著者
仲野 裕美 大鹿 淳子
出版者
夙川学院短期大学
雑誌
夙川学院短期大学研究紀要 (ISSN:02853744)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.79-95, 1993-03-15

最近のわが国における食生活はライフスタイルの変化や価値観の多様化などを背景に、外食及び調理食品への依存度が大幅に増加してきている。このような時代における女子短大の調理実習のあり方の方針を得ようと、本学生の毎日の食事の手づくりの実態を調査した。その結果、(1)手づくり度90%以上の食品はゆでほうれん草、白飯、おでん、鍋物、カレーライス、サラダ類、てんぷら、ハンバーグ、焼物で、日常の主要料理であった。(2)手づくりされなくなった食品はマヨネーズソース、オレンジジュース、アイスクリーム、焼肉のたれ、水羊かん、パン、春巻やぎょうざの皮、ポン酢、塩昆布、福神漬等であった。(3)テイクアウト食品や外食を利用する理由は、現代の食生活の利便性、簡便性志向が顕著にあらわれていた。(4)日常の主要料理はよく手づくりされていたが、汁物、ソース類、お茶類等の料理のベースの手づくり度は低く、調理実習内容は従来なされてきた以上に、調理の基本技術や方法の習得、本物の味を知ることに力を注ぐ必要がある。(5)個性的なライフスタイルにあわせ、臨機応変に加工食品や調理機器をとり入れ、使いこなせる能力も養わねばならない。
著者
久本 美亜
出版者
学校法人 夙川学院 夙川学院短期大学
雑誌
夙川学院短期大学研究紀要 (ISSN:02853744)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.13-26, 2004-03-17 (Released:2020-01-24)
参考文献数
34

追熟過程のバナナ果肉および果皮に、主として2種の酸性α-グルコシダーゼ(AAG)が存在し、これらは、塩を含まない中性緩衝液で抽出される可溶性型酵素(SAAG)および0.2M以上のNaClを含む中性緩衝液で抽出される細胞壁結合型酵素(BAAG)であった。総AAG活性に対するSAAGおよびBAAGの活性比率は、それぞれ、48.0%、42.1%であり、このほかに塩を含んだ中性緩衝液では抽出されない酵素が9.9%存在した。成熟した黄色バナナからSAAGとBAAGを順次抽出し、Con A-SepharoseおよびSephadex G-150カラムクロマトグラフィーにより、それぞれ744倍(回収率7.8%)、264倍(回収率13.4%)に精製した。それぞれの分子量はSAAGが約70,000、BAAGは約90,000であった。これらの酵素は共通してマルトースを最もよく分解し、マルトオリゴ糖も分解する典型的なマルターゼであることが明らかとなった。しかし、長鎖マルトオリゴ糖(G_5-G_7)に対する分解効率(Vmax/Km)はSAAGよりもBAAGの方が低かった。
著者
中広 全延
出版者
夙川学院短期大学
雑誌
夙川学院短期大学研究紀要 (ISSN:02853744)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.23-33, 2001-03-10

セルジュ・チェリビダッケは、1912年ルーマニアで生まれ、1996年パリの自宅で死去した。20才を過ぎてから初めてベルリンにやって来てドイツ語を習得した。音楽技術上の才能には非常に恵まれていたが、ベートーヴェンやブラームスなどドイツ音楽の伝統的演奏様式には無縁の環境で育ち、またそれを身につけていなかった。彼が好んだレパートリーは、フランス印象派やロシア音楽であり、特にラヴェルは最も得意なものであった。チェリビダッケはルーマニア人であり、ドイツでは人種と国籍において異邦人であったのと同様に、ドイツ音楽の世界では異邦人であった。そして、カラヤン=ベルリン・フィルを中心とする戦後のクラシック音楽界においても異邦人であった。チェリビダッケは、生涯にわたって青年の心性を保ち続けた孤独な理想主義者であった。彼はどんなオーケストラとも安定した関係を築かず遍歴を続け彷徨した永遠の青年であった。
著者
井阪 正夫 大鹿 淳子
出版者
夙川学院短期大学
雑誌
夙川学院短期大学研究紀要 (ISSN:02853744)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.35-45, 1985

