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投稿一覧(最新100件)
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後ろから読む『教行信証』 ―C・G・ユングの『チベットの死者の書』解釈を手がかりとした読解の試み―
吉村均「後ろから読む『教行信証』 ―C・G・ユングの『チベットの死者の書』解釈を手がかりとした読解の試み―」 https://t.co/bJfm6jDBUu
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Inactivation of SARS coronavirus by means of povidone-iodine, physical conditions, and chemical reagents
SARSのときに、PVPや70%エタノールが不活化に有効、56℃ 5分加熱も結構いいよ、という話があったらしい。 https://t.co/HfhxeMoXB9 今回はどうかな。
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余清斎真賞斎選帖
余清斎本の帰田賦智永書 https://t.co/liDkqSuW3Z
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歳端唱酬録
胸像でお顔を拝した伊藤耕餘さんの大正十四年の「歳端唱酬録」 https://t.co/P0EWDOFITS 。すべてに次韻、かへし、付句で応じていて楽しそう。石井露月が漢詩を詠むのは知らなかった。
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白水画冊
ところで、国会図書館デジタルコレクションに泉川白水の書画集(昭和16年の展覧会図録)があったので示しておきます。 https://t.co/gjJTHj7vCq
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訂正康煕字典
ところで赤星藍城敬次郎氏の諱だけど、ここ https://t.co/0IdcuefRTr に「暈」となっているのに頸をかしげる。嵯峨米卿氏なんかは「晁」としていることもある。私に決め手はないけど「曄」(アキラ、サトシ)https://t.co/uNp8ibW56g ではないかなと思っている。
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芸苑一夕話
嫌な話になるので言葉を濁し先の追求もし難く書くけど、江戸時代の書家が追いすがる女性を一刀のもとに切り捨てたという話が美談として紹介されていた https://t.co/PbYFGrUHyu 。時代が違うとはいえ、単なる殺人...。以来、紹介されている人にもした人にも一定の心的距離(軽蔑)を置くようになった。
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名誉館長館話実施報告抄
新野直吉氏がまとめたこれ https://t.co/HmF4OA9Y3E によると、米内沢病院を辞した赤星氏は明治26年8月に秋田氏大町4丁目に開業し、のち土手長町末丁21番地に移った。 関連する話題は「二〇世紀ひみつ基地」の話題 https://t.co/4pEGD0ndan にも。
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秋田県善行録
明治29年(8月31日)陸羽地震の時に、被災地に出張して診療したことが記されている https://t.co/4p1SNvpRo3 。このうち赤星敬次郎とあるのは当時39才の赤星藍城。
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五湖三嶺楼百絶
メモ 赤星藍城「五湖三嶺楼百絶」 https://t.co/HHgGB8elSq 。大沼枕山の序がついている。
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吉川五明と中興期俳諧 -巴釣との関係を中心に-
くだんの地方の藩士と交流のあった俳人(町人)がいて(寺島徹「吉川五明と中興期俳諧」https://t.co/pfUbxaEIfm )、その人もきれいな字を書いているんだけど、その字がどのような系統のものか、というのも当時の背景を知る手がかりになるかもしれない。
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玉煙堂法帖卷1-21
玉煙堂帖 https://t.co/9mM4YRgfUG には懐素のものがいくつか入っているようだ。「昭和法帖大系」にも玉煙堂以外に戯鴻堂、寶晉齋、快雪堂などから加えられてる。問題は良寬がどういうものを見ていたか(しかも自叙帖を)、だけど。
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柴野栗山における古碑帖等の審定
良寬が懐素を学んでいた、という話を聞いて実際にどういうものを見ていたんだろう、と興味が湧くけれども、なかなか手がかりがつかめない。どんなものが入ってきていたか、は例えば柴野「柴野栗山における古碑帖等の審定 」 https://t.co/zNMHs2jPUE なんかで伺えはするけど。
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淳化閣帖 : 欽定重刻
良寛が懐素を学んでいた、とはよく聞くけど、実際にどういうものを見ていたのかを知りたい。と思ったけど、インターネットであがいてもよくわからなかった。淳化閣帖だったらこういうのとか https://t.co/XVAoYFG1j3 かな。
