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投稿一覧(最新100件)
昭和16年(1941年)に出版された「人事興信録」では、高円宮久子妃さまの実家の鳥取家のことが記されています。(コマ番号258/996)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3430444
香川県三豊郡笠田村笠岡の多額納税者である鳥取為三郎氏(久子さまの祖父)と、その親戚と思われる鳥取富士男氏の経歴が詳しく載っています。
もし守谷慧さんのお母さまが鳥取家 ...
「日本紋章学」という本に、輪違紋についての解説が書かれています。(コマ番号694/797)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879378/765?tocOpened=1
「輪違紋とは、二個若くは二個以上の環状をなせるものの互に交錯せるものを云ふ。」
参考図案として「結三輪違」が紹介されています。
「逆三つ輪ちがい」という家紋はインターネットで検索しても ...
「姓氏家系大辞典」には次のように書かれています。(コマ番号551/1139)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/453?tocOpened=1
「清和源氏小笠原支流
信濃国の豪族、伴野六郎時長の庶流にして、信濃国佐久郡志村より起ると云ふ。寛政系譜六家を収む。「若狭貞盈―貞精―貞昌」なり。家紋丸に一文字、丸に五丁子。一族甲斐に栄ゆ。」
家紋は「 ...
「姓氏家系大辞典」には次のように書かれています。(コマ番号551/1139)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/453?tocOpened=1
「清和源氏小笠原支流
信濃国の豪族、伴野六郎時長の庶流にして、信濃国佐久郡志村より起ると云ふ。寛政系譜六家を収む。「若狭貞盈―貞精―貞昌」なり。家紋丸に一文字、丸に五丁子。一族甲斐に栄ゆ。」
家紋は「 ...
「日本紋章学」という本で調べると、以下のように書かれています。(コマ番号354/797)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879378
「根株の形状を示せるものを、根竹、又は株竹といふ」
「根竹に陣笠」とか「株竹に陣笠」をインターネットで検索しても、まったく図案が出てきませんね。
「根竹」と似たような家紋で「根笹」というものがあります。
おそらく質問者さ ...
「幕府祚胤伝」によれば、徳川重好が「清水家」を称するようになったのは宝暦8年12月朔日です。(コマ番号169/282)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879210/105?tocOpened=1
「御屋舗地被進、称清水御屋形」
徳川家重の治世下での出来事でした。
松平定信の男系の子孫については、「平成新修旧華族家系大成」に掲載されています。
大正3年に出版された「華族大系」でも、松平子爵家の家系を閲覧することができます。(コマ番号288/505)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950444/131?tocOpened=1
松平定信―定永―定和―定猷―定敬(松平義建七男)―定教(定猷長男)―定晴(定敬四男、定教の婿養 ...
松平定信の男系の子孫については、「平成新修旧華族家系大成」に掲載されています。
大正3年に出版された「華族大系」でも、松平子爵家の家系を閲覧することができます。(コマ番号288/505)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950444/131?tocOpened=1
松平定信―定永―定和―定猷―定敬(松平義建七男)―定教(定猷長男)―定晴(定敬四男、定教の婿養 ...
明治21年に出版された「朝鮮地誌略 巻8(全羅道之部)」によれば、「全州」について以下のように書かれています。(コマ番号9/183)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766912/9?viewMode=
「本ト百済ノ完山ナリ・・・李太祖元年其郷里ナルヲ以テ陞セテ完山留守府トス太宗三年今名ニ改ム世祖ノ時鎮ヲ置ク」
「全州」は百済の時代には「完山」と呼ばれてお ...
昭和13年に出版された「大和めぐり」という本に、川原寺のことが書かれています。(コマ番号6/36)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094105/6?viewMode=
「川原寺(弘福寺)址 (指定史蹟)
高市郡高市村川原
当寺は斉明天皇の川原宮(又は河辺宮)を改め給ふたもので(或は敏達天皇の十二年蘇我馬子の創立とも云ふ)、天武天皇の朝には、奈良三大寺の一 ...
昭和13年に出版された「大和めぐり」という本に、川原寺のことが書かれています。(コマ番号6/36)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094105/6?viewMode=
「川原寺(弘福寺)址 (指定史蹟)
高市郡高市村川原
当寺は斉明天皇の川原宮(又は河辺宮)を改め給ふたもので(或は敏達天皇の十二年蘇我馬子の創立とも云ふ)、天武天皇の朝には、奈良三大寺の一 ...
昭和13年に出版された「大和めぐり」という本に、川原寺のことが書かれています。(コマ番号6/36)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094105/6?viewMode=
「川原寺(弘福寺)址 (指定史蹟)
高市郡高市村川原
当寺は斉明天皇の川原宮(又は河辺宮)を改め給ふたもので(或は敏達天皇の十二年蘇我馬子の創立とも云ふ)、天武天皇の朝には、奈良三大寺の一 ...
そんなに松平定信って、血筋の悪い生まれなのですか?
