東国剣記 (@tougoku_kenki)

投稿一覧(最新100件)

これも敵に捕らえられた際に逃げ出す呪法だけどやはり「陳内を遁出」と敵陣に関して陳を使っている。 https://t.co/utoGXH6hES https://t.co/qducESFOS5
植物素材の強さでいうと、藤を編んだものを盾とした藤牌兵(手)という兵科が戚家軍など明軍の一部に見られます。戚家軍の藤牌兵が持つ「腰刀」と呼ばれる湾刀は日本刀的な特徴を持つ刀剣という説が出されています。 https://t.co/27HUGu6qZm https://t.co/9GtgDjEkdd
素朴な語りや迫真性から実戦の知恵が相当含まれると思えて自分も含めて多くの人が甘く接してしまう『雑兵物語』だけど、明暦の大火(1657年)以降の成立らしいと考えると先程の後北条氏のような秀吉の天下統一以前の足軽の姿を探る手掛かりとしてどこまで使っていいのやら。 https://t.co/a4Vg33LS7F https://t.co/4etSI0NM63
RT @baritsu: 面白かった。1910~30年頃の沖縄の青年会や実業補習学校において空手が(体育や兵事的目的もあるが)娯楽として導入されたと。中学等だと体育という言葉で括られてしまうが、娯楽なのね。これは沖縄固有の根付いたものだったというのも大きいだろうけど https…
@DBo2750puu0hfu3 @SagamiNoriaki 紀効新書でも一緒のようなので『武備志』よりはもう少し遡れるかなと。 https://t.co/27HUGu6YOU https://t.co/yHAkLvoTpU
RT @BS_Hakus: @tougoku_kenki 平山優氏が戦国時代の忍びの活動について論考を書かれており、一次史料の記録に残るだけでも何らかの手段で間者が城に侵入し放火を敢行することは度々あり、武将たちも警戒をしていたようですね。 出典:『戦国時代の忍びの実像』20…
栗原氏が飲んだ人参エキス栄養飲料を探しているがどうもこちらのビータではなかったようだ。大正時代に製造販売された嚆矢ではあるようだけど関東大震災の頃には販売をやめているという。戦前の健康ブームで同じような人参エキス飲料が色々出ていたということかな? https://t.co/QgmuBeTw14 https://t.co/HbUDjPwbwN
あとは秀吉の唐入りの100年前の朝鮮王朝実録の記事で鋭利な倭刀が軍事上重要な武器であるという認識が見えたり。 https://t.co/qGf9xRzj92 https://t.co/LDBb5TxF7R
慶長七年に都で「猫繋ぐべからざるの旨」という禁制が出ていたらしい。毛利家中のものより少し前だった。 https://t.co/TI3BpUWRvX

4 0 0 0 OA 宮本武蔵

@SagamiNoriaki 敵の技の情報を入手しそれに勝つために修行をつけてもらうというのは実際大正15年の講談にあるくらいですね。以下引用ツイートのリンク先のページは間違っていて正しくはこちらですが。 https://t.co/2WREl5Oep8 https://t.co/H9a7Q1eLjm
師範に止められながらも中学3年から自己流で二刀を使い始め、21歳で天覧試合準優勝に至った藤本薫選士。複数人から竹刀が軽いのではないかと評されたり一部お歴々からあまりウケがよくなさそうという面もあるけど、この種の異端の人にはどうにも惹かれる。 https://t.co/9qlIgWmTRj https://t.co/oZOQSD2DQ2
学生剣道界における二刀禁止とその背景−昭和天覧試合にみる二刀の競技力と流行から− https://t.co/wQdR5zymNy
RT @baritsu: 「…相手に潜入し、相手に読ませ、相手に攻めさせ、相手を誘導し、相手の読みと動きに連動した形で自身の攻めを発現させる」 剣道の方が読んでどう感じるかはわかんないけど、面白かった。伝書にもよくこんな風な事が書いてある感じ https://t.co/RDvi…

