42 0 0 0 OA 国史大系

著者
経済雑誌社 編
出版者
経済雑誌社
巻号頁・発行日
vol.第6巻 日本逸史 扶桑略記, 1901

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『日本逸史』について知りたい。
『日本逸史』について知りたい。

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一方、蔵王菩薩を釈迦の化身とする説も有りました。 『扶桑略記』の天慶四年[941]三月条に引用された道賢上人冥途記では、金峯山中で修行中に仮死状態になった道賢(日蔵)の前に蔵王菩薩が和尚の姿で現れて「我是牟尼化身、蔵王菩薩也。此土是金峯山浄土也」と告げました。 https://t.co/xRes4k3u4p
寛平6年(894年)4月新羅国「対馬島司言新羅賊徒船四十五艘到着之由……獲賊一人。其名賢春。即申云。彼國年穀不登。人民飢苦。倉庫弊悉空。王城不安。然王仰為取穀絹。飛帆参来。伹所在大小船百艘。乗人二千五百人」(扶桑略記) https://t.co/FsJ4Hcnvze
『扶桑略記』延久二年の記事https://t.co/4eE6OiKTCy: 「十月十四日辛未、戌時、感神院大廻廊、舞殿、鐘楼、皆悉く焼亡す、但し天神御躰之を取り出し奉る」 「十一月十八日乙巳、官使を以て感神院八王子四躰ならびに蛇毒気神・大将軍御躰焼失の実否を検録す」
この蛇毒気神というのもよく判らない神です。 『扶桑略記』の延久二年(1070)の祇園感神院(現在の八坂神社)の火災に関する記事https://t.co/4eE6OiKTCyから、この頃には同社に八王子ならびに蛇毒気神・大将軍が祀られていた事が判ります。 https://t.co/JTPI42W4Gu
扶桑略記 https://t.co/sglDHdbkTu 延久四年三月廿六日(1072)条に「行幸稲荷祇園 別当阿闍梨行禅為権律師 此二社並日吉社行幸此時始之」とある。日吉社については前年に行幸のあった記述とあわないようである。あるいはこのあと例年行事となったの意味か。
扶桑略記 https://t.co/sglDHdbkTu 延久三年十月廿九日(1071)条に「行幸日吉社 座主検校大僧都勝範 則当法性寺大僧都覚尋 共授法印大和尚位 同行幸之賞也」とあるが、このときがはじめてかは判らない。
扶桑略記延久二年(1070)八月一日条 https://t.co/9GnBfUP0mK に、陸奥守源頼俊の合戦の時に散位藤原基通が印鑑を奪っていたこと、基通の捕縛を下野守義家が言上したことが載っている。この裏に延久蝦夷合戦があるらしい。
瑞歯含む(みづはぐむ、新たに歯が生えるくらい長生きする)と「水は汲む」が掛けてある。冷泉天皇(憲平親王)は天暦四年(950) https://t.co/fNNOZi0sDx から康保四年(967) https://t.co/nncam0Rtnd まで春宮。
瑞歯含む(みづはぐむ、新たに歯が生えるくらい長生きする)と「水は汲む」が掛けてある。冷泉天皇(憲平親王)は天暦四年(950) https://t.co/fNNOZi0sDx から康保四年(967) https://t.co/nncam0Rtnd まで春宮。
.@tigayam この中で、上東門院らの参詣があったのは(誤)長久ではなく長元四年(1031)でした https://t.co/cOo0xfKDzm 。申し訳ありませんでした。
その次の年に正月からひどい疾疫が流行し、頼通の嫡子通房なども亡くなる中で頼実も六月卒。 https://t.co/sm7EUu4KVt
後三条天皇(1034-1073)は延久五年四月に出家、五月に崩御。「(二月廿日)太上天皇 陽明門院 一品内親王(馨?子) 有御住吉詣事 其次詣天王寺八幡宮 関白前大相国(頼通)同以供奉 縦観之者 路頭架肩 廿七日還御洛陽」 https://t.co/HyE5KoarcU 扶桑略記
藤原義忠(1004-1041)。長久二年「十月十日 権左中弁兼大和守藤原義忠入部之間 陥没吉野河」(扶桑略記) https://t.co/mJoS8MSFUZ 詞花集に大和守の時に詠んだという歌が載る。 https://t.co/pZAmRSyvbQ
かのみこ、は六条宮中務卿具平親王か(寬弘六年七月廿八日(1009)薨 年四十六https://t.co/Fx7k9bybre )。従五位上備前守為善(-1042)はここ https://t.co/9O5lure535 。道済(-1019)のいとこで、「難後拾遺」の経信の母の兄弟。