戦前の本ですが、徳富蘇峰(猪一郎)が著した「近世日本国民史」という本があります。(コマ番号26/306)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1228533/26?viewMode=
松平定信は幼少の頃、生家の田安邸が火事にみまわれ、一家そろって江戸城内に避難していたことがありました。
そのさい、将軍・徳川家治 ...
大正15年に出版された「日本考古学」という本には、弥生式土器の名称の由来として次のように書かれています。(コマ番号88/245)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/936458/87?viewMode=
「明治ニ十二年の頃坪井博士は本郷向ヶ岡の貝塚を調査して之を東洋学芸雑誌に登載せる事有りし、当時弥生式土器を其遺物中に交へ出せしも不明にて終れり、同ニ十六年西ヶ ...
昭和4年に出版された「京都」という本に、清水寺の由来が書かれています。(コマ番号141/160)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170851/141?viewMode=
「清水寺は音羽山と號し、法相宗で南都興福寺に属してゐる。縁起の語るところによれば、大和国高市郡小島寺の延鎮といふ僧が、宝亀年間、山城木津川上に草庵を結び、観音を安置したが、偶々坂上田村麻 ...
大正2年に出版された「青年座右銘・格言集」に、保科正之の遺訓が載っています。(コマ番号89/110)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/916317/89?viewMode=
一、大君の義、一心大切に忠勤をなすべし、列国の例を以て、自ら居らざるべからず。若二心を懼かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従ふべからず。
一、武備を意とすべからず、士を撰むを本となすべ ...
大正2年に出版された「青年座右銘・格言集」に、保科正之の遺訓が載っています。(コマ番号89/110)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/916317/89?viewMode=
一、大君の義、一心大切に忠勤をなすべし、列国の例を以て、自ら居らざるべからず。若二心を懼かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従ふべからず。
一、武備を意とすべからず、士を撰むを本となすべ ...
兵庫県朝来市和田山町筒江にある「茶すり山古墳」ですね?
そのすぐ近くには「天空の城」の異名を持つ「竹田城」がありますね。
明治36年に出版された「朝来志」という本には「茶すり山」について、以下のように書かれています。(コマ番号56/69)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765376/39?tocOpened=1
「俗伝ニ院本演劇ニ有名ナル関取千両幟ノ鉄ヶ嶽 ...
足利義昭と足利義栄の官位について調べてみました。
「足利家官位記」によれば、この二人の官位履歴について次のように書かれています。(コマ番号154/394)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879440/149?viewMode=
「義昭 元義秋。天文六年十一月三日誕生。叙位。左馬頭。永禄十一年十月十八日従四位下。同日参議左中将。征夷大将軍。禁色昇殿。三十二 ...
足利義昭と足利義栄の官位について調べてみました。
「足利家官位記」によれば、この二人の官位履歴について次のように書かれています。(コマ番号154/394)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879440/149?viewMode=
「義昭 元義秋。天文六年十一月三日誕生。叙位。左馬頭。永禄十一年十月十八日従四位下。同日参議左中将。征夷大将軍。禁色昇殿。三十二 ...
足利義昭と足利義栄の官位について調べてみました。
「足利家官位記」によれば、この二人の官位履歴について次のように書かれています。(コマ番号154/394)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879440/149?viewMode=
「義昭 元義秋。天文六年十一月三日誕生。叙位。左馬頭。永禄十一年十月十八日従四位下。同日参議左中将。征夷大将軍。禁色昇殿。三十二 ...
渋沢栄一の著した「徳川慶喜公伝」には、以下のように書かれています。(コマ番号71/286)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953146/62?tocOpened=1
「八郎麿(初の名は昭融、字は子令、信山と號す)は、武蔵河越の藩主松平誠丸典則の養嗣となり、大和守直候と名乗りしが・・・」
この本には、徳川慶喜の兄弟の字と号もすべて書かれていますね。
蜂須賀家政のWikipediaを見ると「阿波の古狸」のエピソードは「渭水聞見録」という書物からの引用らしいです。
「渭水聞見録」は蜂須賀家の歴史書で、徳島藩の儒学者である増田立軒(1673-1743)によって元文元年(1736年)に著されました。
東京の国立国会図書館にはマイクロ資料として「渭水聞見録」が所蔵されています。
分類に「和古書、漢籍」とあるので、おそらく原本からの複写本なのではないかと ...
岡吉正のWikipediaを見ると、「本願寺攻めの陣頭に立つ信長を狙撃し、彼の大腿部に重傷を負わせた。」と書かれています。
たしかにこの記述は大げさで、すこぶる怪しいですね。
織田信長が雑賀衆に鉄砲で狙撃されたのは、天正4年(1576年)5月の天王寺の戦いでの出来事です。
「信長公記」では、以下のように書かれています。(コマ番号122/417)
http://dl.ndl.go.jp/info:n ...
岡吉正のWikipediaを見ると、「本願寺攻めの陣頭に立つ信長を狙撃し、彼の大腿部に重傷を負わせた。」と書かれています。
たしかにこの記述は大げさで、すこぶる怪しいですね。
織田信長が雑賀衆に鉄砲で狙撃されたのは、天正4年(1576年)5月の天王寺の戦いでの出来事です。
「信長公記」では、以下のように書かれています。(コマ番号122/417)
http://dl.ndl.go.jp/info:n ...
