著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.210(27)-191(46), 1996
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
no.30, pp.122-110, 2012

北村季吟(一六二四〜一七〇五)は、生涯に二つの徒然草に関する注釈書を著した。四十四歳の時に刊行した『徒然草文段抄』(一六六七年)は、その後、広く流布した。これは徒然草に関して書かれた膨大な注釈書群の中でも、定番的な地位にあり、近代以後にあっては、欧米の日本学者たちが徒然草を外国語に翻訳する際にも、参照されている。一方、季吟が八十一歳の時に、五代将軍・徳川綱吉に献上した『徒然草拾穂抄』(一七〇四年)は、『徒然草文段抄』の詳細な注釈を、わかりやすく簡略化して、そのエッセンスをすっきりとまとめている。 本稿では、まず、近世前期の徒然草注釈書の中に、『徒然草文段抄』の特徴と個性を明確化する。そのうえで、北村季吟が晩年に到達した徒然草観、ひいては、古典の注釈書のあり方の一端を、『徒然草拾穂抄』の注釈態度の中から見出すことを試みた。 なお、各種の徒然草注釈書における注釈内容を具体的に比較するにあたって、本稿ではひとまず、徒然草の第二十段までを対象とする。その際に、諸注釈書が指摘する徒然草と和歌・物語との関わりに絞って考察した。
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.132(1)-122(11), 2011

吉田健一には、神戸とその周辺の土地の食べ物や酒について書いたエッセイがある。それらのエッセイの記述の背景には、当地を案内してくれた須磨在住の詩人・竹中郁の存在があった。竹中郁が書いた同様のエッセイと読み比べながら、吉田健一の神戸周辺の「味わいエッセイ」を検証すれば、そこに選ばれている食べ物や店の選択に、竹中郁が大いにかかわっていたことが明らかになる。このことはそのまま、吉田健一の記述に対する注解ともなり、吉田文学をより深く理解するための一助となろう。
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of The Open University of Japan (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
no.33, pp.158-145, 2015

本稿では、近世に出版された徒然草の注釈書の中から、『徒然草吟和抄』(1690年刊)に焦点を当て、その注釈態度を考察する。 本稿が『徒然草吟和抄』に注目するのは、十数種類の注釈書の注釈内容を集約した『徒然草諸抄大成』(1688年)が成立した以後の注釈書であること、および、挿絵付きの注釈書であることの二点から見て、徒然草の注釈書の中で、独自の位置を占めると考えるからである。 この二点に着目して、『徒然草吟和抄』の注釈態度を考察することで、「諸抄大成以後」における徒然草注釈書の可能性を見極めたい。さらには、『徒然草諸抄大成』に集成された注釈書の中から、どの注釈書が、『徒然草吟和抄』において、参照・摂取されている頻度が高いかが明らかになれば、徒然草注釈書の中で、後世に残ってゆく注釈書の特徴も明確になるであろう。 『徒然草吟和抄』は、これまで徒然草注釈書の中で、あまり注目されてこなかったように思われる。それだけに、近世における徒然草注釈の全体像を概観するための、一つの具体例として、貴重な存在であると思う。
著者
島内 裕子 SHIMAUTI Yuko
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of the Open University of Japan (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.122-110, 2013-03-21

北村季吟(一六二四〜一七〇五)は、生涯に二つの徒然草に関する注釈書を著した。四十四歳の時に刊行した『徒然草文段抄』(一六六七年)は、その後、広く流布した。これは徒然草に関して書かれた膨大な注釈書群の中でも、定番的な地位にあり、近代以後にあっては、欧米の日本学者たちが徒然草を外国語に翻訳する際にも、参照されている。一方、季吟が八十一歳の時に、五代将軍・徳川綱吉に献上した『徒然草拾穂抄』(一七〇四年)は、『徒然草文段抄』の詳細な注釈を、わかりやすく簡略化して、そのエッセンスをすっきりとまとめている。 本稿では、まず、近世前期の徒然草注釈書の中に、『徒然草文段抄』の特徴と個性を明確化する。そのうえで、北村季吟が晩年に到達した徒然草観、ひいては、古典の注釈書のあり方の一端を、『徒然草拾穂抄』の注釈態度の中から見出すことを試みた。 なお、各種の徒然草注釈書における注釈内容を具体的に比較するにあたって、本稿ではひとまず、徒然草の第二十段までを対象とする。その際に、諸注釈書が指摘する徒然草と和歌・物語との関わりに絞って考察した。
著者
島内 裕子 Yuko Shimauchi
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of the University of the Air (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.138(1)-119(20), 1998-03-31

