30 0 0 0 OA 多聞院日記

著者
英俊 [等著]
出版者
三教書院
巻号頁・発行日
vol.第2巻(巻12-巻23), 1939

言及状況

外部データベース (DOI)

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たしかにWikipediaでは、そのように書かれていますね。 出典元はガスパル・ヴィレラの「耶蘇会士日本通信」だそうです。 残念ながら、この本については未見なので何とも言えません。 「信長公記」や「本朝通鑑」、同時代資料の「多聞院日記」にも竹内季治のことは出ていませんでした。 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207457/110?tocO ...

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多聞院英俊のような寺で教育を受けた人でさえ親王任国である上総の受領名は介であると知らず間違えていたのか、それとも間違えて名乗っている先方に配慮して守と記したということなのか。 ■『多聞院日記』永禄十一(1568)年九月廿四日、尾張ノ上総守大津迄出了、 https://t.co/1cTxF2T8yy
■『多聞院日記』永禄十(1567)年十二月十六日 ・中間ノ源八当年数度高名了、二迄首ヲ取了、依之侍ニ成シ、名字を川辺新介ト云々 https://t.co/wCUKqeTxig
塙直政は当時「守護」と呼ばれたので間違いなかった。大和守護兼任の件について、『多聞院日記』に「去廿三日ニ塙九郎左衛門尉当国ノ守護ニ被相定了云々」とあり(https://t.co/5YzC2z5iv3 右上の真ん中ら辺)。
少太くんの命日は、11月3日の記事の "少太三七日 ラカン供 沙汰之"、11月末日の記事 "少太七々日明日也" から計算。8,9,10月あたりの記事は大部分が欠落。 https://t.co/TN3ohRw90s
https://t.co/TN1UbFCvMa 『多聞院日記』天正二年(1574年)の10月25日に"敷フスマ新調了、古物少太郎ニキセ引破了、思出シ落涙了"。27日に"敷衾仕立了"とあってたぶんこれは敷き布団。少太郎くん7月2日に病にかかり10月13日頃に亡くなったので、その敷き布団を着せて? 埋葬したのかなと思うのだけど。
信長公記には焼死したとしか書いてないし、多聞院日記には切腹して焼けてしまったと書いてあるなあ。 http://t.co/XTvKT3IDjB
日本酒造りで一番恐れられていたのは「火落ち」と呼ばれる腐造現象で、これを防ぐために「火入れ」と呼ばれる加熱殺菌が行われていました。「多聞院日記」http://t.co/4VqPHKL42tには火入れが行われていた記述が見られます。パスツールが低温殺菌法を考案する300年前の話です

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編集者: ぎゅうひ
2015-08-18 22:22:31 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。

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