お静の方(浄光院)の出自については、ふたつの説があります。
武州板橋郷竹村の大工の娘という説と、小田原北条氏の家来・神尾栄加の娘という説です。
「柳営婦女伝叢」では、以下のように書かれています。(コマ番号24/282)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879210/24?tocOpened=1
「台徳院殿(将軍秀忠公)の御末男保科肥後守正之卿の御母堂は、武 ...
お静の方(浄光院)の出自については、ふたつの説があります。
武州板橋郷竹村の大工の娘という説と、小田原北条氏の家来・神尾栄加の娘という説です。
「柳営婦女伝叢」では、以下のように書かれています。(コマ番号24/282)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879210/24?tocOpened=1
「台徳院殿(将軍秀忠公)の御末男保科肥後守正之卿の御母堂は、武 ...
森長可の信仰していた宗派についてインターネットでいろいろと調べてみたのですが、どこにもなにも書かれていませんね。
「寛政重修諸家譜」で森長可について調べたところ、次のように書かれていました。(コマ番号389/600)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717
森長一 或長可、勝蔵、武蔵守
鉄圍秀公雄心院と號す、葬地可行におなじ。
森可行 小太郎、越後 ...
森長可の信仰していた宗派についてインターネットでいろいろと調べてみたのですが、どこにもなにも書かれていませんね。
「寛政重修諸家譜」で森長可について調べたところ、次のように書かれていました。(コマ番号389/600)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082717
森長一 或長可、勝蔵、武蔵守
鉄圍秀公雄心院と號す、葬地可行におなじ。
森可行 小太郎、越後 ...
戦前に出版された「岡崎市史」という本には「桶狭間合戦記」と題して、以下のようなことが書かれています。(コマ番号205/430)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1170586/193?viewMode=
「服部小平太忠次、大将と見て真先に突いてかゝる、義元太刀を執つて服部が槍の柄を打折り、膝口を切割る、毛利新介秀高来り助けて義元を組伏せ、首を取らんとせしが、 ...
「寛政重修諸家譜」で本多正貫の経歴を調べてみると、以下のように書かれています。(コマ番号366/617)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713
「実は長坂太郎左衛門重吉が長男、母は本多正重が女、正重が外孫たるをもつて養子となる。」
さらに、旗本の長坂氏について調べてみましたが、長坂重吉という人物を見つけることはできませんでした。
「血鑓九郎」の異 ...
「寛政重修諸家譜」で本多正貫の経歴を調べてみると、以下のように書かれています。(コマ番号366/617)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082713
「実は長坂太郎左衛門重吉が長男、母は本多正重が女、正重が外孫たるをもつて養子となる。」
さらに、旗本の長坂氏について調べてみましたが、長坂重吉という人物を見つけることはできませんでした。
「血鑓九郎」の異 ...
日本の文献上での「王」の初出では、日本書紀の「彦坐王(ヒコイマスノミコ)」が一番最初です。(コマ番号60/300)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/259?tocOpened=1
「古事記」でもやはり「日子坐王(ヒコイマスノミコ)」が「王」のつく名前の最初です。(コマ番号580/596)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndl ...
日本の文献上での「王」の初出では、日本書紀の「彦坐王(ヒコイマスノミコ)」が一番最初です。(コマ番号60/300)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991091/259?tocOpened=1
「古事記」でもやはり「日子坐王(ヒコイマスノミコ)」が「王」のつく名前の最初です。(コマ番号580/596)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndl ...
長州藩(毛利家)が、相合元網の殺害事件を隠蔽したり偽造したりする必要や理由はないと思いますが?
新井白石が元禄15年(1702年)に著した「藩翰譜」では、次のように書かれています。(コマ番号62/86)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142651
「興元早世し、其子幸松丸八歳にて家を継ぎ、十三歳にて死す、一説幸松丸九才にして早世すといふ。元就、就勝、興 ...
長州藩(毛利家)が、相合元網の殺害事件を隠蔽したり偽造したりする必要や理由はないと思いますが?
新井白石が元禄15年(1702年)に著した「藩翰譜」では、次のように書かれています。(コマ番号62/86)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142651
「興元早世し、其子幸松丸八歳にて家を継ぎ、十三歳にて死す、一説幸松丸九才にして早世すといふ。元就、就勝、興 ...
「海東諸国記」は、デジタルコレクションでも閲覧できます。(コマ番号17/161)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1193135
また、「大日本地名辞書」にも対馬の地名が解説されています。(コマ番号818/933)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937057/818?tocOpened=1
「海東諸国記」所収の「日 ...
「海東諸国記」は、デジタルコレクションでも閲覧できます。(コマ番号17/161)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1193135
また、「大日本地名辞書」にも対馬の地名が解説されています。(コマ番号818/933)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937057/818?tocOpened=1
「海東諸国記」所収の「日 ...
