著者
神邊 靖光 生馬 寛信 新谷 恭明 竹下 喜久男 吉岡 栄 名倉 英三郎 橋本 昭彦 井原 政純 高木 靖文 阿部 崇慶 入江 宏
出版者
兵庫教育大学
雑誌
総合研究(A)
巻号頁・発行日
1988

幕末から明治維新を経て「学制」領布に至る間、幕藩体制下に設立された藩校と、明治初年の藩校・明治新政府の管轄下に設けられた諸学校と、の教育の目的・内容・方法の変化・相違点は学校の組織化にあるということを課題とし、この課題を実証的に解明すること、その過程に見出される教育の本質・属性の連続・非連続の問題も併せて考究することを意図してこの研究は進められた。藩校は江戸後期に急増するが、士道の振気と、藩財政の窮乏を打開するために儒教倫理にもとづく教育による人材の育成を目的として設立されたという点では、共通の課題を持っていた。しかし藩校の制度の定型はなく、また各藩の教育外条件は一様ではなかったので、250に及ぶ藩校は、250の様態をもっていた。更に洋学の受容、外圧という条件が加わると、学ぶべき洋学の選択、外圧の影響の強弱によって藩校は多様化を一層進めてゆくことになった。加えて幕末の国内情勢の二分化により、学校観も多様化した。幕末までの学校は、制度・組織を先例に倣って類似的に完結されていたが、外国の規制度に関する知識を直接に或は間接的に学ぶことによって、更に明治新政府の対藩政策によって学校改革の必要に迫られる。そのため伝統的な閉鎖的・個別的な性格から脱皮しなければならなくなり、自律的に或は他律的に共通性をもった相似的なものへと変化していった。このような経緯・動向が「学制」に示された、組織化を推進しようとする学校制度の実施を容易ならしめたのである。本研究は藩校教育を核として、幕末維新期の教育の各領域における組織化の過程を今後も継続してい くことになっている。平成2年3月、3年3月に、幕末維新期の学校調査、昌平坂学問所、5藩校、郷学校、数学教育、医学教育、お雇い教師に関する11編の報告を発表した。平成4年には、藩校、儒学教育、数学教育、芸道教育に関する報告をおこなう。
著者
高木 靖文
出版者
名古屋大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
1995

本研究の課題は、近世大名家の城中における教育の実態の解明と、その様式や慣行の成立・発達の過程にみられる阻害的要因と促進的要因との間の相互関係の検討である。従来、城中教育の展開は、好学の藩主の恣意によるとされ、発展性や継続性を保証しない特異な事績として処理されてきた。何処で、どの様に、どんな科目を学んだかという検討が、学習様式や教育慣行の成立の解明に結びつかなかった。それは、城中という特殊性を過大に評価した結果であるが、必ずしも正確ではない。そこで、比較の基準として、初めに尾張徳川家の城中教育の問題を取り上げ、次いで岡山藩主池田家、加賀藩前田家、高田藩榊原家、新発田藩溝口家と対比し、同様の事態が存在したかどうか、阻害的要因・促進的要因はどの様な形で現れたかを検討したのである。その結果、以下の諸点が明らかになった。(1)城中は(江戸城に典型的に見られるように)、概ね3つの空間(奥・中奥・表)から成り立っており、多様で厳格な制約が勤務する武士・足軽の行動を縛っていた。それ故、家臣が自発的な学習の機会を設定することは困難で、個人的学習の場を外に求めるほかなかった。(2)中奥・表における教育の機会が組織されたのは、そのような制約の緩和によるが、固め・通用・座席などの規式は始終重要な意味を持ち、教育の形態を身分的・閉鎖的・儀式的にした。(3)幕末になると、城中の学習活動は盛んとなり、教育組織と構造を欠くものの「巨大な学校」の観を呈した。翻訳・会読・輪講・素読などが頻繁に行われ、御廉中が「透き聞き」をすることもあった。今後は、さらに多くの大名家の実態を検討し、以上の成果と比較しながら、両要因の影響関係の解明を進めたい。