- 著者
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島内 裕子
Yuko Shimauchi
- 雑誌
- 放送大学研究年報 = Journal of the University of the Air (ISSN:09114505)
- 巻号頁・発行日
- vol.17, pp.210(29)-188(51), 2000-03-31
本稿は、紀行文学における事実と真実を考察するにあたって、具体例として吉田健一の「或る田舎町の魅力」を取り上げるものである。「或る田舎町の魅力」は、昭和二十九年八月号の雑誌『旅』に掲載された短い作品で、埼玉県児玉町の訪問記である。その後、『随筆 酒に呑まれた頭』(昭和三十年刊)や『日本に就いて』(昭和三十二年刊)などの吉田健一の単行本に所収されただけでなく、昭和三十年代から四十年代に刊行された各種の文学全集にも、吉田健一の収録作品として繰り返し再録された。昭和五十年代以後に編まれた各種のアンソロジーにも、この作品が選ばれている。また、文学者たちのエッセイなどでも言及されたり、かなり詳しく論じられている。このように、「或る田舎町の魅力」は短編ではあるが、吉田健一の代表作の一つと言えよう。 本稿では考察の順序として、「或る田舎町の魅力」の文学史的な定位を図るために、まずこの作品の再録状況を概観し、次に他の文学者たちの論評を検討する。それらの作業を踏まえた上で、「或る田舎町の魅力」の内容を再確認する。吉田健一の児玉訪問から現在まで、すでに五十年近い歳月が経過しているので、現地調査にはかなりの困難を伴ったが、幸い当時のことを記憶している人々から貴重な回想談を聞くことが出来た。そればかりか、児玉ゆかりの人々の尽力によって、作品を読んだだけでは思いもよらぬ、さまざまな新事実を発掘することもできた。 この作品には、吉田健一が児玉町を再訪した時のことが主として書かれているが、最初の児玉訪問がいつであったのか、その年月日を特定できた。当時の児玉の文学環境も浮かび上がり、「或る田舎町の魅力」誕生の直接の契機と、その背景が明らかになった。さらに、吉田健一の児玉再訪が、彼単独のものではなかったことも判明した。そのことは、吉田健一の文学的交友を考える上でも重要であるし、そのような緊密な交友がやがては同人雑誌『聲』発刊へと繋がっていったのである。「或る田舎町の魅力」を文学史の流れの中で位置付けるとともに、事実と真実がどのように織り込まれてすぐれた紀行文学となりうるのかを解明し、この作晶の文学的な達成を考察したい。