著者
牧野 良成
出版者
日本女性学研究会
雑誌
女性学年報 (ISSN:03895203)
巻号頁・発行日
vol.43, pp.25-52, 2022-12-16 (Released:2022-12-16)
参考文献数
57

本稿は、反資本主義のフェミニズムという立場からフェミニスト・ストライキを呼びかけたマニフェスト的著作『99%のためのフェミニズム宣言』(F99)を連帯論として読み解き、今日の情況のなかでも特にネオリベラリズムとポピュリズムというふたつの趨勢に対抗し得るような連帯のありかたを構想するための指針を引き出そうとするものである。F99には、社会的再生産論という切り口を設定することで、資本主義の危機や階級闘争にかんする旧来的な理解を拡張的に更新し、すでに存在する反セクシズム・反レイシズム・エコロジーをめぐる闘いなどとともに圧倒的大多数たる「99%」のグローバルな労働者階級の闘争として連合して、ヘゲモニーの獲得を目指そうとする側面がある。ただしその一方で、F99が採用する「1%」対「99%」というポピュリスト的枠組みには、真正な闘争の担い手としての〈私たち〉を立ちあげるために敵対すべき〈かれら〉を創出するという他者化の契機が組み込まれた、真正性の政治に陥る危険がある。しかしながら、F99が掲げるのが「99%のof the 99%」でなくあくまでも「99%のためのfor the 99%」フェミニズムだという点をフェミニスト連帯論の蓄積から評価してみると、F99は「99%」を自明視するというよりも実際の運動過程における共同作業を重んじることで、むしろ他者化の契機に明確に抗する構想を提示しているとみなせる。この反他者化という指針は、運動の動員局面における社会問題のモラル・パニック的な説明図式や、現在の活動との対比で過去の活動を単純化・象徴化するノスタルジアなど、今日の連帯をめぐる困難を批判的に乗り越える手がかりとなり得る。
著者
矢野 裕子
出版者
日本女性学研究会
雑誌
女性学年報 (ISSN:03895203)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.40-56, 2018 (Released:2019-01-22)
参考文献数
34

本稿では、マクロ社会の権力構造とミクロ組織の権力構造との比較を通して、同じ権力構造が発生していないかを検討する。ミクロ組織の中でも、自主的に組織する集団の組織構造に目を向け、マクロ社会の作るヒエラルキー構造とは違う組織構造になっていると自認してきたフェミニズム組織の一つである日本女性学研究会を題材として取り上げる。 分析方法は、目に見える権力は①組織構造に、目に見えない権力は②人間関係に現れるであろうことを仮定し、①組織構造と②人間関係の大きく二つに分けて該当する部分について、日本女性学研究会のニューズレター40年分と、運営のルールから抽出し、マクロ社会の権力構造と比較検討する。 その結果、第1に、代表がいなくとも、組織業務は明細化しているなど、マクロ社会の組織と同じ方法で組織を運営していること、第2に、組織選択をする運営会の会話の仕方において、ディシプリンの権力といえる「割り込み」や「沈黙」「支持作業の欠如」などに対しての議論がないこと、第3に、組織の意思決定の方法についての議論がないこと、個人の意志決定前提を操作できる「権威」に対してルール作りで対処しているが明らかになった。マクロ社会の権力構造がミクロ社会の権力構造の土壌になっているという見方に対して、ミクロ社会を作っている個々人がマクロ社会の権力構造をつくっているという見方もできると考察した。フェミニズムにおいて、組織を作る女性たち個々人が、協調して秩序を作り上げてしまうことに気づき、秩序を作る土台になる自己の権威主義や権力に迎合するイデオロギーに気付くことが、実践面で限界を乗り越えるための第1歩になるかもしれない。
著者
遠山 日出也
出版者
日本女性学研究会
雑誌
女性学年報 (ISSN:03895203)
巻号頁・発行日
vol.42, pp.27-50, 2021 (Released:2021-12-28)
参考文献数
44