4 0 0 0 OA 宮本武蔵

こちらの講談では卜伝先生(1571年死去)は乗鞍岳に暮らしていて、宮本武蔵(1584年生)は岩柳(巌流)の天下無敵の秘術である燕返しを破るために教えを乞いにいくのか。 https://t.co/aMUv1siO3P https://t.co/cMXzBIyPGz
RT @ToyosakaLabo: 弘前藩四代藩主の津軽信政公のエピソード。居合刀の柄で扇子を抑え、抜き打ちして百発百中だった話。 修武堂の皆さんや有志がこのエピソードを元に扇子切りにチャレンジされてましたね。 https://t.co/UPF4HICmWV

33 0 0 0 OA 昔咄 : 抄録

RT @ToyosakaLabo: 尾張藩二代藩主の徳川光友(瑞龍院)公のエピソード。居合が得意だったけど、父の源敬公に「それは刃引きだろ?それなら誰にもできる(意訳)」と言われちゃった話。 光友公は尾張の新陰流でも有名ですが、居合は上泉権右衛門の弟子若林是入斎から夢想流を学ん…
RT @ToyosakaLabo: 土佐藩初代藩主 山内一豊公の居合刀の話 「山内家の宝蔵に納められある公の居合刀は三尺の刃引きにて頗る重きを公は之を片手にて打ち振られしと」 何流だったのかな。 https://t.co/RubNaqFHWO
RT @baritsu: 宝暦・明和頃刊行の欠題艶本の解題と翻刻 春薬の使い方、効能とその製法を書いた艶本というのが面白い。 「右の末薬を、人の見ぬやうに茶か酒か、又は白湯などの内へ弾き入れ、是を女に興ふれば…」こういうの昔からあったのね https://t.co/hEeBM9…

89 0 0 0 OA 史籍集覧

元禄年間成立の逸話集ですが、 「刀のそりよきころなるハあたりつよし」 「直なるにてはあたりよはくて敵たをれす」 「そりたるにてはきれずといへともたをれぬハなし」 だそうです。 https://t.co/iKCXFQsfW6 https://t.co/gYZ3jVRGi4
明治時代の審判心得において片手打ちや片手突きを取らない理由を、一刀正伝無刀流の伝書や刀法において見られないものだからとするというのも面白い。 https://t.co/Udx0uNsRzl https://t.co/D2dGom5PzK
RT @SagamiNoriaki: ふーん…剣術用の防具より、槍術用の防具の方が先行して発達していた可能性があるのか…ということは、大石が用いたという改良防具は、槍術用のそれの流用かもしれんのね。https://t.co/IAF6kv6CTn

5 0 0 0 江戸文化

RT @baritsu: @tougoku_kenki 榊原の撃剣会では、野見鍉次郎の息子の浜雄の文に、田沢俊明などの出資者が甘い汁を吸って剣士には金は入らなかったとありますね。只働きではないでしょうが儲かるほどではなかったのではと https://t.co/TFiR07mdU…
岡田一男氏の論文だと興行を回数だけ数え日数にしていないのと、純粋な奉納演武であったらしい最後のものを入れているので存続年数等違って見えるが、「生活を潤すものではなく」「低調のうちに終止符を打った」というやはり同じような結論…。 https://t.co/3yUamcoL6R

9 0 0 0 OA 春日権現験記

不意の遭遇でもない限り基本的に矢戦は互いに楯を前面にかざしてその後ろから射る形態をとると考えれば、さぞ根気のいる持久戦だったことかと。これも鎌倉時代後期の春日権現験記絵より。 https://t.co/dRrqSr3D0T https://t.co/uEGs6Oh1Zt

28 0 0 0 OA 春日権現験記

馬上で騎射と太刀打ちがどう切り替えられるかは鎌倉時代後期の『春日権現験記絵』で、青枠内の騎馬武者が左脇に弓を挟んで抜刀しようとしている描写で分かりやすいのではないかと思う。 https://t.co/oDn0eCMGxI https://t.co/4c93x0wd3U

30 0 0 0 OA 史籍集覧

道無を「真壁暗夜軒氏幹」ではなく久幹とする『奥羽永慶軍記』は明治時代に出ていた『史籍集覧』に収録されているほどだし、久幹についての情報は真壁文書などを見ないと得られないほどのレベルではないはずなんだが、この当時の武芸研究界隈では利用されていなかったのかな。 https://t.co/ufdDXLvRjH https://t.co/TfWm0LBg5m

