著者
LEE Chonhee
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.51, no.1, pp.109-128, 2013-09
著者
鈴木 孝男
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.52, no.1, pp.259-278, 2014-09
著者
若林 明彦
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.41, no.3, pp.155-170, 2003-12-31

本稿は現代の正義概念の規範的モデルであるところのアリストテレスの正義原理(「等しきものは等しく扱うべし」)に遡り,それが現代では「経済のグローバル化」に伴いますます形式主義化し矛盾を生んでいるとし(例えば,特許権重視の経済システムが社会的弱者が必要不可欠の財やサービスを入手できなくするという人権無視),それを批判的に検討することによって,現代における真の正義原理の捉え方を提起するものである。その批判は福音書の「ぶどう園の労働者の譬え」の中で,愛という正義原理と対置される形ですでに示されていた。神学研究者はこれを神的愛として捉えるが,それはむしろ基本的人権への配慮として解釈すべきである。実は,アリストテレスも形式主義的正義原理の暴走を抑制するためにエピエイケイアというもう一つの正義原理を提起していた。現代社会に求められる正義の原理は,社会的強者だけにしか通用しない「等しさ」に拘泥する形式主義的正義原理ではなく,社会的弱者をも包括した真の意味で万人が「等しさ」を享受できる原理でなければならない。
著者
浅井 茂紀
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.43, no.3, pp.83-99, 2005-12

この論説は,目次,I序論,II本論,第1節孔子の学,第2節孔子の道,第3節孔子の徳,第4節孔子の善,第5節孔子の天,III結論,から成立している論文(注付)である。孔子の学,道,徳,善や天とは何かを問題にしてみた。それらの根拠として,儒学における『論語』や『孟子』,『荀子』などの出典を提示して,各々の内容を分析や総合し問題にしてみた。また,中国古代,周の春秋時代,孔子は,仁,義,礼,知,信や愛はもとより,なぜそれら学,道,徳や善,さらに,天などの倫理(Ethics),道徳哲学(moral philosophy)を主張したのかを問題にし,吟味してみたのである。つまり,孔子の倫理哲学は,人間としての基本的な理念(Idee)ではなかろうか,ということをロゴス(logos)的に体系付けて,その意義と価値を多少なりとも考察した論説である。
著者
杉浦 一雄
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.78-62, 2006-12-31

光源氏は、スサノヲノミコトをはじめとする「異郷をめざす物語」の主人公として描かれながら、俗世に身を置き、現実の世界に重きを置いている点で、かぐや姫、在原業平、そしてスサノヲノミコトの生き方とは明らかに様相を異にしている。このような光源氏の人物像は、一体何を模範として造型されたのであろうか。私はその最も強固な源泉の一つに聖徳太子があると考える。光源氏と聖徳太子とのかかわりは指摘されて久しいが、実は二人を結ぶ決定的な共通点こそ、「異郷」に深く心を寄せながらも、俗世に身を置き、現実の世界に「異郷」を現出しようと努めた点にあると私は考えたい。すなわち光源氏は、一面で、スサノヲノミコトには見られない現世尊重の精神を聖徳太子から受け継いだ人物であったと言うことができよう。その意味で聖徳太子は、光源氏の数あるモデルの一人というだけでなく、『源氏物語』を支える二本柱の一つとして、スサノヲノミコトに匹敵する重要な存在だったと結論することができるのである。
著者
戸村 幸一
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.45, no.3, pp.13-32, 2007-12

現代日本語の,ここ数十年にわたる史的変移を探る,これが本稿の目的である。世代間のコトバの違いに対し,旧世代は新世代のコトバを「乱れ」と片づけてしまいがちだ。だが,乱れとは,消えてゆく,あるいは消えてゆかざるをえないコトバと,生まれてくる,あるいは生まれてこざるをえないコトバとのせめぎ合いである。乱れ,と言うよりは,それは,史的必然性をもった変移である。発音,語彙,語義,語法,表記などあらゆる範躊での変移の様子を探ってみる。
著者
馬上 紗矢香
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.41, no.4, pp.123-149, 2004-03-31

Kate ChopinによるThe Awakening(1899)にはEdnaの生まれ育った土地,そしてクレオール社会の二つの文化が登場する。本稿ではそれら二つの異なる文化,そして作品中の舞台の変化について精読した上で,Ednaの目覚め,入水についての分析を行う。まず対比点について考える前に,面文化の女性に対する共通意識について論じている。アメリカ人であるEdnaの文化背景とアメリカ的と言うよりはるかにフランス的であるクレオールの文化の共通点を探るために本稿では19世紀アメリカ社会で女性に求められていたいくつかの概念とクレオール社会の比較を行う。続いてクレオール文化とEdnaの育った文化の違いについて考察を試みる。Ednaの回想,そして彼女の父の様子などから,Ednaの故郷では何事にも真剣であること,自己の感情を表に出さないことなどをうかがうことができ,Ednaも家族同様,これらの性質を持った人物として描かれている。一方クレオール社会は貴族的生活,騎士道愛,女性の美,そして開放的性格などによって特徴づけられる。二文化を比較してみると対照的な点が目立っており,これらの違いからEdnaはクレオール社会で孤立するが,一方でそのロマンスや自由に感情を表現する性格にEdnaは惹きつけられ,自己の内面に気づき,社会の女性観に逆らって行くのである。また,Ednaの変化に寄与したのは文化間の相違だけではなく,作品中の舞台の変化も大いに役立っている。クレオールの女性社会であり,Ednaがそれに触れることで自己に気付くGrand Isle,幻想的な雰囲気の中,おとぎ話のような描写やEdnaの本能的行動が強調されて描かれるCheniere Caminada,そして家事や社会慣習といった制約が多く存在し,女性は家の中に閉じ込めてしまうNew Orleansといった3つの舞台の比較も行う。これら二つの文化の共通点と相違点,さらには舞台の変化といった文化背景について確認した上で,本稿では最後に主人公Ednaの「目覚め」について論じている。Ednaは確かに自己の本質と欲望には目覚めたが,いくつかの点で目覚めていないと言う事も確認できる。文化的差異,舞台の変化がEdnaを何に目覚めさせ,何に対して盲目であったのか。これらを明らかにすることで彼女の結末について分析を試みる。
著者
江口 洌
出版者
千葉商科大学
雑誌
千葉商大紀要 (ISSN:03854566)
巻号頁・発行日
vol.44, no.3, pp.104-79, 2006-12-31

「初期万葉」は、朝廷が、王権意識とその指導理念とを示そうとした勅選の歌集である。それは、同じ時代思潮の中で、王権が企画、監修した『古事記』、『日本書紀』そして『風土記』と全く同じ性格の編纂物であった、と見る。天皇思想は、王権を天の存在として主張した。もうひとつ、革命を恐れた王権は、和の世界を主張した。そこに用いたのが中国から学んだ天・地・人の合一の精神であった。そうして、天の示す暦数、そして天(9)・地(8)・人(6)和合の数字を聖数とした。小論の主題は、「初期万葉」が、その天・地・人の構成を採り、その人部が柿本人麻呂の作品から成っているということであり、その証明であった。そのことを言うために、「初期万葉」の構造面での発展経緯を説くと共に、そのそれぞれの段階に働いた政治的な思惑に触れ、天分暦数、天文地理、陰陽五行説などいくつもの視点から触れることになった。もう一点、副題の柿本人麻呂という名前について。天・地・人構成の人部に人麻呂の作品のみが宛てられていることを証明し、柿本人麻呂が初めから人麻呂という名であったか、人部に作品を宛てられたことで、その名を人麻呂としたのか、という謎の問題を提示した。