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五畿内志の王仁墓の欄の 「今稱於爾墓」 https://t.co/ffMC9vbImt を 「……並河誠所が、「おに」は「王仁」の訛りで、本来は王仁の墓であると『五畿内志』に掲載した」P.45,椿井文書,2020 と読んだのは枚方市阪の三浦蘭阪(1765-1844)の見解でしょ? https://t.co/JDoGqFlRT1
『椿井文書』45頁では「「……並河誠所が、「おに」は「王仁」の訛りで」 『耳嚢』根岸鎮衛,は「土俗は王仁を略語して鬼の墓といふ由、をかし」 どっちが正しい? 「今稱於爾墓」『五畿内志』 https://t.co/ppZJ0zGZIV https://t.co/c7kXXIwlpR
郊祀の交野原一本杉をふまえた伝承では? https://t.co/VwyZLQTKXG 「星田神社……ここに一本の大杉があって、……枯死したので、その芯を御神体とし、この古宮ができたと古老が伝えている。」P.336,交野町史改訂増捕二,1963 椿井文書メモ
1735年五畿内志は河内国交野郡式内社片野神社は坂村の「一宮」(現・片埜神社)と https://t.co/VwyZLQTKXG 椿井文書メモ
@historian_chop 1735年幕府の五畿内志が「片野神社…在坂村 今稱 一宮」 https://t.co/VwyZLQTKXG と書き 1801年河内名所図絵が「交野神社…坂村…牛頭天王」 https://t.co/XiERHXge4q と書き 1813年,神名帳考証土代,伴信友が「片野神社 在坂村 今稱 一宮」 https://t.co/hMlBaSFsOJ と追認した後で 椿井文書メモ
1889年「氷室村 https://t.co/EYuZ7NEJn3 」になったから、 1895年木津の今井家で買った古文書のタイトルが「氷室郷~」だったのは 明治時代の誰かが氷室村に合わせたか、 江戸時代の誰か(椿井政隆椿井文書?)が『五畿内志 https://t.co/ffMC9vsLot 』を元にしたキャッチコピーの可能性はあると思う。 https://t.co/kMtppYOVba
1735年五畿内志 https://t.co/VwyZLQBBJy 大日本史 https://t.co/Qkde0PeMPm に史実性はあるのかな? 桓武天皇行宮近くで長屋王宅も近く標高は室池と同じ。氷が本当に取れていたら便利な地理ではあるけど https://t.co/SLYS4EdsPt 。椿井文書が五畿内志をネタに氷室郷としたがもし史実でも、後発で。 https://t.co/SaLn6O4Xck
1735年『五畿内志 https://t.co/VwyZLQBBJy 』や『大日本史 https://t.co/Qkde0PeMPm 』でなぜか氷室と書かれた傍示村尊延寺村杉村を結んだら真ん中に穂谷村が来るのは、地理がそうだからで穂谷村が意図して真ん中に来たわけじゃなく https://t.co/Ua2qfXWO1I 。 でも椿井文書論文は穂谷村の意図と。 https://t.co/kQ9vq6yrOd
そもそも氷室云々と書いた 1735年『五畿内志』 https://t.co/ffMC9vsLot や水戸藩の『大日本史』 https://t.co/bRH5tKBAHd ではなく、穂谷村住民が椿井政隆(1770-1837)へ椿井文書で氷室郷と書かせたと責めるって、 学者達の仕事の責任をそれを信じた村人に負わせる奇妙な論文よね。 大日本史は? https://t.co/dhIscaFurE
穂谷村他の氷室は 1735『五畿内志』 https://t.co/VwyZLQBBJy 1697-1906『大日本史』 https://t.co/Qkde0PeMPm にも書いてあるから穂谷村がそれをヤターと思っても彼等のせいじゃないのでは? 書かれたのは椿井文書の椿井政隆(1770-1837)が産まれる前だし。 https://t.co/Jy2w9YGqbU
馬部氏は『椿井文書』で三浦蘭阪の星田神社境内交野神社が式内社・片野神社説を支持するけど(だったら嬉しいな)、 三浦蘭阪以前に星田神社内交野神社が出て来ないのはどうするのかな? それに片埜神社を式内社とした1735年五畿内志 https://t.co/VwyZLQBBJy の記述は片埜神社の文責じゃないよね。 https://t.co/dFAgwn0XTo
五畿内志「王仁墓…… 於爾墓」 https://t.co/VwyZLQBBJy は 能・難波梅の王仁(ワウニン・おうにん) https://t.co/QxNeUpEYuD の様に 倭名類聚鈔「鬼……和名 於爾 或説云隠(※オン)字音於尒訛也」 https://t.co/FCENF99Xgm が前提と三浦蘭阪は思い至らなかったんでしょうね。 新書椿井文書では延 https://t.co/JypICFhycw
『五畿内志』に津田城や氷室や安見直政載ってるぞってことで見つけた。https://t.co/jruanQQMa7 左頁の古蹟のところに私部城・津田城・氷室。これが後の椿井文書の記述につながるわけやな
@hinotomoki2 探すまでもなく、有名な『五畿内志 https://t.co/VwyZLQBBJy 』や貝原好古『八幡宮本紀 https://t.co/71jZcXb7t6 』に王仁墓だと書いてあります 。 なので明治時代の河内国交野郡には、わざわざ『王仁墳廟来朝記』を捏造する意味は無いのですがこの文書は一体なんでしょね??