9 0 0 0 OA 春日権現験記

もう一つの手鉾の登場場面には虹が描かれているが、漢籍にあるような凶兆という印象はないな。手鉾の類以外にも棒を担いでいる者がいるが、前の場面で俵を天秤棒で担ぐ人々と違って太刀を佩用しているからもう少し上の身分だし、それとは違う警護用の棒と見てよさそうかな。 https://t.co/RGcpC7f1Ii

9 0 0 0 OA 春日権現験記

前にもちょっと紹介しましたけど反りがなく刺突用だったと考えられる手鉾は『春日権現験記絵』内を探してみるとまだありましたね。 ↓は特に反りがあり刃渡りが大きい普通の薙刀と横並びになっていて描き分けがはっきりわかります。 https://t.co/pgIE9PZ16g

28 0 0 0 OA 春日権現験記

太刀の抜刀というと『春日権現験記絵』の馬上で弓を脇下に挟んで保持しながら抜刀しようとする騎馬武者と、俗にいうパルティアンショットの押捩りを試みている騎馬武者のどちらが勝つのかいつも気になる。 https://t.co/oDn0eCMGxI

4 0 0 0 OA 香取郡誌

大正10年『香取郡誌』には飯笹城(砦)についてこんな記述も。地元の伝承があったらしい。 https://t.co/Kyr0fVFcNB 飯笹砦址 同町大字飯笹字四角山に在り里伝に曰く千葉氏の属砦なりと
@SagamiNoriaki 後漢書にありますね。↓の一番最後の行です。後漢末からはいくらか時代が下った文献になりますが…。 https://t.co/VVJUCYzqw2
先日の山本勘助に関してですが、彼の著作という体裁になっている『兵法秘伝書』に明の『紀効新書』「拳経」に載っている拳法の技が引かれているのが不思議で仕方がない。山本勘助中国拳法家説なんかもあるんでしょうか? https://t.co/YU2LrRPbue
@baritsu https://t.co/TM2mHQtxOh こちらですか?金光師範で有名な六高が寝技重視スタイルの元祖かと勝手に思い込んでいたんですが、初期の試合で四高の森選手に苦しめられたのが六高の寝技研究の発端という証言があったりスタイルの伝播経路やそれが高専柔道全体の様式になっていくというのも面白かったです。

3 0 0 0 OA 皇国剣道史

RT @ToyosakaLabo: これこれ、この辺のやつ。何かの本にきれいに収録されてた気がするけど、思い出せない… https://t.co/bki5TJHDD2

28 0 0 0 OA 春日権現験記

騎射を行う僧形武者はページをめくったこちらのほうがわかりやすいですね。上のツイートだと左上で見切れているだけだったので。 https://t.co/hBszlpoqnk

28 0 0 0 OA 春日権現験記

同じく『春日権現験記』で弓や太刀だけでなく熊手や薙刀を手にした騎馬武者たちの戦いを描く場面でも、右下の方で顔に矢が刺さって倒れている徒歩武者が手鉾を所持しています。他の反りがある薙刀とは明確に描き分けされているのがわかりやすいです。流血描写注意ですが…。 https://t.co/oDn0eCMGxI

9 0 0 0 OA 春日権現験記

以下『春日権現験記』の楯突戦の場面で射殺された徒歩武者の反りのない薙刀様の得物が「手鉾」の一例らしいのですが、これがもう少し長い柄についていたら菊池槍の仲間のように見えてしまうのではないかと思います。 https://t.co/dRrqSr3D0T

5 0 0 0 OA 法然上人伝

手楯の使用が有名な『法然上人絵伝』(鎌倉時代)のこちらの場面でも「腰刀の刃を竹竿の先に取り付けたような原始的な槍」(藤本正行氏)と言われるものが描かれているんですけど実際こちらの摸本でも同じ絵巻の短刀と大差ない穂先がつけられたように見える。 https://t.co/vQCrTtZPRR