私は、近代(家族)を乗り越えるとは、家内(私的)領域と公共(公的)領域をより高い段階で統一することだと述べてきたが、本稿では、その展望をより詳しく考察する。伊田広行の「スピリチュアル・シングル主義」は、シングル単位論にスピリチュアリティ概念を結びつけることによって、自然を含めた広いつながりを捉えるとともに、自己の内面を深く掘り下げることを説いた。これらの点は、上の両領域の統一を考えるうえで有用である。ただし、伊田は、スピリチュアリティ概念によって、上の「つながり」を、「たましい」のつながりとして捉えたが、私は、各自の人権保障などの全地球的・歴史的相互関連性として捉えるほうが適切だと考える。また、スピリチュアリティ概念に含まれる価値ある部分を真に尊重するためにも、近代二分法自体を乗り越える方向性が必要である。 次に、伊田が作成した「思想地図」を改良して、私なりの「脱近代」への見取り図を作成する。まず、さまざまな思想を4つの象限に分類し、次に大きな歴史の展開方向を示す。さらに、1970年代までの狭義の「近代」にも着目した区分をおこなう。また、最近まで比較的注目されなかった、近代二分法において劣位に置かれていた領域(相互依存、感情、女性性、自然など)に注目した諸思想を、その見取り図の中に位置づける。 上の見取り図からは、近代を乗り越えて、自立した個人が相互に連帯する社会を構築するためには、異なる立場や視点の人どうしも、「家内領域と公共領域をより高い段階で統一する」という大きな方向性においては協力できること、ただし、「マイノリティを含めた個人を単位とし、国家を超える」という目標は見失わないことが必要であることが認識できる。また、私自身が「脱近代」への壮大な歴史過程の中にいる感覚が得られ、長期的で広い視点から見た解放への展望を持つことができた。さらに、この見取り図は、「脱近代」についてのさまざまな議論の問題点を位置づけるうえでも有用である。
著者
鬼頭 孝佳
出版者
日本女性学研究会
雑誌
女性学年報 (ISSN:03895203)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.9-26, 2019 (Released:2019-12-20)
参考文献数
15

室町時代に成立した『新蔵人物語(しんくろうどものがたり)』という絵巻物語の登場人物「三君(さんのきみ)」がこの物語において、どのような性格を持っているかを再考する。前半では主たる先行研究である、木村朗(さえ)子の一連の研究の意義と問題点を「三君」の「アイデンティティ」問題に焦点を当てて批評する。木村の研究の意義は、木村が前近代をロマン化せず、近代批判に挑もうという「姿勢」や、現在の外在的な道具立てに着想を得つつも、文脈に即してテクストを読もうとする「方法論」にある。しかし、木村の諸研究はその「意図」とは裏腹に、外在的な道具立てが有する時代性に無自覚で、現代と過去との偏差や概念の再措定を疎(おろそ)かにし、その道具立てを安易に過去に投影・適用して事足れるとする面が否めない。また、セクシュアリティ論の領域が前景化されすぎ、ジェンダー論が後景に退いてしまうという危険にも陥っている。 後半では、三君の「アイデンティティ」問題やこの物語の結末の解釈を左右する「変成女子(へんじょうにょし)」というこの絵巻物語特有の用語に関する解釈問題について、現時点で判明している情報から考え得る、最も整合的な解釈仮説を提起する。その準備作業として、紙幅の都合上、仏教学の性差別論争で代表的且つ対照的な立場を標榜する研究である、フェミニスト仏教学の先駆者、源淳子と、必ずしもフェミニストに好意的ではない植木雅俊の「変成男子(へんじょうなんし)」論の2つを紹介する。また、もう1つの予備作業として、『新蔵人物語』に関するもう1つの主たる先行研究に当たる、阿部泰郎(やすろう)の編著で「変成女子」の解釈問題がどのように解決されているかを概観し、どのような問題が残っているかを確認する。最後に、私は以上の検討を足掛かりに、江口啓子以外、どの論者も見落としている「物語読者層の願望」という観点から「変成女子」を再考する。すなわち、作者/読者として想定されている宮中の女性たち(もしくはその心理を理解し得た男性)が父権制の下に抑圧された自らの自由を空想的に回復する営為として「変成女子」を捉えることによって初めて、物語世界において物語の表向きの筋立てからはハッピーエンドを標榜する「変成女子」を、自分は「変成」などしなくても男として往生できるはずだったのに、尼にさせられたせいで、女に「変成」する羽目になってしまったと、「三君」が自嘲的に語る秘教的な文脈としても読み返すことが可能になるのではないか、というのが私の提起した仮説である。
著者
遠山 日出也
出版者
日本女性学研究会
雑誌
女性学年報 (ISSN:03895203)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.21-39, 2018