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芸林逍遥
メモ:高野辰之氏が東京音楽学校を退官後に出された「芸淵耽溺」(1936) https://t.co/icDOwgLW5i 、「芸林逍遥」(1938) https://t.co/RfQPQwstY7 、「芸海遊弋」(1940) https://t.co/l9zWecZRx8 。
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芸海游弋
メモ:高野辰之氏が東京音楽学校を退官後に出された「芸淵耽溺」(1936) https://t.co/icDOwgLW5i 、「芸林逍遥」(1938) https://t.co/RfQPQwstY7 、「芸海遊弋」(1940) https://t.co/l9zWecZRx8 。
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芸淵耽溺
メモ:高野辰之氏が東京音楽学校を退官後に出された「芸淵耽溺」(1936) https://t.co/icDOwgLW5i 、「芸林逍遥」(1938) https://t.co/RfQPQwstY7 、「芸海遊弋」(1940) https://t.co/l9zWecZRx8 。
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貫名海屋臨蘭亭序
蘭亭序にかかわるtweetをしたけど、こういうの https://t.co/mUWhgdE5jN (海屋臨書)がすっきり伸びやかで好き。明和ころ某藩の勘定奉行をしていた方の書かれた屏風がこれに通じる風格を持ってるのを見て、当時の水準にシビレタました(ママ)。
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両羽之現代人
詳細な個別の事情に入るのにははばかりがあるけれども、碑文中の家老のご子孫はこの方だろうかと思う。 https://t.co/CrtqCgr0uu
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鳴鶴翁書灌漑渠碑
小さな村の用水碑で、実際に建てられたものかもわからないけど、碑額は久我美子さんのひいおじいさんが書いていたり大物(?)が関与しているところに興味をひかれる。 https://t.co/YJdDJh6ZUa
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日本霊異記
メモ: 日本霊異記 https://t.co/651wTuxFDo 。これも https://t.co/HY3wo06EPp 。群書類従にもあるな https://t.co/iQq0xynnuD 。
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群書類従
メモ: 日本霊異記 https://t.co/651wTuxFDo 。これも https://t.co/HY3wo06EPp 。群書類従にもあるな https://t.co/iQq0xynnuD 。
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群書類従
群書類従の連歌部に。 https://t.co/UO3NZcxI3y
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連歌新式追加并新式今案等
新式にこういう本もある。 https://t.co/gezrtZhhbw
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『和泉式部日記』『夜の寝覚』の「道芝」
小大君は三条天皇が春宮の時に女蔵人であった。ここで寝乱れ髪を表している道芝のその他の用例は、ここに https://t.co/cbPv2NmOjz (pdf) 。 臭まくら。やれやれ。
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郭義恭の『廣志』 : 南北朝時代の驃國史料として
@nean この晋は三国時代のあとらしいですし、広志自身の成立も宋あたりまで下る可能性もある https://t.co/6SVmhHxbJf (pdf) とのことで、「駝鳥」が確認できるのは紀元後のようですね。
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群書類従
高僧の戯れ歌なれば。天台座主記 https://t.co/x4hLVLsArl に、第三十権大僧都源心 西明房 治山五年 平氏院源座主甥 師主慈忍大師覚慶--院源--弟子永承三年戊子八月廿二日宣命 年七十八 天喜元年癸巳十月十一日入滅 八十三
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和訳維摩経 : 一名・不可思議解脱
全体像を見直したくなったらこちら https://t.co/mVNPSWcBdZ (維摩経観衆生品)に戻ろう。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
大江佐国は後撰の朝綱につながるこの方 https://t.co/xt7E8tRsPj 。中右記嘉保元年九月六日条に通俊に師匠として史記に太史公とあるのは誰かなどについて教えていたことが書かれている。
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群書類従