インターネットで検索すると「矧川」は「しんせん」と振り仮名がふってあります。
しかし、明治時代の書籍を調べてみると「矧川」は「いんせん」と読まれていたらしいです。(コマ番号127/187)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900063/127?viewMode=
また、「矧川漁長」の号は「志賀重昂全集」にも書かれていますが、振り仮名がないのでなんと読むのか不 ...
インターネットで検索すると「矧川」は「しんせん」と振り仮名がふってあります。
しかし、明治時代の書籍を調べてみると「矧川」は「いんせん」と読まれていたらしいです。(コマ番号127/187)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900063/127?viewMode=
また、「矧川漁長」の号は「志賀重昂全集」にも書かれていますが、振り仮名がないのでなんと読むのか不 ...
明治32年に出版された「歴代大仏師譜」という書籍には、奈良仏師の伝記が詳細に書かれています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/849921
質問者さまの提示された条件に合う仏師は、残念ながら見当たりませんね。
「武道家になった」とありますが、仏師たちはだいたい僧形で「法印」とか「法眼」などの僧官に任じられるのがふつうです。
奈良の僧侶で武道家になった人で思い ...
文武天皇のお后で聖武天皇の母の宮子は、実は藤原不比等の養女だったという説があります。
和歌山県日高郡日高川町にある道成寺というお寺の開創縁起に、宮子姫にまつわる伝説があります。
「まんが日本昔ばなし」でも、宮子姫のエピソードは「髪長姫」という題で放映されたことがあります。
昭和10年に出版された「紀州」という本にも以下のように書かれています。(コマ番号58/159)
http://dl.ndl.g ...
宮内大丞とは、明治時代の宮内省の四等官にあたります。
「官職一覧」(明治8年)によれば、明治初期の頃の宮内省の官位と職掌は次のようになっています。(コマ番号22/63)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784425/22?viewMode=
卿 一等官 本省及各寮ノ官員ヲ統率シ省中一切ノ事務ヲ総制スルヲ掌ル
大輔 二等官 職掌責任卿ニ亜グ
少輔 三等官
大 ...
宮内大丞とは、明治時代の宮内省の四等官にあたります。
「官職一覧」(明治8年)によれば、明治初期の頃の宮内省の官位と職掌は次のようになっています。(コマ番号22/63)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/784425/22?viewMode=
卿 一等官 本省及各寮ノ官員ヲ統率シ省中一切ノ事務ヲ総制スルヲ掌ル
大輔 二等官 職掌責任卿ニ亜グ
少輔 三等官
大 ...
明治28年に出版された「鎌倉旧蹟地誌」という本に、五頭龍の伝説が書かれています。(コマ番号62/86)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763750/62?viewMode=
◯龍口明神社
津村腰越両村ノ鎮守ナリ神体ハ五頭ノ蛇形ニテ白髭明神ヲ前立トス相伝フ欽明帝十三年江嶋神女ノ霊感ニ因リテ降伏セシ深澤ノ毒龍ヲ祀レルト
◯江ノ嶋
縁起ニハ曩昔深澤長湖ナリシ頃 ...
安政年間の「武鑑」によれば、五味靱負豊済は山内豊著の次男で、山内容堂(豊信)の実弟らしいです。(コマ番号97/111)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2547070?tocOpened=1
「寛政重修諸家譜」によれば、養家の五味家は山内家の分家で、山内一豊の弟・山内法眼の子の政義が五味姓を名乗ったらしいですね。(コマ番号174/542)
http://dl ...
安政年間の「武鑑」によれば、五味靱負豊済は山内豊著の次男で、山内容堂(豊信)の実弟らしいです。(コマ番号97/111)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2547070?tocOpened=1
「寛政重修諸家譜」によれば、養家の五味家は山内家の分家で、山内一豊の弟・山内法眼の子の政義が五味姓を名乗ったらしいですね。(コマ番号174/542)
http://dl ...
「伊香保志 下巻」(明治15年)には、木暮家の家系図が載っています。(コマ番号18/47)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763591
源祐利(木暮下総守、入道存真、天正十八年八月朔日歿)―祐行(木暮下総守、実は惣社勝山城主関口若狭守ノ次男、室ハ祐利ノ長女)―祐直(木暮藤次郎、後ニ八左衛門、別家之後、祖父祐利隠居ヲ承、正保五年二月八日歿)―某(木暮新八郎、 ...
「でんかん」ではないでしょうか?
インターネットで検索しても読み方や意味が出てこないので、現代では「殿館」という言葉は一般的には使われていないようですね。
戦前の城郭建築について書かれた本には「殿館」という言葉がよく使われています。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240415/32?viewMode=
「二條城の殿館」とか「本丸殿館」「西丸殿館」「殿館建 ...
こうした古代豪族の詳しい出自を解説した本で「古代氏族系譜集成」(宝賀寿男・著、古代氏族研究会)というものがあります。
十数年前に国会図書館で閲覧したことがありましたが、たしか奥州藤原氏の系図の中に、こういうトンデモ説が紹介されていたような記憶があります。
「姓氏家系大辞典」でも、坂上田村麿の系図として以下のように書かれています。(コマ番号126/562)
http://dl.ndl.go.jp/i ...