本稿では、中国で2012年に活動を開始した「行動派フェミニスト」がおこなってきた公共交通機関における性暴力反対運動について考察した。その際、香港・台湾・日本との初歩的比較もおこなった。<br> 中国における公共交通機関における性暴力反対運動も、実態調査をしたり、鉄道会社に対して痴漢反対のためのポスターの掲示や職員の研修を要求したりしたことは他国(地域)と同じである。ただし、中国の場合は、自らポスターを制作し、その掲示が断られると、全国各地で100人以上がポスターをアピールする活動を、しばしば1人だけでもおこなった。この活動は弾圧されたが、こうした果敢な活動によって成果を獲得したことが特徴である。<br> また、中国のフェミニストには女性専用車両に反対する傾向が非常に強く、この点は日本などと大きな差異があるように見える。しかし、各国/地域とも、世論や議会における質問の多くは女性専用車両に対して肯定的であり、議会では比較的保守的な政党がその設置を要求する場合が多いことは共通している。フェミニズム/女性団体の場合は、団体や時期による差異が大きいが、各国/地域とも、女性専用車両について懸念を示す一方で、全面否定はしてないことは共通している。中国のフェミニストに反対が強い原因は、政府当局がフェミニストの活動を弾圧する一方で、女性に対する「思いやり」として女性専用車両が導入されたことなどによる。
著者
鬼頭 孝佳
出版者
日本女性学研究会
雑誌
女性学年報 (ISSN:03895203)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.23-39, 2023-12-16 (Released:2023-12-16)
参考文献数
47

本稿は、吉田松陰『武教全書講録』「子孫教戒」における“女子教育”の提唱が、儒学と兵学の文脈において、武家男性による社会編成の“問題”としてどのように位置づけられ、女性が主体的に生きるうえでどのような課題を含んでいたのかを問うている。第2章では、過去の先行研究の多くが、松陰を「良妻賢母」論の枠組みでとらえることにより、『武教全書講録』全体の性格をあまり問題にしていないことを指摘した。続く第3章では、『講録』が基本的には武家男性における文武の統名としての「武」に関わる「修身」を問題としていることを明らかにした。また、女性教育に関する叙述を含む「子孫教戒」も、基本的には統名としての「武」、もしくは戦闘に直接または間接に関わる「武」に関連させてしか読み得ないということを改めて確認した。そのうえで第4章では、「子孫教戒」の女性教育論に着目し、松陰が対内・対外情勢に関する危機意識から、「パクス・トクガワ―ナ」(徳川の平和)への過渡期に編まれた山鹿素行の叙述を、夫に対する殉死に関わる死の先験的自覚として“昇華”することにより、女性集団が自発的に夫(と夫が忠を尽くす天皇=国)の望む「節烈果断」の徳(と将来の子孫創出)を果たす主体=従属形成を目指す社会編成論として読み替えたと結論した。女性が自ら「決断」し、女性によって教育される教育制度の確立が必要だと松陰が述べている以上、松陰の議論には結果的に女性の教育機会を広げ、女性解放に資するところがあったという可能性まで否定はできない。だが少なくとも松陰の社会編成に関わる意図に関する限り、形式的には女性個人の解放のように見えそうな「手段」ではあっても、実質的には女性集団に対する男性集団の支配を、より洗練させた側面が否めず、その影響は社会貢献と権理承認を引き換えに実現してきた“銃後”の日本人女性の今日までの社会進出にも深く影を落とし続けているのではなかろうか。
著者
楊 芳溟
出版者
日本女性学研究会
雑誌
女性学年報 (ISSN:03895203)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.3-22, 2023-12-16 (Released:2023-12-16)
参考文献数
49