天喜四年四月晦日(1056)皇后宮春秋歌合 https://t.co/0tQ3FMxxOT (群書類聚)の二番では範永の春日祭と内侍大佐の七夕祭が合わせられていた。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
時房はこの方 https://t.co/nkEJx0Xh0K らしいが、岩によるとこの方 https://t.co/7B9rjwbCdn の可能性も否定できないとのこと。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
時房はこの方 https://t.co/nkEJx0Xh0K らしいが、岩によるとこの方 https://t.co/7B9rjwbCdn の可能性も否定できないとのこと。
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東遊歌・神楽歌 : 古鈔本
伊予大三島の三嶋神社に神楽「東歌」を奉納した。その中の「駿河舞」 https://t.co/NLwfnGfFyh に「や うとはまに するかなる うとはまに うちよするなみは」と歌われる。有度浜 https://t.co/85Ovvc4UYo は三保松原であろう。
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国史大系
扶桑略記 https://t.co/sglDHdbkTu 延久四年三月廿六日(1072)条に「行幸稲荷祇園 別当阿闍梨行禅為権律師 此二社並日吉社行幸此時始之」とある。日吉社については前年に行幸のあった記述とあわないようである。あるいはこのあと例年行事となったの意味か。
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国史大系
扶桑略記 https://t.co/sglDHdbkTu 延久三年十月廿九日(1071)条に「行幸日吉社 座主検校大僧都勝範 則当法性寺大僧都覚尋 共授法印大和尚位 同行幸之賞也」とあるが、このときがはじめてかは判らない。
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国史大系
日本紀略 https://t.co/RVOvbXezl6 寛弘元年閏九月十三日(1004)条に「有行幸点地 依可行幸松尾平野北野也」とある。この年は岩にもとづいて参照。
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校訂増補五十音引勅撰作者部類
勅撰作者部類 https://t.co/xm6My4ngkm に、「重如 六位 山口 河内国人」とある。住吉社の遷宮は20年に一度とのこと https://t.co/rHHlFeFKIS 。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
伊勢守藤原義孝はここ https://t.co/XMOuUawwZL 。母の父とされる従五位下朝野と同じ名はここに見える https://t.co/wt0IwZDXvl 。また、天台座主教円はここ https://t.co/3xKZ3QpMmU 。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
伊勢守藤原義孝はここ https://t.co/XMOuUawwZL 。母の父とされる従五位下朝野と同じ名はここに見える https://t.co/wt0IwZDXvl 。また、天台座主教円はここ https://t.co/3xKZ3QpMmU 。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
伊勢守藤原義孝はここ https://t.co/XMOuUawwZL 。母の父とされる従五位下朝野と同じ名はここに見える https://t.co/wt0IwZDXvl 。また、天台座主教円はここ https://t.co/3xKZ3QpMmU 。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
定季-国房 https://t.co/i6SlzZEe43 。また定季の歌 https://t.co/U4o2OohXm2 。頼俊は尊卑分脈ではここ https://t.co/7K97CiVCKq 。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
定季-国房 https://t.co/i6SlzZEe43 。また定季の歌 https://t.co/U4o2OohXm2 。頼俊は尊卑分脈ではここ https://t.co/7K97CiVCKq 。
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国史大系
扶桑略記延久二年(1070)八月一日条 https://t.co/9GnBfUP0mK に、陸奥守源頼俊の合戦の時に散位藤原基通が印鑑を奪っていたこと、基通の捕縛を下野守義家が言上したことが載っている。この裏に延久蝦夷合戦があるらしい。
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群書類従
後京極摂政良経公「作庭記」に蓮仲法師の名が出るところ https://t.co/rFuedMeImg 。「東北院に蓮仲法師がたつる所の石 禁忌ををかせる事一つ侍か」
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相模集
相模集 https://t.co/RtTdNA1dHP まつりのかへさきて又の日 六はら蜜説教ききにまでたるに 昨日むらさきのにみえしくるまの かたはらにありしかば ことはてていづとて あふひをやるとて きのふまで かみに心をかけしかど けふこそのりに あふひなりけれ