五畿内志(1735)が「氷室 傍示 尊延寺 杉」 https://t.co/VwyZLQBBJy と書いたのをきっかけにその地域が氷室郷と呼ばれるようになったのか、 五畿内志以前に氷室郷という「杜の都」的な地域の愛称があったのか知らないけど、 椿井政隆(1770-1837)が生まれる前。 #椿井文書
「氷室 傍示 尊延寺 杉」五畿内志(1735) https://t.co/VwyZLQBBJy 。 地図 https://t.co/WigJNaeIUL 。 古い地図 https://t.co/rXPeofbONv 。 椿井政隆(1770-1837)が生まれたのは出版から35年後。 穂谷村が彼に贋作を求めなくとも幕府が作らせた五畿内志を裁判所に出せばいいような。そも #椿井文書 https://t.co/ZaFQ9tP0ST
徳川家康も大神君と書かれるみたい。 星田村の「星田店」(五畿内志 https://t.co/DXDaLkulHi ) 「星田尊跡」(河内名所図会 https://t.co/Fkat3ugRnI ) の「大神君」とは、本来は三輪山の神の事ではないかと土地柄思う。家康の伝承も有名だけど。
でも五畿内志(1735)では 「玅見神祠 妙見山 舊名小松大明神見灌頂録。 此祠 真言家謂之玅見菩薩 陰陽家謂之北辰星 神道家者流謂之天御中主尊」 で、お寺の記載はない。 https://t.co/VwyZLQBBJy
@japacomix 『発進!! タイムマシンひらかた号』の伝博士王仁墓の部分で出てくるのは 古事記 https://t.co/BKAxwda6GD 貝原好古「 八幡宮本紀」 https://t.co/so8AxqqKHF 河内志 https://t.co/ffMC9vsLot 片山長三「王仁塚」懐徳(26),1955 https://t.co/6erGOWeQ57 で、 #椿井文書
「河内文首始祖博士王仁墓……今稱 於爾墓」五畿内志(1735) https://t.co/VwyZLQBBJy 椿井政隆(1770-1837) 三浦蘭版は並河が倭名類聚鈔を前提に推定して説明しているのに気が付かなかったのかも。 #椿井文書
承前)「西宮記、交野以百濟爲検校 https://t.co/uAB4yIVQxI 」137頁,神祇全書第1輯,皇典講究所,1906 五畿内志(1735)「片野神社……坂村 https://t.co/VwyZLQBBJy 」 河内名所図絵(1801)「住吉神祠(星田神社) https://t.co/Fkat3ugRnI 」 #椿井文書
穂谷村に椿井政隆へ贋作を作らせた悪意があるの根拠はこの部分だったのに、それが無いとなると根幹から崩れる。 「氷室」についても椿井政隆が生まれる前の1735年五畿内志に記載があるのに、椿井政隆に造らせる意味は無い。 「傍示村・杉村・尊延寺村」はとても近い https://t.co/VwyZLQBBJy https://t.co/4ixKa5fN2a
大阪府堺市の永山古墳は王仁博士の塚となもし「百下鳥耳原中陵……域外四畔有㆓七冢㆒曰長冢俗云武内宿禰曰長山冢俗云王仁曰孤山曰寺山曰土鼈山曰平塚山曰圓山初」 #椿井文書 並河誠所,和泉志(五畿内志)1733年  https://t.co/9A9V5GTboq
これが諸悪の根源?な並河氏の記述で「河内文首始祖博士王仁墓在藤坂村東北御墓谷今稱於爾墓」並河誠所,河内志(五畿内志)1733年 #椿井文書 https://t.co/VwyZLQBBJy
「河内文首始祖博士王仁墓在藤坂村東北御墓谷今稱於爾墓」並河誠所,河内志(五畿内志)1733年 https://t.co/VwyZLQBBJy
王仁博士墓は椿井政隆(1770-1837)の #椿井文書 ではなく伏見の並河誠所(1668-1738)達の1733年河内志(五畿内志)「河内文首始祖博士王仁墓在藤坂村東北御墓谷今稱於爾墓 https://t.co/VwyZLQBBJy 」が元で、地元では歯痛に効く石だった。「里人はオニの塚と呼びて畏敬し、歯痛及び瘧に罹れるもの之を」