扶桑略記 https://t.co/enTRSgkywf にも、長元九年四月「同廿二日 中納言源顕基依先帝御愁 忽発菩提心於大原出家入道 尊卑為之落涙矣 年卅七也 大納言俊賢嫡子也」
扶桑略記 正暦四年年二月廿日「関白道隆供養積善寺」「先公入道大相国...即卜勝地以立道場積善寺是也」「爰有精舎称法興院 斯乃先公閑放之地 不日所改成也 林鶯百囀 暗添歌曲 岸柳千条」https://t.co/jSiVeFiJ7K 先公とは中関白道隆の父兼家(929-990)。
治暦二年(1066、すなわち配流から3年後)七月二日 https://t.co/Ss3oNxlhCW 「被免流人前下野守源頼資并興福寺僧静範等類伴」。素意法師すなわち成経(重経)https://t.co/mPe9YTKyi5 は小弁の子祐子内親王家紀伊の夫らしい。
扶桑略記 後冷泉天皇康平六年(1063) https://t.co/8zs2bYVDRD に、「五月十三日 発遣山陵使 是依去三月盗人撥池後山陵(成務)掠奪宝物也 」「十月十七日 興福寺僧静範坐山陵事 配流伊豆国 縁坐者十六人」。
扶桑略記 http://t.co/sm7EUu4KVt 長久五(1044)年「自正月始至六月季 疾疫殊盛 死骸満路」「四月廿七日(5月) 右近大将大納言藤原通房薨逝 年廿 関白左大臣頼通朝臣嫡子也」
賀陽院は宇治前太政大臣頼通の邸宅で後冷泉天皇の里内裏。天皇は、永承八年には六年に新造した冷泉院を不吉であるとして出て賀陽院御薬間に移られたが、そこが天喜二年焼亡したので冷泉院に戻った。 http://t.co/HeZotPePth 扶桑略記
「長元十年(略)正月七日(略)関白左大臣藤原朝臣頼通(略)取式部卿敦康親王女嫄子女王為養子 令参内」「二月十三日 禎子内親王立為皇后」「三月一日 女御藤原嫄子立中宮」http://t.co/enTRSgkywf と扶桑略記に出るころか。
『扶桑略記』第五 天智天皇 『国史大系』第6巻 経済雑誌社 p523 明治30年12月25日印刷 12月31日発行 http://t.co/HIe9aLCA6r
「かかるそでには」(國)。(寛徳二年正月 1045)太上天皇(後朱雀)春秋三十七 於東三條第崩。 http://t.co/sm7EUuVyjF 扶桑略記 前年に疾疫流行、天皇は暮から体をこわしていた。作者は勅撰作者部類http://t.co/4uWgZazp6Z に東三條兼家女。
い(糸)、蜘蛛の糸。藤原通房(1025-1044)。扶桑略記 長久五年 http://t.co/sm7EUuVyjF 「四月廿七日。右近大将大納言藤原朝臣通房薨世。年廿。関白左大臣頼通朝臣嫡子也。」お嬢さんが歌を詠んだのはそれから十年あまりくらい経過した頃でしょう。
ひまなくくもりくらして(國)。二十一歳で即位した後冷泉天皇は治暦三年(1068)四月十九日高陽院中殿にて亡くなった。その年の六月二十四日には阿蘇山に五六寸の雪が降っている。扶桑略記 http://t.co/1RTytlBGk5
扶桑略記 天喜五年 http://t.co/1eeVT2RdaR 源頼義と安倍貞仁が戦っている間、陸奥で兵粮が集まらず人民は兵役にもつかず出羽に行ってしまうのを管理しないので源兼長は出羽守を源政頼に換えられている。が政頼もちゃんと管理しないなど。
寛徳二(1045)年(正月十八日 後朱雀天皇)於東三條第崩。(四月八日 御冷泉)天皇即位於大極殿。寛徳三(1046)年(四月十四日)改為永承元 http://t.co/dZFkLYq2GA 十一月十五日 大嘗会 近江備中供奉悠紀主基 とのことで即位の年に大嘗会が行われてはいない。
冷泉院は二条北大宮東(二条城北東部)にあった。扶桑略記(永承六年七月)十九日丁卯 入御新造冷泉院 http://t.co/QD7coCVJBB (永承八年)七月廿日丙辰 天皇自冷泉院遷幸関白左大臣賀陽院。御薬之間。冷泉院不吉故也。  (天喜三年)六月七日甲午 被冷泉院渡立一條院

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編集者: Kanjybot
2021-05-31 06:15:17 の編集で削除されたか、リンク先が変更された可能性があります。

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