13 0 0 0 OA 多聞院日記

史料を見ていると突然スッとこういう情報が出てくるので、やっぱり伊賀の人はこういう事をしていたんだなあと感心してしまいます。 ■『多聞院日記』天文十年十一月廿六日 ・一今朝伊賀衆笠置城忍ヒ入テ少々坊舎放火、其外所々少屋ヲヤキ、三ノツキノ内一ツ居取ト云、 https://t.co/JMGUhFCFYO
片手突きは『続刀勢図』の単刺刀勢の方でした。 https://t.co/ewCqDqCleX
@cakram_bow 片手突きは『続刀勢図』の単刺刀勢ですね。すみません。 https://t.co/ewCqDqCleX

6 0 0 0 OA 十二類巻物

真っ向振り下ろしを「霞」のように受けたり『十二類絵巻』の原本が描かれた室町時代中期には後世ほどの多彩さはないにしてもやはりある程度の剣術の技が出そろっていたと見てよさそう。 https://t.co/wakU9TO05S
地獄の鬼が振り上げる斧にもハート形の「猪目」が開いてるのがなんか几帳面というか。 https://t.co/W4s0SQqP3V

3 0 0 0 OA 結城合戦絵詞

ちょっとずらすと両手遣いの馬上薙刀なども見られたり。 https://t.co/cPCpuRGdMs

3 0 0 0 OA 結城合戦絵詞

『延慶本平家物語』など軍記物に出てくる「額に太刀をつける」構えを絵巻から探そうとしてもイメージに一致したようなのが出てこないですね。むしろ正眼と大差ない構えなんかが原本室町時代の『結城合戦絵巻』に出てきたりするくらいなんですが。 https://t.co/JBByztRlks
「続刀勢図」の方は新当流の影響がありそうだと笠尾氏が書いていたが、こちらは七条(七重)ノ太刀のうちの払の太刀を思わせる。 https://t.co/lIMRFqmgvz
逆手抜刀のある「続刀勢図」も見られて更にありがたい。まあこの後で刀を放り投げて空中キャッチするのが花法化であると『中国武術史大観』では批判されているわけなんですが…。 https://t.co/fXIaVTWmB5
もっとも槍でさえ以下のように片手突きを用いるので、当時の中華武術の動きをそのまま倭刀でやっているだけの可能性も高い。 https://t.co/70hgQnCbSE
片手突きの単撩刀勢。「単刀法選」では弩を用いる時に帯する刀は刃渡り二尺八寸としているが、その長めの刀でも片手突きを使うというのがわかる。 https://t.co/7ezMOtOIGU
峰側で受ける刀背格鉄器勢。 https://t.co/glQMSbfiwM
笠尾氏が中国武術史大観に載せている『単刀法選』は国会図書館蔵のものを日本語訳したと書いてあったのでデジタルコレクションを検索してみたらやはりあった。ありがたい時代です。 https://t.co/O5udrrOnQh
こちらを見る限りでは「介者」という用語自体は江戸時代からある模様。 https://t.co/Htec5ekDW8 但 シ是 ハ 戦 国 ノ遺 風 ニ シテ,介 者 座 ヨ リ 出 タ ル法 也(r田 宮 真 傳 奥儀集22)』)

30 0 0 0 OA 多聞院日記

多聞院英俊のような寺で教育を受けた人でさえ親王任国である上総の受領名は介であると知らず間違えていたのか、それとも間違えて名乗っている先方に配慮して守と記したということなのか。 ■『多聞院日記』永禄十一(1568)年九月廿四日、尾張ノ上総守大津迄出了、 https://t.co/1cTxF2T8yy

30 0 0 0 OA 多聞院日記

■『多聞院日記』永禄十(1567)年十二月十六日 ・中間ノ源八当年数度高名了、二迄首ヲ取了、依之侍ニ成シ、名字を川辺新介ト云々 https://t.co/wCUKqeTxig

3 0 0 0 OA 有馬柔道教範

大正三年『有馬柔道教範』だと現在でいう「移り腰」が「移し腰」と読まれている。掛け手が持ち上げた受け手を能動的に腰に載せかえて投げる技だしむしろ当時の読みの方が形態を正確に表しているかも。 https://t.co/JhCmEri1om

13 0 0 0 OA 多聞院日記

脇差の情報は多聞院日記にあったはずと思って確認したらとりあえず天文12年の記事にありました。 ■『多聞院日記』天文十二(1543)年十一月 ・十日、藤壽丸刀指(かたなさし)了(おわんぬ)。(中略)。脇指(わきざし)ノサケヲ(下緒)クレナヰ(紅)、 https://t.co/BEGdgDcxAU
こんな説もあるのか。 https://t.co/I20FzJGEYU これらの記録に醴 泉こさけのいずみとか酒水という表現で述べられている湧泉は炭酸泉であろうと推定されている(宇田川榕庵ら,後述)