1)紅茶及びレモン添加紅茶に関し,浸出時間を変えた液について,pH,可視紫外部吸収スペクトルを測定した結果,いずれの場合においても,pHはレモンを添加すると低下する。可視部吸収スペクトルのピークは認められず450〜470nmで両者のカーブは交わり,この波長より大きい範囲でレモン添加の方が高い吸光度を示す。紫外部200〜380nmではいずれも272nmにおいてピークが認められ,浸出時間が長くなるに従ってピークも順次高くなり一定の値で横ばいを示す。また各時間共,レモン添加紅茶の方が高い値を示している。2)レモン添加量を変えた場合,いずれも272nmで吸収スペクトルのピークが認められた。ピークの高さは添加量の多少に関係なくほぼ一定で,無添加に比しいずれも若干高い値を示した。3)pHを変え浸出時間を一定にした場合,可視部吸収スペクトルでは450〜470nmにおいて紅茶浸出液の吸光度カーブと塩酸添加及びレモン添加浸出液の吸高度カーブとは交わるが炭酸ソーダ添加浸出液の吸高度カーブとは交わらない。紫外部吸収スペクトルでは272nmにおいて何れも吸光度のピークが認められ,pHが低くなるに従って吸光度は高くなり,逆にpHが高くなるに従って吸光度は低くなる。4)紫外部272nmに認められたピークはタンニン酸のピークとほぼ一致したことからタンニン系物質に由来するものと結論した。5)視覚による色調に関しては,pHが低くなると一見色が淡くなる様に見えるが,1)の吸収スペクトルから見ると,pHの低下とともに吸収は460nm以上ではやや強く,以下では弱くなる(深色効果)。しかしNa_2CO_3添加によりpHを高くすると,400〜460nm程度の領域では全体として吸収は強くなって,視覚色は非情に濃くなりアルカリ側より酸側までのpHの変化による吸収の変化は単なる解離平衡では説明出来ない。レモン添加による視覚色は吸収の減少により淡くなると同時に赤→黄の方向の変化がみられるはずで,実際よく眺めてみると確かに黄色がかっていることが観察される。つまりpHの低下により色はやや淡くなると同時に黄色がかってくるのである。
著者
中村 秀
出版者
夙川学院短期大学
雑誌
夙川学院短期大学研究紀要 (ISSN:02853744)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.1-17, 1987-12-25

本稿では,わが国においては今まで殆ど述べられていなかったゲシタルト心理学の創唱者Max Wertheimerの生涯につき,詳しく述べた。1)彼は1880年のプラーグのユダヤ系の家庭に生れた。母方の祖父が大きな影響を与え,10才のときこと祖父はすでにSpinozaの書物を与えている。幼時から彼はピアノに優れた才能を示し,母もバイオリンに巧みであった。父は独学で実学的な研究を積み,商業学校を経営して大いに成功をおさめ,その蓄えた財力が後に彼が永年にわたる各地への遊学を支えたと思われる。2)彼は学業にすぐれ,ギナジゥムでも,はじめ4年間はすばらしい成績を示したが,その後複雑な社会情勢の影響もあって学業が急に悪化し,家庭でも宗教的なしきたりに反撥して両親を怒らせ悲しませたこともある。この間,急進的なグループとも交ったらしい。3)大学はプラーグ大学,ベルリン大学,そしてヴュルツブルグ大学へと転々とした。この間,心理学,哲学,論理学,認識論のほか,広く音楽,数学などの研鑽を積んでおり,その範囲の広いことは驚くばかりである。その中でも彼にとってベルリンでの生活は最良のものであった。4)彼は父の要望もあって,早くPh.D.を取ろうとしてヴュルツブルグ大学に移り,直ちに1904年最優等の成績でPh.D.を得たが,その論文は,言語連想法を含んだ「事実診断学について」であり,その後もこの方面の研究を続行したがついに公刊を見なかった。彼はPh.D.取得後,就職するまでの間,各地の大学,研究所で生理学,精神病学の分野も含めて広く研究していたことは,何れもその結果が在来の理論への不満や批判となり,やがて新しいゲシタルト理論を醸成するのに与って力あったと思われる。5)早くから彼は音楽に関心があって,ベルリンの原始民族の音楽集録に関心をもっていた。またEhrenfelsやMarty教授の言及するところに影響をうけて,インドの哲学,論理学にも関心を抱いていたらしい。セイロンのVedda族の音楽や原始民族の数概念についての研究は早くからまとめていたらしいが,それらにはゲシタルトの考想が十分に認められる。しかし彼はこれをHabilitationのために用いなかった。大学教授資格認定の論文には適当でないと考えたからである。6)それよりも彼は科学的手法を用いて,誰もが納得せざるを得ない決定的な現象として運動視の実験的研究を行い,ゲシタルト説の根本理念を確立した。これによって彼はゲシタルト心理学の創唱者と呼ばれるに至った。7)彼はその初期の画期的研究があるにも拘らず,ベルリン大学の正教授には,彼より年少のKohlerが就任し,自分はその年1922年,員外教授に昇進しただけである。これは彼の寡作の故にということのほかに,反セミ主義その他が影響したといわれる。彼はフランクフルト大学で,おそらく1929年,教授となった。8)彼は1933年,ナチスの圧迫を逃れてアメリカに渡り,ニューヨークの新社会調査学校に迎えられ,1943年死去するまでそこで教え,生産的,鼓吹的な講義を行った。
著者
中村 秀
出版者
夙川学院短期大学
雑誌
夙川学院短期大学研究紀要 (ISSN:02853744)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.1-12, 1988-12-25