都甲市郎左衛門ではなく、都甲斧太郎という人物は実在しました。
徳富猪一郎の著した「勝海舟伝」の中に、海舟が大槻如電に送った書簡として以下のの文章が引用されています。(コマ番号31/196)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1880409/27?tocOpened=1
「当年を思出候へば、幕臣にて、アベセの片端をも読得候ものは、士大夫中々無之。小拙其頃筑前藩永 ...
小野権之丞が神社の鳥居の下に縛り付けられた逸話は、彼の日記からも確認できます。(コマ番号90/278)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1075171/78?tocOpened=1
「病者心配兼▢約し置候マレンタ之方へ罷越相頼呉候様歎願ニ付即刻罷出相頼帰路不動之前ニ▢官軍ニ出逢縛ニ附鳥井下ニ一時余居ル従夫見合帰ル」
ただ、アイヌの人々に助けられたとは書かれ ...
「足利家官位記」によれば、足利将軍で改名した人物は、初代・尊氏(高氏)を抜かせば全部で7人です。(コマ番号149/394)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879440/149?viewMode=
六代将軍・義教
応永35年3月12日、還俗して義宣と名乗る
永享元年3月15日、征夷大将軍となり義教と改名
八代将軍・義政
文安3年12月13日、義成と名 ...
「訳文大日本史」では、以下のように書かれています。(コマ番号66/388)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771745/66?tocOpened=1
「初め、法皇、忠実に勅して、其の女泰子を帝の宮に納れよとせしに、忠実、固辞しければ、法皇、怒って、藤原公実が女璋子を養ひて、以て之を納れたり。帝の幼かりしとき、挙止軽躁にして、或は小弓にて人を射る。忠実、之を ...
戦前の本ですが、「国史国文之研究」の中に源義親のことが書かれていました。(コマ番号119/242)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920891/119?viewMode=
以下、この本をもとに源義親の乱を解説してみます。
源義親は初め、白河法皇の寵臣・藤原宗通に仕えて六位に叙せられ、対馬守に任ぜられ、その後、従五位下となりました。
大江匡房が大宰権帥であ ...
「人事興信録」(明治44年版)には、伊地知姓の人物が六名載っています。(コマ番号107/1002)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779812/12?tocOpened=1
伊地知徳之助
伊地知壮熊
伊地知幸介
伊地知季珍
伊地知正一郎
伊地知彦次郎
このうち、徳之助と壮熊は兄弟で、その妹が彦次郎の妻。
幸介の妻は、西郷従徳(隆盛の弟・従道の次男)の養妹 ...
甲田という苗字を「姓氏家系大辞典」で調べてみると、以下のように書かれています。(コマ番号923/987)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130845/758?tocOpened=1
甲田 カフタ
1. 清和源氏 本国甲斐。源頼政の子頼兼の孫盛員が八世憲頼の後なりと云ふ。
2. 河内の甲田氏 丹比郡田村郷の名族に甲田好隆あり。
3. 美作の甲田氏 前項好隆 ...
「臨時朝鮮派遣」で検索すると、以下のホームページが見つかりました。
http://nekonote.jp/korea/old/fukei/tegu/rinji-sireibu.html
明治43年(1910年)の韓国併合後、朝鮮各地では併合に反発する勢力がたびたび暴動を起こしていたようです。
戦前に発行されていた官報で確認しても、1910年から1915年にかけて陸軍が臨時朝鮮派遣隊を編成していま ...
蒲生氏郷の直系の子孫は公的な見解では断絶していますね。
松江藩士の蒲生忠兵衛については、以下のホームページに書かれています。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/8180/syousi.gamou.html
蒲生忠兵衛は蒲生氏支流の儀俄氏の出身で、1587年、九州島津攻めの後、蒲生姓を賜ったそうです。
蒲生氏郷のことをデジタルコレクションでも検索して ...
弘化三年の武鑑では、細川行芬(初名は之壽)について以下のように書かれています。(コマ番号59/111)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2547206?tocOpened=1
細川豊前守之壽
御内室 毛利出雲守高翰娘
さらに、毛利高翰の子供たちについては以下のようになっています。(コマ番号75/111)
女子 細川豊前守之壽室
高泰 安房守
女子 瀧川堅 ...
「久世道煕」ではなく「久世通煕」をデジタルコレクションで検索すると、以下の「久世家文書」が出てきます。(コマ番号6/214)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917590
来歴については、
「公卿補任ニ按ズルニ久世通煕ノ議奏在職ハ加勢安政五年十一月十一日補、同月二十三日免、安政六年二月二日補、同月十二日轉、同月三月二十七日補、同年五月五日免、同年七月八日補 ...
「久世道煕」ではなく「久世通煕」をデジタルコレクションで検索すると、以下の「久世家文書」が出てきます。(コマ番号6/214)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917590
来歴については、
「公卿補任ニ按ズルニ久世通煕ノ議奏在職ハ加勢安政五年十一月十一日補、同月二十三日免、安政六年二月二日補、同月十二日轉、同月三月二十七日補、同年五月五日免、同年七月八日補 ...
