- 著者
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田中 伸明
上垣 渉
TANAKA Nobuaki
UEGAKI Wataru
- 出版者
- 三重大学教育学部
- 雑誌
- 三重大学教育学部研究紀要, 自然科学・人文科学・社会科学・教育科学 (ISSN:18802419)
- 巻号頁・発行日
- vol.66, pp.309-324, 2015-03-31
明治5[1872]年の学制発布に始まった我が国の公教育において、中等数学教育が内容に亘って厳密に統制されたのは、明治35[1902]年の中学校教授要目制定による。この教授要目では、我が国の数学教育を、算術、代数、幾何、三角法という4つの分科で構成し、これら4つの分科には相互の連絡を持たせず、各々に固有の目標と内容を備えさせたのであった。こうした数学教育における分科主義は、菊池大麓と藤沢利喜太郎の2人の数学者の教育思想に大きく依るものであり、中学校のみならず、高等女学校、師範学校という当時の中等教育全般に亘る著しい特徴といえる。しかし、やがてこのような分科主義的構成への批判が高まり、9年後の明治44[1911]年には、教授要目が改正されるに至る。本研究においては、中等学校数学教科書の「使用教科図書表」を資料とし、明治40年代の学校現場における教科書採択状況を捉えることから、菊池・藤沢の影響が徐々に減退していったことを明らかにする。さらに、採択校数が増減した教科書の内容を検討することで、我が国の中等学校数学教育における分科主義からの脱却と、新たな統合主義の思潮を見出すこととする。すなわち、当時の中等学校数学教科書の様相に、菊池・藤沢がなした統制からの離脱傾向を捉え、明治44年の教授要目改正に至る前史を明らかにするものである。