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
返し いかばかり ひかりもみえじ はまちどり ふみしだきたるもしほ草には」 と後拾遺集編者との交流がみられ、何より通俊の兄通宗の実母は高階成順のむすめ https://t.co/ldfqm4NiMd であったことから、作者として康資王母を取り違えることは考えにくいと思われる。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
こづかみのうら、は鳴門市撫養町木津らしい。基房は朝経の子で常陸守正四下というこの方 https://t.co/XvR1ud6CaH か。「長元二(1029)阿波守」という断片的情報がインターネット上に見られる。
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道綱の母の晩年について -巻末歌集の二三の記事をめぐって-
中将尼は大和守源清時のむすめであり、高階明順の妻(成順の母)であったらしい(水野隆「道綱の母の晩年について」 https://t.co/5lERcHFzNa )。
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道綱の母の晩年について -巻末歌集の二三の記事をめぐって-
中将尼は大和守源清時のむすめであり、高階明順の妻(成順の母)であったらしい(水野隆「道綱の母の晩年について」 https://t.co/5lERcHFzNa )。
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群書類従
群書類聚 重之集 https://t.co/saL6AN0nXe 冒頭に、「三位の大弐(佐理)は故小野宮の大殿(実頼)の御子也(*実際は孫) わらはより殿上などしたまへりけり 宰相をかへしたてまつられて大弐になられて下給へるを 道風はなちてはいとかしこき手書におはして (続く)
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
正家の伯父正度の子孫からはやがて清盛が現れる https://t.co/rTZi8Q58zo 。 神坂峠を越えて信濃に入るところが園原で「帚木」が歌枕。当事も源氏物語のインパクトは大きかったのではないかと想像される。
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栄花物語
「栄花物語 はつ花」 https://t.co/Txoy66sLR4 をみ(小忌、辰日豊明節会)の夜は 宰相(実成)の 五節に 童の汗衫(かざみ) おとなのかしづきに 皆青摺りをして赤紐をなむしたりけるといふことを 後に齋院にきこしめして (続く)
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『紫式部日記』左京の君事件の記述態度 -彰子後宮の漢詩文受容の問題からの考察-
紫式部日記で前歌の後日 https://t.co/x7QUFIY3ar 。内大臣公季から返事が来た。歌の作者が長能(949-1009)になっているのは代作であるからという https://t.co/gAIDWAhAW6 。
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今鏡読本 : 校定 一名・続世継
(長和元年七月八日)「皇太后宮(彰子)自上東門遷御枇杷殿」 https://t.co/zrxP2fBGXn 。(十一月廿二日)「依大嘗会天皇行幸八省院 悠紀近江国主基丹波国」。 今鏡にこの歌が出ている https://t.co/WKy1Jryc7x 。
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国史大系
(長和元年七月八日)「皇太后宮(彰子)自上東門遷御枇杷殿」 https://t.co/zrxP2fBGXn 。(十一月廿二日)「依大嘗会天皇行幸八省院 悠紀近江国主基丹波国」。 今鏡にこの歌が出ている https://t.co/WKy1Jryc7x 。
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国史大系
三条天皇の折の大嘗会は、冷泉院崩御により即位の翌長和元年(1013) https://t.co/zrxP2fBGXn に行われた。「(閏十月廿七日)天皇禊東河 二条末」。そこよりはるか西、小塩山の麓大原野に少将井尼がいたらしい。
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国史大系
瑞歯含む(みづはぐむ、新たに歯が生えるくらい長生きする)と「水は汲む」が掛けてある。冷泉天皇(憲平親王)は天暦四年(950) https://t.co/fNNOZi0sDx から康保四年(967) https://t.co/nncam0Rtnd まで春宮。
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国史大系
瑞歯含む(みづはぐむ、新たに歯が生えるくらい長生きする)と「水は汲む」が掛けてある。冷泉天皇(憲平親王)は天暦四年(950) https://t.co/fNNOZi0sDx から康保四年(967) https://t.co/nncam0Rtnd まで春宮。
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国史大系