富岡八幡宮の宮司職を務めてきた富岡家は、もともとは八幡宮に付属していた永代寺の別当職を代々務めていたそうです。
戦前に編纂された「深川区史」という本に、以下の系図が載っています。(コマ番号485/542)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020207/26?tocOpened=1
長盛上人―秀賀―覚雄―周光―周範―周応―周岳―周英―周厳―周龍―周勝―周宥― ...
富岡八幡宮の宮司職を務めてきた富岡家は、もともとは八幡宮に付属していた永代寺の別当職を代々務めていたそうです。
戦前に編纂された「深川区史」という本に、以下の系図が載っています。(コマ番号485/542)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020207/26?tocOpened=1
長盛上人―秀賀―覚雄―周光―周範―周応―周岳―周英―周厳―周龍―周勝―周宥― ...
小泉八雲の『霊の日本』という本の内容は、以下の「小泉八雲全集・第七巻」に収められています。
https://archive.org/details/koizumiyakumozen07hearuoft
「因果話」は、169~175ページに書かれています。
巻末の「あとがき」によると、この「因果話」の元ネタになった話は「百物語・第十四席、松林伯圓の話」らしいです。
「百物語」は、国会 ...
明治42年に著された「新潟県市町村名全書」には、江戸時代の頃の村の合併沿革表が出ていますが、「飛永村」という村名は書かれていませんね。(コマ番号18/73)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764699/17?tocOpened=1
似たような村名で、米納津村に合併された「富永村」があるだけです。
「とびなが」も「とみなが」も似たような発音なので ...
「週刊新潮」の記事を熟読してみると、NHKに抗議した鳥越本家の当主・鳥越光氏の主張の主旨は次のようになりますね。
1. 鳥越興膳の子孫は鳥越本家であり、鳥越製粉の鳥越家は偶然姓が同じだっただけで血縁関係はない。
2. 鳥越繁喜氏が作成した「鳥越家基本系図」は鳥越本家の家系図を元に書かれたものである。
3. 「鳥越家基本系図」で鳥越本家が始祖の鳥越興膳と繋がっていないのはおかしい。
...
「週刊新潮」の記事を熟読してみると、NHKに抗議した鳥越本家の当主・鳥越光氏の主張の主旨は次のようになりますね。
1. 鳥越興膳の子孫は鳥越本家であり、鳥越製粉の鳥越家は偶然姓が同じだっただけで血縁関係はない。
2. 鳥越繁喜氏が作成した「鳥越家基本系図」は鳥越本家の家系図を元に書かれたものである。
3. 「鳥越家基本系図」で鳥越本家が始祖の鳥越興膳と繋がっていないのはおかしい。
...
「日本紋章学」という本には、日の丸扇や月丸扇について次のように説明されています。(コマ番号59/797)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879378/765?tocOpened=1
「佐竹氏が奥州征討のみぎり、頼朝より月丸を画ける五本骨の扇を賜はりたるを光栄としこれを記念せんがために、五本骨ニ月丸を家紋と定めたる・・・」
「那須宗隆の後裔より出で ...
珍しい家紋というより、形状があまりにも幾何学的すぎませんか?
「日本紋章学」という本で調べてみたのですが、いちばん形が近そうな家紋で「蕨(わらび)紋」というものがありました。(コマ番号420/797)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879378/598?tocOpened=1
くねくねと生えた蕨の茎の間に、剣が五つ挟まれているように見えますね。
...
「徳川実紀」には、以下のように書かれています。(コマ番号209/520、239/520)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917811/192?tocOpened=1
「慶長十一年八月十一日、大御所御参内あり、五郎太丸長福丸両君も同じくまいらせたまふ。ともに従四位下に叙任せられ、五郎太丸君右兵衛督に任ぜられ義利朝臣(後義直と改らる)となのらせ給ふ。長 ...
「徳川実紀」には、以下のように書かれています。(コマ番号209/520、239/520)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917811/192?tocOpened=1
「慶長十一年八月十一日、大御所御参内あり、五郎太丸長福丸両君も同じくまいらせたまふ。ともに従四位下に叙任せられ、五郎太丸君右兵衛督に任ぜられ義利朝臣(後義直と改らる)となのらせ給ふ。長 ...
「徳川実紀」には、以下のように書かれています。(コマ番号209/520、239/520)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1917811/192?tocOpened=1
「慶長十一年八月十一日、大御所御参内あり、五郎太丸長福丸両君も同じくまいらせたまふ。ともに従四位下に叙任せられ、五郎太丸君右兵衛督に任ぜられ義利朝臣(後義直と改らる)となのらせ給ふ。長 ...
Wikipediaでは、たしかに貞松院の生年は1591年と記されていますね。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E6%9D%BE%E9%99%A2_(%E5%B0%8F%E5%87%BA%E5%90%89%E8%8B%B1%E6%AD%A3%E5%AE%A4)
「寛文4年(1644年)、74歳で死去し、天徳寺に葬られた。」と書いてあるので、それ ...