日本に赴任する夫に随伴、ないし日本在住の夫と結婚するために日本に移住した中国人女性は、言語・慣習・法律など多くの障壁ゆえに日本社会において周縁的な位置に置かれ、社会的孤立などの困難を経験しやすい。本稿の目的は、こうした女性らによるインフォーマル経済としての私人「代理購入(以下、代購)」活動に焦点を当てることで、この活動が彼女らの社会経済的位置および自己認識にどのように影響するかを解明することである。こうした変化は、移民女性についての従来の視点、すなわち、下方移動論とエスニック・ビジネス論では捉えきれないものであり、また、私人代購をもっぱら経済活動としてのみ捉える視点からも見えてこないものである。 日本に随伴・結婚移住した中国人女性7名の調査を通じて、私人代購には経済活動として収入を得るという経済的価値があることがまず明らかになった。それだけでなく、私人代購を社会的行為として検討してみると、日本での生活のなかで疎外感と孤独感を感じた女性らにとっては、私人代購には日本社会と接点を持つ手段としての側面はもちろん、母国の人との関係を保つ手段としての側面があることがわかった。また、女性らは消費者との相互作用のなかで、他者から必要とされることを通じて自分の価値を見出しており、私人代購には承認獲得行為としての側面もあることが確認できた。しかし、中国人を対象に行う母国向けの経済活動の多くは中国語でおこなうことができるため、日本社会への統合の側面から見ると私人代購には限界もあることを指摘しなければならない。
著者
斉藤 正美
出版者
日本女性学研究会
雑誌
女性学年報 (ISSN:03895203)
巻号頁・発行日
vol.41, pp.3-22, 2020

本稿の目的は、「ライフプラン(ライフデザイン)教育」とはどのような内容や取組なのか、特色ある取組を行っている都道府県、特に高知県及び富山県を中心に、行政担当者や学校関係者等への聴き取り調査を行い、明らかになった現状と課題を指摘することにある。さらに取組が全国に浸透している要因の考察も行う。「ライフプラン教育」とは、国の少子化対策の交付金等により結婚を支援する「婚活政策」の一環で、地方自治体が中学・高校・大学生や市民に人生設計を考えさせ、若い時期での結婚や妊娠を増やそうとする取組である。<br> 聴き取り調査の結果、ライフプラン教育には、婚活企業の関係者や国の少子化対策等の審議会委員等、婚活や婚活政策の利害関係者が関与していること、また取組内容は、早いうちの結婚や妊娠を奨励し、LGBTや独身、子どものいない生き方、ひとり親など、多様性の確保に課題があることが判明した。共働きの家事・育児を自己責任で解決するよう、モデル家族に「三世代同居」を提示するなど、性別役割分業と自助努力が強調されていることも特徴であった。<br> こうした課題を持つライフプラン教育だが、全国の自治体に浸透し、継続され続けている。その要因としては、「優良事例の横展開」という交付金のあり方に加え、男女共同参画との連携が交付金の採択要件とされたものの、2000年代前半の右派や自民党によるバッシングにより男女共同参画が後退し、歯止めとして機能しなくなっていたことが浮き彫りになった。さらに少子化対策として整備された少子化社会対策基本法、次世代育成支援対策推進法が、妊娠・出産や家族の役割を強調する法律であったことも影響していた。<br> 本稿は、2000年代以降の男女共同参画政策の変遷を踏まえ、地方自治体におけるライフプラン教育の取組に関する現状と課題を提示するもので、少子化問題の解決策と個人の自由意志による生き方の尊重が相反しないあり方の検討に資するといえよう。