本稿は、従来あまり知られていない吉田健一の翻訳や初出誌など、管見に入ったものを紹介しながら、主として、昭和二〇年代から四〇年代までの彼の文学活動を概観する。 特に昭和二四年六月から昭和三五年八月まで、中断を挟みながらも通巻四八号にわたって刊行された『あるびよん』は、当時の吉田健一にとって、作品発表の舞台の一つとなった雑誌であり、そこに寄稿した評論やエッセイなどは、後にいくつかの単行本に再録されて、彼の英文学論を形成するものとなっている。また、『あるびよん』に掲載された座談会や鼎談などは、その性格上、彼の著作には直接入らないが、そこでの発言は彼の文学観や人間観を知るうえで重要なものであるし、その後どの単行本にも収められなかったごく短いエッセイなどもある。現在最も詳細な集英社版『吉田健一著作集』全三〇巻補巻二巻は、補巻を除いて、単行本として刊行されたものに限り収録しているので、これらの小エッセイは見過ごされがちであり、年譜などに記載されていないものもある。また、現代においては、吉田健一と言えば評論家というイメージが強いが、翻訳家としての側面も忘れてはならず、その翻訳の中に、年譜類に記載されていないものがあり、さらに、日本の古典の現代語訳の仕事も行なっている。 吉田健一の文学世界は実に多彩で多様であるが、その本質を究明するためには『吉田健一著作集』に収録されていない短いエッセイや、数々の翻訳書なども含めて研究する必要があるし、初出誌と単行本でどのような推敲や改変が行なわれているかを調査することも必要となってくるであろう。本稿では、そのような観点から、吉田健一の文学活動の一端を考察するものである。
著者
島内 裕子 Yuko Shimauchi
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of the University of the Air (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.132(11)-119(24), 2006-03-31

江戸時代には、木版印刷によってさまざまな文学作品が刊行されたが、それらの中でも徒然草は、わかりやすく教訓的な作品として、広く親しまれた。本文だけのものから、挿絵付きのもの、頭注付きのもの、詳細な注釈書など、徒然草はさまざまなスタイルで刊行されている。けれども、徒然草は文学作品として読まれただけではない。絵巻や色紙や屏風に描かれて、美術品・調度品としても鑑賞された。 本稿では、描かれた徒然草の中から、熱田神宮献納・伝住吉如慶筆「徒然草図屏風」と、米沢市上杉博物館蔵「徒然草図屏風」の二点を取り上げる。このたび、詳細に現物調査することによって、描かれた章段を特定することができた。前者は徒然草から一連の仁和寺章段を抽き出して描いた屏風、後者は徒然草から二十八場面を描いた屏風である。 この調査を踏まえて、それぞれの屏風の抽出章段の特徴や、図柄の描き方の特徴、屏風の制作目的などについても考察を加えた。さらに、絵巻や色紙に描かれる場合との違いを通して、徒然草が屏風に描かれることの意味と意義について考えてみた。
著者
島内 裕子 Yuko Shimauchi
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of the University of the Air (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
no.23, pp.132(11)-119(24), 2006-03-31

江戸時代には、木版印刷によってさまざまな文学作品が刊行されたが、それらの中でも徒然草は、わかりやすく教訓的な作品として、広く親しまれた。本文だけのものから、挿絵付きのもの、頭注付きのもの、詳細な注釈書など、徒然草はさまざまなスタイルで刊行されている。けれども、徒然草は文学作品として読まれただけではない。絵巻や色紙や屏風に描かれて、美術品・調度品としても鑑賞された。 本稿では、描かれた徒然草の中から、熱田神宮献納・伝住吉如慶筆「徒然草図屏風」と、米沢市上杉博物館蔵「徒然草図屏風」の二点を取り上げる。このたび、詳細に現物調査することによって、描かれた章段を特定することができた。前者は徒然草から一連の仁和寺章段を抽き出して描いた屏風、後者は徒然草から二十八場面を描いた屏風である。 この調査を踏まえて、それぞれの屏風の抽出章段の特徴や、図柄の描き方の特徴、屏風の制作目的などについても考察を加えた。さらに、絵巻や色紙に描かれる場合との違いを通して、徒然草が屏風に描かれることの意味と意義について考えてみた。
著者
島内 裕子 Yuko Shimauchi
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of the University of the Air (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.210(29)-188(51), 2000-03-31