以下は昭和5年に出版された「東京府市町村勢便覧」という本です。
豊多摩郡中野町の雑色区長で田中甚蔵という人物がいます。(コマ番号22/333)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276522/17?tocOpened=1
「雑色区長 田中甚蔵 中野町大字雑色 524」
お探しの人物はこの方でしょうか?
「日本史蹟大系」という本に、豊臣秀頼の脇差のことが書かれています。(コマ番号174/186)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1162114/8?tocOpened=1
「十五坪の一倉、忽ち、一団の火焔となつて、堂と、崩れ落て、後には、秀頼佩用の骨喙(ほねはし)と称する一尺九寸五分の脇差を留めしばかり、復た一片の骨をも残さず」
この本以外 ...
以下の本に、徳川秀忠の系図が出ています。(コマ番号132/282)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879210/105?tocOpened=1
「天正十八年正月十五日、於聚楽亭秀吉公奉授其諱奉称秀忠公」
「秀」の字は豊臣秀吉から授かったものです。
「寛政重修諸家譜」を見てみると、松平家の歴代の名前は以下のように書かれています。( ...
以下の本に、徳川秀忠の系図が出ています。(コマ番号132/282)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879210/105?tocOpened=1
「天正十八年正月十五日、於聚楽亭秀吉公奉授其諱奉称秀忠公」
「秀」の字は豊臣秀吉から授かったものです。
「寛政重修諸家譜」を見てみると、松平家の歴代の名前は以下のように書かれています。( ...
以下の本は、大正時代の知多郡の高額納税者の名簿です。(コマ番号114/125)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/907424/114?viewMode=
やはり新美さんと榊原さんが多いですね。
名字の由来は定かではありませんが、全員なんらかの商売を営んでいて、資産家と呼ばれるような人たちだったようです。
家が裕福なら子供も多いし、当然子孫も ...
わざわざリクエストしてくださり、ありがとうございます。
質問者さまの主張は、だいたい以下のようなものなのですね?
1. 青木家の祖先は弘安4年には送木村に実在していた。
2. 奉納先の神社では宝物とし、毎年祭りを行っている。
3. 青木家は明治2年に全焼により古文書もすべて焼失している。
4. 「大坂城落城の」で始まる由来書は、当時の当主が言い伝えをもとに明治8年に書いたもの。
5 ...
後醍醐天皇と関係がありそうなのは、北区滝沢町の南西にある井伊谷ではないでしょうか?
以下の本に、井伊谷や滝沢のことが書かれています。(コマ番号42/244)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/949411/40?viewMode=
「井伊古城址
井伊谷にあり今城山といふ井伊共保の居城子孫世々此地に居り建武の頃吉野の朝廷に事へ延元元年宗良親王入 ...
浜松市天竜区というのは、もと磐田郡だったところですね?
二俣城付近は江戸時代には豊田郡に属していました。
以下の本に二俣城のことが書かれています。(コマ番号139/171)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980806/132?tocOpened=1
「二俣城址
二俣町にあり、文亀年間二俣昌長の築く所なりといふ。元亀三年徳川家康の将中 ...
松平長七郎は、村上元三が書いた小説の主人公ですね?
里見浩太朗が主演のテレビドラマも人気がありました。
「幕府祚胤伝」という江戸時代に編纂された書物には、徳川忠長の子として長七という子供がいたことになっています。(コマ番号138/282)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879210/105?tocOpened=1
「世俗伝、有名長七殿者 ...
松平長七郎は、村上元三が書いた小説の主人公ですね?
里見浩太朗が主演のテレビドラマも人気がありました。
「幕府祚胤伝」という江戸時代に編纂された書物には、徳川忠長の子として長七という子供がいたことになっています。(コマ番号138/282)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879210/105?tocOpened=1
「世俗伝、有名長七殿者 ...
以下の戦前に出版された古事記には、次のように書かれています。(コマ番号78/145)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/772038/74?tocOpened=1
「相武国に到れる時に、其の国造、詐りて白さく。此の野の中に大沼あり、是の沼の中に住める神、甚だ敏捷にして乱暴なる神なりと。是に於て其の神を看むとて、其の野に入りませしに、其の国造、野に ...
戦前の本をいろいろ調べてみたのですが、たしかに「りゅうま」とフリガナが振ってありますね。
以下の昭和8年ごろの本では「坂本龍馬」(さかもとりゅうま)と書かれています。(コマ番号41/106)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209471/41?viewMode=
昭和15年のこの本では「阪本龍馬」(さかもとりうま)となっています。(コマ番号 ...
戦前の本をいろいろ調べてみたのですが、たしかに「りゅうま」とフリガナが振ってありますね。
以下の昭和8年ごろの本では「坂本龍馬」(さかもとりゅうま)と書かれています。(コマ番号41/106)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209471/41?viewMode=
昭和15年のこの本では「阪本龍馬」(さかもとりうま)となっています。(コマ番号 ...