寛弘二年十一月十五日に内裏が焼亡し、「(廿七日)天皇幷中宮幸左大臣東三条院」 https://t.co/4oCrYIFcoN (日本紀略)とある頃か。当時の左大臣は道長。藤原長家(998-1074)は上東門院彰子(988-1074)の異母弟。
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栄花物語
栄花物語 https://t.co/PjWXLxpxzx では花山院の歌は「我すらにおもひこそやれ春日野の雪間をいかでたづのわくらむ」になっている。また「かの大納言(公任、当時は中納言左衛門督)の御子(定頼?)も御供に参り給ひければなるべし」と書かれている。
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御堂関白記
道長の1112、公任の1113の歌は、御堂関白記長保六年(1004)二月六日 https://t.co/xmOPbQiTla に記さ、花山院から「「われすらにおもひこそやれかすがののをちのゆきまをいかでわくらん」」の歌をいただいたことが出ている。
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御堂関白記
寛弘四年(1007)の春日使は兼綱(988-1058)が不都合であったため二条前太政大臣教通(996-1075)が(右近衛)権少将として奉仕することになった。https://t.co/N37tBa6bXo (御堂関白記)
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『栄花物語』における源重信像
六条左大臣源重信は長徳元年の疫癘の年道兼と同じ五月一日に死亡した https://t.co/bMVklWrf7d (日本紀略)。子の相方も長徳四年ころに亡くなっているらしい(川田康幸「『栄花物語』における源重信像」 https://t.co/NFhRptYN5x 小右記から)。
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国史大系
六条左大臣源重信は長徳元年の疫癘の年道兼と同じ五月一日に死亡した https://t.co/bMVklWrf7d (日本紀略)。子の相方も長徳四年ころに亡くなっているらしい(川田康幸「『栄花物語』における源重信像」 https://t.co/NFhRptYN5x 小右記から)。
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〔細川忠興同夫人等書状〕
このリンクだけいただきますね。 https://t.co/HDUQ0MkjKl 細川忠興同夫人等書状
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栄花物語
「かくばかりせはし」は後一条天皇や威子中宮が相次いで亡くなった頃を指すか https://t.co/yZr37cjzhY 。
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栄花物語
二条院、後冷泉天皇中宮章子(1027-1105)の母は後一条天皇(1008-1036、在位1016-36)の中宮威子(1000-1036)で、この方も藤壷(飛香舎)におられた https://t.co/fee6uVXPGc 。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
「たかさだ」が藤原定輔の子高定 https://t.co/TSFvyPeplK とすると「母美濃守頼国女」と書かれている。たかさだは、六条斎院宣旨の甥か。
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校訂増補五十音引勅撰作者部類
六條斎院宣旨は「禖子内親王家女房 左馬頭源頼国女」 https://t.co/RXOU3mX8Vz 。源隆国の妻「六条斎院宣旨について知りたい」 https://t.co/XUNZ1fecy2 。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
藤原義忠(1004-1041)は四十歳代をむかえる前に吉野川で没死したということだが、尊卑分脈 https://t.co/5kuctXin4o には平惟仲のむすめを母とする能成をはじめ何人もの子が記されている。赤染衛門はおばに当たる人に同情する立場であったか。
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古事談「アイタノ城」考(柴生田稔先生退任記念)
.@tigayam 横井孝「古事談「アイタノ城」考(柴生田稔先生退任記念)」 https://t.co/tyTjsnVCpi
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安倍貞任または安倍宗任に関する伝承 -語りからアプローチする日本列島-
星野岳義「安倍貞任または安倍宗任に関する伝承」 https://t.co/nifnctP5KQ の中に、古事談四ノ十二 「アイタノ(秋田イ)城」 https://t.co/X8AZ64m3k2 は陸奥栗原郡の伊治城であるとする説が紹介されている。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
越前は従四位下越前守源経宗のむすめとして尊卑分脈のここ https://t.co/HxDzTn01OF に。兄兼俊に母大中臣輔親女と書かれていることに注目すると、集の編者は「家の風」に直前に出ていた伊勢大輔(輔親むすめ)や輔親のことを読み取ってこの歌をこの場所に置いたか。
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群書類従
