攻撃するという論法がしばしば使われている。本研究は、こうした状況に対して、政治理論の古典文献を再読解することを通じて応答しようとする試みであり、その成果は、以下の二つのテーゼにまとめることができる。ひとつは、「脱政治化された秩序」と官僚制の相関性であり、いまひとつは、官僚制とアソシエーションのジレンマである。前者の「脱政治化」とは、政治的な抗争関係が顕在化しないように作用する言説を問題化しようとするタームである。政治的な抗争が封印されると、現状において自明視されている「慣習」が批判的に検討され、熟慮され、そうして変容するという可能性が閉ざされてしまう。このような「脱政治化」は、ある意味での経済的「合理性」を一元的に貫徹しようとする新自由主義から調和的な秩序構想のなかで政治的コンフリクトの契機を根絶しようとする儒教システムにまで見いだすことができる。以上のような観点からすると、官僚制的な組織が「小さく」なったとしても、それで問題が解決するわけではなく、さまざまな政治的抗争が政治のシーンから見えにくくなることにともなう問題があることが見えてくる。本研究は、ウェーバーの『儒教と道教』を「脱政治化された秩序」の分析の書として受け止め、そこにおける官僚制支配の機制を検討した。後者の観点(官僚制とアソシエーションのジレンマ)からすると、(抑圧的で、画一的な)官僚制という「悪」に対して(自発的な)アソシエーションという「善」が対抗するという思考では、自由なアソシエーション、あるいは〈民〉の活動によって(何らかの形で保持されるべき)「普遍性」が底割れするという連関を見落としかねないということになる。たしかにマルクスのヘーゲル批判にあるように、官僚制による「普遍性」の僭称にともなう問題も大きいし、実際「日本官僚制」批判ではこの側面が強調される十分な理由があった。しかし、今日、〈官〉の縮小のなかで別の問題状況が出てきている。こうしたなか、ウェーバーのアメリカ論を、官僚制とアソシエーションのジレンマを引き受けながら思考しようとした議論として検討することは重要になってきている。