1)Max W.は1933年9月13日アメリカに到着してから間もなく家族はNew RochelleのThe Circle 12番地に落付いた。その秋から彼は新社会調査学校、別名「亡命者大学」Univ. in Exileの教授として講義した。それはドイツ語で行ったが早くも1934年春には英語で行った。最初2年間は英語で大いに苦労し、wholeとholeのちがいは発音で示すことができないので,いつもwholeという語を黒板に綴って示すほどであった。2)「新学校」では図書,設備,実験器具が不十分なため,それを補う努力をし,また研究方面もドイツにおけるよりも多方面に拡げた。しかし彼の教授態度にはドイツにおけると同じものがあった。彼に接する研究者,大学院生は彼からinspireされるものが少くなかった。彼の家には研究者,大学院生がよく集まり議論をよく行った。家庭では彼はこどもに献身的な父親であった。3)彼は真理,社会的正義,デモクラシー,自由に対して強い関心をもち,彼がアメリカで出したpaperは何れもこれらを扱ったものである。彼は解職された学者をアメリカで職につけるために,その方面の委員会に積極的に働きかけて努力したが,一般の空気は反ユダヤであり,経済的不況の影響もあった,十分な成果は見られなかった。4)彼は「新学校」の他に,コロンビヤ大学と密接な関係をもち,そこで講義もし,指導審査も行った。彼はアメリカ東部の諸大学のみでなく,中部,西部の諸大学にも出かけて講義し,亡命者の再就職への努力や学生への指導推薦にも力を致した。彼のこのような旅行,講演はゲシタルト心理学の理解に大きな助けとなり,彼は学者として,また鼓吹的教師としての名声を得た。そして1943年10月12日New Rochelleで死去した。63才であり,渡米以来10年の教授生活を送ったわけである。
著者
河南 恒子 三木 早苗
出版者
夙川学院短期大学
雑誌
夙川学院短期大学研究紀要 (ISSN:02853744)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.93-110, 1989-12-25

食に関わる諸因子を心理的な側面から分析し、食に対する順応性や弾力性をみるために、女子短大生400名を対象に嗜好因子テスト、料理のセンステスト、食欲因子テストを行い、次の結果を得た。1)嗜好因子テストの結果、女子学生の約半数が嗜好第2度に属し、献立や調理についての知識や技術を中等度身につけ、食生活に関する社会的配慮や生理学的・心理学的な諸反応においても中等度の傾向を示していた。2)専攻別における嗜好指数、料理のセンス指数、食欲指数は食生活2と栄養士1の学生が高く、食に対する順応性、志向性が強い傾向がみられた。3)料理のセンスの因子分析では、清潔や整理・整頓については約半数以上の学生が積極的に実行しているが、稽古については積極的な態度に欠け、創意する努力も少なく、季節感が乏しく、美的関心がうすい。生活環境の変化に対して敏感なものが少ないように思われる。4)保育専攻の学生は他の専攻学生に比べて各因子指数が低く、他の専攻学生と指数間には有意差(P<0.01)が認められた。5)食に対する教育環境の違いが嗜好や料理のセンス・食欲に大きく影響することが推察される。