祭主輔親卿集 https://t.co/nH9NHD6cou 群書類従 「夫ひとの才学をみがき文章ををれる 家の集となづけて世につたへたり 是をみしれる人はすくなくして しらざるは多かり かるがゆへに褒貶の輩は其数いくばくにあらず (続く)
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群書類従
https://t.co/oERVkXQ0PR 安法法師集(群書類聚)「あるとのばらより びやうぶに こまひきしらかはにしたるをかかする所によむべきうたとも まつりのかへさに きたのに ゑひさま<た>れたるさま<と> かかするを などもいはじ しのびてよめとありければ (続く)
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
藤原孝善 https://t.co/3jCXJoH3QC 。隆経は顕季の父で、(根拠を探し当てられず、この歌との関連は明らかではないが)摂津守のことがあったらしい。 https://t.co/KGj5MkD3BB
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校訂増補五十音引勅撰作者部類
かづく、潜く、あるいは、被く(錦から)。にしきのうら、は日本書紀巻三 https://t.co/Pk8VBDmSQh に「至熊野荒坂津 亦名丹敷浦」と出る場所が想定されているか。また道命は「天王寺別当」 https://t.co/W5NLVo5N7O のため歌がここに置かれたか。
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国史大系
かづく、潜く、あるいは、被く(錦から)。にしきのうら、は日本書紀巻三 https://t.co/Pk8VBDmSQh に「至熊野荒坂津 亦名丹敷浦」と出る場所が想定されているか。また道命は「天王寺別当」 https://t.co/W5NLVo5N7O のため歌がここに置かれたか。
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栄花物語
公任朝臣(入道大納言)https://t.co/9VhJrr8iwG は栄花物語でもこの参詣に加わっている。摂津名所図会の長柄橋跡 https://t.co/s2DLfHQvxs 。
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国史大系
.@tigayam この中で、上東門院らの参詣があったのは(誤)長久ではなく長元四年(1031)でした https://t.co/cOo0xfKDzm 。申し訳ありませんでした。
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栄花物語
上東門院新宰相は「三条院女房 参議広業女」(勅撰作者部類)。九月二十五日に都を出た上東門院の一行は十月二日に戻ったらしい https://t.co/ks1nwrHDIV 。
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栄花物語
栄花物語 殿上花見 https://t.co/9VhJrr8iwG にも上東門院らの参詣が描かれている。後に後鳥羽上皇が参詣された時の様子が定家の「御幸記」 https://t.co/Yk6cFqyjJi に出る。
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国史大系
その次の年に正月からひどい疾疫が流行し、頼通の嫡子通房なども亡くなる中で頼実も六月卒。 https://t.co/sm7EUu4KVt
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
棟仲のこの集のもう一首 https://t.co/iAnfjkUBqN 。それと、範国のいとこだったこと https://t.co/P5nfPq63Yn 。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
藤原師尹の子済時(941-995)が右大将であったのは貞元から永祚(977-990)のころ。尊卑分脈で時代の重なる可能性のあるのは藤原福当麻呂の流れで遠江権守であった方https://t.co/u2yse5FFuOと陸奥守であった方https://t.co/W8e0zeFJpp。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
藤原師尹の子済時(941-995)が右大将であったのは貞元から永祚(977-990)のころ。尊卑分脈で時代の重なる可能性のあるのは藤原福当麻呂の流れで遠江権守であった方https://t.co/u2yse5FFuOと陸奥守であった方https://t.co/W8e0zeFJpp。
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国史大系
後三条天皇(1034-1073)は延久五年四月に出家、五月に崩御。「(二月廿日)太上天皇 陽明門院 一品内親王(馨?子) 有御住吉詣事 其次詣天王寺八幡宮 関白前大相国(頼通)同以供奉 縦観之者 路頭架肩 廿七日還御洛陽」 https://t.co/HyE5KoarcU 扶桑略記
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国史大系
源惟正(929-980)は天徳五年(961)七月「廿五日任信乃守」 https://t.co/Gp8hVk6nTb (公卿補任)。 つかまの湯は浅間温泉あるいは入山辺温泉と言われているらしい。湧く、枠、来る、繰るが見える。