本稿は、紀行文学における事実と真実を考察するにあたって、具体例として吉田健一の「或る田舎町の魅力」を取り上げるものである。「或る田舎町の魅力」は、昭和二十九年八月号の雑誌『旅』に掲載された短い作品で、埼玉県児玉町の訪問記である。その後、『随筆 酒に呑まれた頭』(昭和三十年刊)や『日本に就いて』(昭和三十二年刊)などの吉田健一の単行本に所収されただけでなく、昭和三十年代から四十年代に刊行された各種の文学全集にも、吉田健一の収録作品として繰り返し再録された。昭和五十年代以後に編まれた各種のアンソロジーにも、この作品が選ばれている。また、文学者たちのエッセイなどでも言及されたり、かなり詳しく論じられている。このように、「或る田舎町の魅力」は短編ではあるが、吉田健一の代表作の一つと言えよう。 本稿では考察の順序として、「或る田舎町の魅力」の文学史的な定位を図るために、まずこの作品の再録状況を概観し、次に他の文学者たちの論評を検討する。それらの作業を踏まえた上で、「或る田舎町の魅力」の内容を再確認する。吉田健一の児玉訪問から現在まで、すでに五十年近い歳月が経過しているので、現地調査にはかなりの困難を伴ったが、幸い当時のことを記憶している人々から貴重な回想談を聞くことが出来た。そればかりか、児玉ゆかりの人々の尽力によって、作品を読んだだけでは思いもよらぬ、さまざまな新事実を発掘することもできた。 この作品には、吉田健一が児玉町を再訪した時のことが主として書かれているが、最初の児玉訪問がいつであったのか、その年月日を特定できた。当時の児玉の文学環境も浮かび上がり、「或る田舎町の魅力」誕生の直接の契機と、その背景が明らかになった。さらに、吉田健一の児玉再訪が、彼単独のものではなかったことも判明した。そのことは、吉田健一の文学的交友を考える上でも重要であるし、そのような緊密な交友がやがては同人雑誌『聲』発刊へと繋がっていったのである。「或る田舎町の魅力」を文学史の流れの中で位置付けるとともに、事実と真実がどのように織り込まれてすぐれた紀行文学となりうるのかを解明し、この作晶の文学的な達成を考察したい。
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送教育開発センター研究紀要 (ISSN:09152210)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.99-114, 1995

This paper aims to survey the formation of Ken'ichi Yoshida's literature. In doing this the author first traces the history of Yoshida's reading from his early days to youthful days. In the second place, takes up his translation of Poe, Valely, and Laforgue. In the third place, examines his early works in the point of view what experience produces them. Finally, the influence of translation in his creations, is pointed out.
著者
島内 裕子 Yuko Shimauchi
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of The Open University of Japan (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
no.31, pp.130-119, 2013

本稿では、近世に出版された数ある徒然草の注釈書の中から、『徒然草句解』(1661年刊)に焦点を当てて、この注釈書の特徴を明らかにするとともに、徒然草自体に内在する問題意識を掘り起こすことを目指す。 近世前期に刊行された各種の徒然草注釈書と『徒然草句解』を比較することによって、『徒然草句解』の注釈態度が、従来言われてきたような、儒学の立場からの注釈というよりは、むしろ『源氏物語』や『枕草子』や和歌などを通して、徒然草の本質に迫ろうとする傾向が顕著である事実を明らかにする。 また、『徒然草句解』は、数多くの箇所で、徒然草の連続する章段間の照応に着眼する注釈を付けており、この点に『徒然草句解』の新しさと達成があると評価できる。 さらに、徒然草注釈書を、研究的な詳細なものと、読みやすさに力点を置いた一般向けの簡略なものに大別するならば、『徒然草句解』がその中間に位置すること、および、そのスタンスこそが、徒然草という作品を広範な読者たちに開くと同時に、徒然草の奥深い世界に分け入る道標となっていることを明らかにする。
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.156(11)-138(29), 2007

東京藝術大学大学美術館蔵「徒然草画巻」は、三巻・計五十三図の徒然絵を収める画巻である。狩野派や英派の絵師たちだけでなく、谷文晁や鳥居清長など著名な絵師も含む。本稿は、この画巻の各々の場面が徒然草のどの章段を描いているかを特定し、従来知られている他の徒然絵と比較検討しながら描き方の特徴や配列、制作意図などを考察した。本画巻には俳画風の簡略な絵が多いが、これらの絵は徒然草の文学的な雰囲気をよく捉えており、徒然絵の一つの到達点として評価できる。
著者
島内 裕子
出版者
放送大学
雑誌
放送大学研究年報 (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.302(21)-279(44), 2003

江戸時代には、『徒然草』の著者である兼好が、晩年を伊賀国種生で過ごし、そこで没したとする説が流布していた。この説を反映して、種生という地名を題名にした『種生伝』という兼好の伝記が書かれた。また、伊賀国地誌には、兼好の墓のことが記載され、そこには種々の兼好伝の記事も載せられている。江戸時代には、伊賀国にある兼好の墳墓とされる塚が文学的な名所となっていたのである。芭蕉の弟子の服部土芳もここを訪れている。さらに近代になってからも、伊賀種生の兼好の旧跡を訪ねる人々は「種生探訪」とも言うべき、訪問記を書いているし、地元でも兼好の旧跡が顕彰された。本稿では、種生の兼好旧跡を実地に調査し、地元資料も踏まえて、近世から現代にいたるまでの、種生における兼好終焉伝説とその展開を概観し、次の四点から考察した。第一に、種生常楽寺に現存する『兼好上人略伝』の紹介と、近世兼好伝におけるこの作品の位置づけについて。第二に、『標柱伊賀名所記』に書かれた兼好関係資料について。第三に、服部土芳における兼好と『徒然草』への関心について。第四に、種生を訪れた人々の探訪記と地元での兼好顕彰について。以上の考察を通して、文学作品としての『徒然草』だけでなく、著者である兼好への関心も近世から現代にいたるまで、一貫してかなりたかかったことが明らかになるであろう