お気に入り一覧(最新100件)

引用はここから。ニュース記事でも、フランスは柔道人口が日本の何倍、みたいな単細胞な記述がよくあるけど、ちゃんと読むべきものを読めと思う https://t.co/9tqD2Gh9tU
面白かった。1910~30年頃の沖縄の青年会や実業補習学校において空手が(体育や兵事的目的もあるが)娯楽として導入されたと。中学等だと体育という言葉で括られてしまうが、娯楽なのね。これは沖縄固有の根付いたものだったというのも大きいだろうけど https://t.co/S8jCmZFxRa
@tougoku_kenki 平山優氏が戦国時代の忍びの活動について論考を書かれており、一次史料の記録に残るだけでも何らかの手段で間者が城に侵入し放火を敢行することは度々あり、武将たちも警戒をしていたようですね。 出典:『戦国時代の忍びの実像』2020,平山優(PDF注意) https://t.co/kGwlDSz04s
「…相手に潜入し、相手に読ませ、相手に攻めさせ、相手を誘導し、相手の読みと動きに連動した形で自身の攻めを発現させる」 剣道の方が読んでどう感じるかはわかんないけど、面白かった。伝書にもよくこんな風な事が書いてある感じ https://t.co/RDviVnrIiR
弘前藩四代藩主の津軽信政公のエピソード。居合刀の柄で扇子を抑え、抜き打ちして百発百中だった話。 修武堂の皆さんや有志がこのエピソードを元に扇子切りにチャレンジされてましたね。 https://t.co/UPF4HICmWV

33 0 0 0 OA 昔咄 : 抄録

尾張藩二代藩主の徳川光友(瑞龍院)公のエピソード。居合が得意だったけど、父の源敬公に「それは刃引きだろ?それなら誰にもできる(意訳)」と言われちゃった話。 光友公は尾張の新陰流でも有名ですが、居合は上泉権右衛門の弟子若林是入斎から夢想流を学んだそうです。 https://t.co/8usHNa4jrT
土佐藩初代藩主 山内一豊公の居合刀の話 「山内家の宝蔵に納められある公の居合刀は三尺の刃引きにて頗る重きを公は之を片手にて打ち振られしと」 何流だったのかな。 https://t.co/RubNaqFHWO
宝暦・明和頃刊行の欠題艶本の解題と翻刻 春薬の使い方、効能とその製法を書いた艶本というのが面白い。 「右の末薬を、人の見ぬやうに茶か酒か、又は白湯などの内へ弾き入れ、是を女に興ふれば…」こういうの昔からあったのね https://t.co/hEeBM9WHPm
ふーん…剣術用の防具より、槍術用の防具の方が先行して発達していた可能性があるのか…ということは、大石が用いたという改良防具は、槍術用のそれの流用かもしれんのね。https://t.co/IAF6kv6CTn

5 0 0 0 江戸文化

@tougoku_kenki 榊原の撃剣会では、野見鍉次郎の息子の浜雄の文に、田沢俊明などの出資者が甘い汁を吸って剣士には金は入らなかったとありますね。只働きではないでしょうが儲かるほどではなかったのではと https://t.co/TFiR07mdUj https://t.co/rQLTDZe6pv
@tougoku_kenki 兵道鏡は魚住先生なんかは真筆と評価されているんですけども、このうち五輪書に通じる内容がどうこうというのについては、多田家は五輪書を寺尾孫之丞に授かった柴任美矩に弟子入りした人間がいて…それを思えば、五輪書との相似は後世文書であることの証拠にもなりえるかと…https://t.co/sZJm19ZQ5A

3 0 0 0 OA 皇国剣道史

これこれ、この辺のやつ。何かの本にきれいに収録されてた気がするけど、思い出せない… https://t.co/bki5TJHDD2

フォロー(46ユーザ)の投稿一覧(直近7日間)

フォロワー(694ユーザ)の投稿一覧(直近7日間)