@KKamikawa 王仁博士墓は椿井政隆(1770-1837)の #椿井文書 ではなく並河誠所(1668-1738)の河内志1733年(五畿内志 https://t.co/mPWUedrIX7 )「河内文首始祖博士王仁墓在藤坂村東北御墓谷今稱於爾墓」 https://t.co/VwyZLQBBJy
1679年河内鑑名所記 https://t.co/s9V4f1YO7N 1735年五畿内誌 https://t.co/8aH34fagik には、片埜神社(一の宮、片野神社)や星田妙見宮(星田妙見山の三宝山小松寺の社)はあるけれど、星田神社は掲載されていない #七夕
乞巧奠( #七夕 ) https://t.co/SlbkXRj8Gp と盂蘭盆会 https://t.co/RSjb0gxIUG 共通お供えは、梨、桃、茄子、熟瓜。茨田郡で揃う https://t.co/mrhpEcqUOe 。 現代の精霊棚の雰囲気でもある。 ほおずきの元は梔子、ミソハギの元は蓼蘭(Polygonum tinctorium Ait https://t.co/H9MTog15MJ 藍蓼)か? https://t.co/nPqv4TvMD8
@hayama0327 山田城(吹田市)十三の支城の位置推定ネタとしてアリ子山 (・ω・) ←但馬じゃねえよ 国立国会図書館デジタルコレクション > 日本古典全集 ; 第3期 [第14] 五畿内志. 下巻 https://t.co/l3W5TzevKC(※コマ番号99)
河上哮峯=石船山(河内國讃良郡田原村) #メモ https://t.co/CXtFmBnwey
わて、古い本を読むの苦手なもんで間違ってるかもしれんのやけど…、この書きっぷりが『日本城郭大系 12 大阪・兵庫』でちょこちょこ出てくる「山田城(吹田市)十三の支城」ってことになるのん?。山田城の説明の後段に他のお城を列挙してるだけにも見えるねんけど(汗) https://t.co/BhOYhQhsxh
@aoisirohito @sakon_makeinu @splatoon___s 国立国会図書館デジタルコレクション > 日本古典全集 ; 第3期 [第14] 五畿内志. 下巻 https://t.co/l3W5TzevKC コマ番号99に山田城(吹田市)がありまするよ。日本城郭大系では「粟生村=新家城」と推定しとりますです。
後田原天皇は郊天祭祀の壇は「交野原一本杉」にあるという。真木は杉の古名。真木郷=牧郷一宮片埜神社や杉ケ本神社でも矛盾はない。 https://t.co/8aH34fagik https://t.co/HotZem8pH2
廃郊祭壇の交野一本杉=片鉾の杉ノ本神社説も、片埜神社横アテルイ首塚の椙山=杉の山説も、両方共に牧ノ郷=真木郷にあり、真木が杉の古語 https://t.co/O8AGS610vL (小野蘭山,本草綱目啓蒙)で、矛盾なく成り立つ https://t.co/8aH34fagik
江戸時代の五畿内志では郊天祭祀は片鉾村。杉ヶ本神社、山田神社、牧野車塚古墳くらいか? https://t.co/8aH34fagik
「後田原天皇即此壇上有老杉今曰交野原一本杉」と書いているので古い杉が枯れた跡が本殿と伝えられている星田神社がそうなのかなぁとも。瀬戸内海からくる風は新宮山八幡宮跡の山で遮られる。茄子作村妙見山だと標高が高すぎて煙がたなびいてしまう。 https://t.co/8aH34fagik https://t.co/0qN3ga6flT

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編集者: チビクロ(偽)
2018-11-10 00:27:04 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。

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