「寛政重修諸家譜」には、以下のように書かれています。(コマ番号96/541)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082721
「豊臣氏 木下
もとは平氏にして杉原を称す。家定がとき豊臣太閤より豊臣氏をよび木下の称号を与へらる。」
木下家はもともと「平姓、杉原氏」でした。
「豊臣姓、木下氏」をやめて、元の姓氏に戻すことも可能だったと思い ...
以下の本に、正親町家と正親町三条家のことが書かれています。(コマ番号108/443、172/443)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879484/89?tocOpened=1
○正親町家
伯爵、閑院家、西園寺分家、洞院支流、三百五十五石九斗
鎌足ノ裔、太政大臣公経ノ後裔ナリ
○嵯峨家
侯爵、大臣家、三条分家、旧姓正親町三条、二百石
鎌 ...
以下の本に、姫津のことが書かれています。(コマ番号149/654)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937058/142?tocOpened=1
「相川町と北狄の間なる漁村なり、続風土記云、魚鹽の利は海国の要なれども、昔は其事に疎かりしを、慶長九年甲辰の春、石見国の海浜の民を移して、姫津の浦と云ふ所に置き、国の内にて漁業を業にし、土人にてあまねく見な ...
「坂田郡志」(大正2年)には、以下のように書かれています。(コマ番号163/578)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925913/27?viewMode=
「後鳥羽上皇式内山津照神社に御参拝あり、御祈願の事あり。菊桐の紋章と宝剣等を納め給ふ(息長村誌、近江名蹟案内)」
「近江名跡案内」(明治24年)にも、後鳥羽上皇が坂田郡に行幸したとの記事が書 ...
「坂田郡志」(大正2年)には、以下のように書かれています。(コマ番号163/578)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/925913/27?viewMode=
「後鳥羽上皇式内山津照神社に御参拝あり、御祈願の事あり。菊桐の紋章と宝剣等を納め給ふ(息長村誌、近江名蹟案内)」
「近江名跡案内」(明治24年)にも、後鳥羽上皇が坂田郡に行幸したとの記事が書 ...
「日本紋章学」という本に、亀甲紋についての説明が書かれていました。(コマ番号704/797)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1879378/208?tocOpened=1
亀甲紋はもともと出雲大社の神紋で、南北朝時代あたりから家紋として用いられるようになり、室町時代の家紋集「見聞諸家紋」という本には「藤民部」という人物が「亀甲に桐紋」を使用していたそ ...
名前だけを見みると、斎藤氏の祖先の人たちだと思うのですが、違いますか?
「尊卑分脈」には次のように書かれています。(コマ番号40/60)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991586/40?tocOpened=1
時長 鎮守府将軍、民部卿
利仁 鎮守府将軍、武蔵守、従四下、左将監上野下総介
叙用 斎藤號起於叙用依補、斎宮頭世號斎藤、斎藤党等祖、斎 ...
書籍から大筒(大砲)の記事を拾っていくと、以下のようになります。
「海国史談」には次のように書かれています。(コマ番号98/223)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/768775/98?viewMode=
「大砲は天文二十年秋九月に葡船が豊後に齎したもので、大友宗麟は其二門を得て、早速島津義久と丹生島に戦ふた時に之を用ひ、戦功があつた故に ...
書籍から大筒(大砲)の記事を拾っていくと、以下のようになります。
「海国史談」には次のように書かれています。(コマ番号98/223)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/768775/98?viewMode=
「大砲は天文二十年秋九月に葡船が豊後に齎したもので、大友宗麟は其二門を得て、早速島津義久と丹生島に戦ふた時に之を用ひ、戦功があつた故に ...
書籍から大筒(大砲)の記事を拾っていくと、以下のようになります。
「海国史談」には次のように書かれています。(コマ番号98/223)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/768775/98?viewMode=
「大砲は天文二十年秋九月に葡船が豊後に齎したもので、大友宗麟は其二門を得て、早速島津義久と丹生島に戦ふた時に之を用ひ、戦功があつた故に ...
以下の本には、田沼意次の息子の意知を殿中で殺害した佐野善左衛門政言こそが、佐野源左衛門常世の子孫であると書かれています。(コマ番号304/338)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959093/302?viewMode=
「政言は今でこそ平武士ではあるが、其祖先は源左衛門常世と云ひ、歴たる家柄であつた・・・」
しかし「寛政重修諸家譜」では ...
以下の本には、田沼意次の息子の意知を殿中で殺害した佐野善左衛門政言こそが、佐野源左衛門常世の子孫であると書かれています。(コマ番号304/338)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959093/302?viewMode=
「政言は今でこそ平武士ではあるが、其祖先は源左衛門常世と云ひ、歴たる家柄であつた・・・」
しかし「寛政重修諸家譜」では ...
以下の本によると、鎌倉時代に作られた当麻寺の建築・彫刻・工芸品は次のようになっています。(コマ番号132/188)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977442/132?viewMode=
金堂、講堂、曼陀羅堂(本堂)、地蔵菩薩立像、千手観音立像、四天王立像の内一体、本堂大須弥壇、厨子
また以下の本には当麻寺の金堂及び講堂について、次のよ ...