- 著者
-
黒崎 岳大
- 出版者
- 日本文化人類学会
- 雑誌
- 文化人類学 (ISSN:13490648)
- 巻号頁・発行日
- vol.81, no.2, pp.247-265, 2016 (Released:2018-02-23)
- 参考文献数
- 22
マーシャル諸島共和国マジュロ環礁には、東太平洋戦没者の碑と聖恩紀念碑という日本政府が建立した記念碑がある。前者は1984年に第二次世界大戦の犠牲者への追悼の意味を込めて建立され、後者は1918年に台風被害を受けた同環礁に対する大正天皇の支援を記念して建てられた。
建立した日本側の意図とは異なり、今日のマジュロ環礁民たちは、両方の記念碑の建立を日本がもたらした経済開発による地域の発展と結びつけて考えた。1980年代には、日本からマーシャル諸島への経済支援の実施と慰霊巡拝による日本人の訪問再開が重なった。マジュロ環礁民は、東太平洋戦没者の碑の建立を、日本からもたらされるODA事業によるローラ地区の発展と結びつけて歓迎した。同様に、戦前に建立された聖恩紀念碑に対しても、同紀念碑が建立された時期がコプラ産業の発展によるマジュロ環礁の開発が進んだ時期であったことと結びつけ、彼らは紀念碑を豊かな時代の象徴として考える言説が確認された。
二つの事例から、記念碑の建立とそこから現地の人々が想起する意味との関係について、次のように解釈できる。一つは、歴史的文脈を超えて生じさせる記念碑が有している記憶やイメージを喚 起する力である。戦没者の碑の建立と経済援助の開始が同時期だったことから、同碑が地域開発を想起させるエージェンシーと化した。同様に住民は紀念碑に対しても、植民地主義という文脈を超えて、戦前のプランテーション開発による経済開発を想起させたと解釈できる。
一方、記念碑の建立と経済開発を結びつけた言説が生じた背景に、戦後の米国による統治政策との関係がある。米国からも多大な財政支援があったにもかかわらず、現地の人々は、社会インフラ整備など目の前に見える形で顕在化された日本のODA事業に対して、豊かさの象徴を見出した。 そこには、強制移住政策や過度な欧米文化の流入という目に見えない形で現地社会に深刻な影響を及ぼす米国に対する不満が存在すること、そして、その対比の中で記念碑の建立と日本の経済開発を結びつける言説が生み出されたのだと解釈できる。