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国史大系
藤原義忠(1004-1041)。長久二年「十月十日 権左中弁兼大和守藤原義忠入部之間 陥没吉野河」(扶桑略記) https://t.co/mJoS8MSFUZ 詞花集に大和守の時に詠んだという歌が載る。 https://t.co/pZAmRSyvbQ
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
大蔵卿従三位藤原師経は兼通の子朝光の子登<朝>の子 https://t.co/XvR1ud6CaH 。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
かのみこ、は六条宮中務卿具平親王か(寬弘六年七月廿八日(1009)薨 年四十六https://t.co/Fx7k9bybre )。従五位上備前守為善(-1042)はここ https://t.co/9O5lure535 。道済(-1019)のいとこで、「難後拾遺」の経信の母の兄弟。
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国史大系
かのみこ、は六条宮中務卿具平親王か(寬弘六年七月廿八日(1009)薨 年四十六https://t.co/Fx7k9bybre )。従五位上備前守為善(-1042)はここ https://t.co/9O5lure535 。道済(-1019)のいとこで、「難後拾遺」の経信の母の兄弟。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
https://t.co/xt7E8tRsPj 江侍従の父匡衡と嘉言は、それぞれの祖父が兄弟という間柄。
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新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集
早大の本には「かくてなんあり とぐまじき事いひて」のようにある。朝範は「律師 因幡守平棟仲子」(勅撰作者部類)。尊卑分脈 https://t.co/P5nfPq63Yn には、棟仲の子に朝範のほか忠快「平等院座主 金作者」、女子「白河院内侍 周防」が書かれている。
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校訂増補五十音引勅撰作者部類
国房「五位石見守 玄蕃頭藤原範光男 至永保四七」 https://t.co/NolwJuPsJs 勅撰作者部類。 この集の冬、恋一、恋三、恋四、雑三の巻に各一首。
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校訂増補五十音引勅撰作者部類
良暹「法師叡山祇園別当」 https://t.co/yLDLFCAIpQ 素意「法師俗名紀伊守重経」 https://t.co/qUMpZp0yKC 大原 朧の清水 https://t.co/wpLtd7qbgz
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校訂増補五十音引勅撰作者部類
良暹「法師叡山祇園別当」 https://t.co/yLDLFCAIpQ 素意「法師俗名紀伊守重経」 https://t.co/qUMpZp0yKC 大原 朧の清水 https://t.co/wpLtd7qbgz
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栄花物語
栄花物語巻二のこのあたり https://t.co/jh8OshlL2X で花山天皇が出家されている。
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国史大系
日本紀略 長保三年二月四日 (1001) https://t.co/u0NH0ibyik 「左大臣(道長)養子右近権中将源成信 与右大臣顕光息男右近少将藤原重家相伴 向三井寺出家 仍両大臣驚向彼寺」
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国史大系
日本紀略 https://t.co/1LJC2XkK21 に、万寿三年正月(1026) 四日「致仕大納言藤原公任於解脱寺出家 年六十一」とあるが、これよりも前に詠まれた、ときめるわけにもいかなそう。
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白金之独楽 : 詩集
“近代デジタルライブラリー - 白金之独楽 : 詩集” http://t.co/gpnRdINoBV
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白金之独楽 : 詩集
“近代デジタルライブラリー - 白金之独楽 : 詩集” http://t.co/gpnRdINoBV
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二条院讃岐の実人生(3)後半生を中心に
伊佐 迪子 - 二条院讃岐の実人生(三) : 後半生を中心に http://t.co/8lmXix5oNj #CiNii
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平安後期の「ことなしぶ」とその派生語の検討 : 付・異文「ことならふ」とその派生語
堤 和博- 平安後期の「ことなしぶ」とその派生語の検討 : 付・異文「ことならふ」とその派生語 http://t.co/HA6eKis2tQ #CiNii
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