著者
河原 武敏
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2009, no.20, pp.47-54, 2009-02-27 (Released:2012-02-15)
被引用文献数
1 1
著者
齋藤 英一郎
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.14-15, pp.15-22, 2006-03-31 (Released:2011-05-20)
参考文献数
28

建築界・造園界ともに建築家による日本式庭園研究の動向を扱った研究は皆無であった。そのために、まず建築・造園関連雑誌へ庭園に関する論考を投稿した建築家を調査し、どの建築家が庭園研究を行っていたかを把握し鳥この調査で、庭園に造詣の深い建築家を把握でき、また建築界と造園界の交流の一端を知ることが出来た。本研究は庭園に造詣の深かった建築家 (コンドル、大江新太郎、古宇田実、吉田鉄郎、堀口捨己、西澤文隆) の日本式庭園に関する著作・雑誌の論考・作品から、各建築家の庭園研究行を考察し、建築家の日本式庭園研究の系譜とその特徴の把握に努めた。

4 0 0 0 OA 曲水の宴

著者
河原 武敏
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2003, no.11, pp.79-86, 2003-12-28 (Released:2011-05-20)
参考文献数
13
被引用文献数
1 1
著者
加藤 元信
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.1999, no.7, pp.11-25, 1999-03-31 (Released:2011-05-20)
参考文献数
39
著者
市川 秀和
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2005, no.13, pp.17-22, 2005-12-30 (Released:2011-05-20)
参考文献数
3

近代日本の造園界に大東亜戦争がもたらしたものとは、何だったのか。既に建築や絵画、映画、文学等では、戦争遂行に当たっての役割や戦後の評価をめぐる多角的な学術研究が進められている現在、このような視座から近代日本における造園史あるいは庭園史ヘアプローチするのも有効であろうと考える。従って、かかる課題を究明する一つの試みとして、これまでの大正期の田村剛による庭園改善運動に関する研究成果を基に、続く戦時下での田村の「国民庭園」提唱を、時局の造園思潮と合わせて着目したい。
著者
河原 武敏
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.1993, no.1, pp.6-16, 1993-03-01 (Released:2011-05-20)
参考文献数
7

庭上における四季の景物を代表する「雪月花」を契機とする私的行事及び遊びが、平安期の庭園内においてどの様に享受されたかに就いて、王朝文学から明らかにした。その結果、「雪」には、雪まろばし・雪山作り・雪見。「月」には月見の宴・月と納涼・月見。「花」には花の宴・花見と散策。その他庭上の遊びには舟遊び・蹴鞠などの存在が確認され、これらは我が国におけるこの種の行為の原点であることを、関連する絵巻物その他から指摘した。
著者
堀澤 眞澄
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2006, no.14-15, pp.63-68, 2006-03-31 (Released:2011-05-20)
参考文献数
11

養浩館と千古の家庭園は、山田宗偏がその作庭に関与していると考えるが、両庭の三尊石組についても、同様に江戸時代初期元禄、宝永の頃に宗偏が石組を作ったのではないかと推定する。
著者
森 泰規
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2014, no.28, pp.28_23-28_28, 2014 (Released:2018-10-08)

『作庭記』は、以下のように書く。「石をたてんにハ、まづおも石のかどあるをひとつ立おおせて、次々のいしをバ、その石のこはんにしたがひて立べき也。」しかし、石はものを言わない。ものをいうはずのない石の求めに従え、とは、読者に何を伝えようとしているのか。そこで、たんに新解釈を提示するのではなく<経営課題に置き換えて理解したら別の意味で参考になるのではないか>という考えに基づき、結果として<まったく別のものに置き換えて考えることで、かえって新しい光を当てる>ことをめざした。本稿は、新解釈の提案ではなく、あくまで「石のこはん」という記述を経営戦略の課題と重ねて、考察を提示するものである。
著者
西 桂
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2019, no.33, pp.33_1-33_14, 2019 (Released:2022-04-28)
参考文献数
1

姫路城は国宝の名城として知られているが、これまで城内の庭園の存在については不明であった。ところが平成9年(1997)に発見された「播州姫路城絵図」(大絵図)によって、藩主本多忠政(ただまさ)時代に造営された三の丸向(むこう)屋敷(やしき)に壮麗な庭園が存在していたことが明らかになった。さらに大絵図作成の約80年後に、藩主酒井忠以(ただざね)が『玄武日記』を残している。この日記の中に、池を舟で渡り、築山にある「御茶屋」へと向かい茶事を催した記事や、園内を回遊しながら観賞していく中で、庭園の構成要素が読み取れる興味深い記事が見える。姫路市では平成27年度より「世界文化遺産姫路城公式ガイドツール整備活用事業」の作成事業が進められている。その一端として、向屋敷庭園は現存しないが、残された資料や関連する事例を検討しながら、在りし日の三の丸向屋敷庭園の復元的考察を試みることになった。この調査研究を契機として、さらに文献資料の検討や庭園構成など様々な方面からの調査や研究、そして可能な限りの発掘調査等が望まれる。
著者
渡邉 美保子
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2013, no.27, pp.27_41-27_49, 2013 (Released:2018-10-01)
参考文献数
22

山縣有朋(1838~1922)は、明治・大正期の陸軍軍人、政治家である。邸宅を構えるごとに自ら指揮をとり築庭した。現存する3つの庭園のデザインを見ると、椿山荘(1878)ではもともとあった自然の地形、谷、湧水、自生していた植物を生かして作庭したのに対し、無鄰菴(1894)と古稀庵(1907)では、水を引き入れ造成し苗木を植樹した。山縣の作庭手法には、自然の「間」を読み取り、自然を原寸で写し取るという独自性が看取できる。
著者
澤田 天瑞
出版者
The Academic Society of Japanese Garden
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.1998, no.6, pp.17-26, 1998

1. What and How to Pursue in This Study? Here I intend to clarify astronomically the conception of gardening in the Osada-hachiman-komo Shrine in Osada area, Nakatsu, Oita on the basis of the Kojiki, the Nihon-shoki the Shoku-nihonki and the Fudoki.<BR>2. The Gist of This Divine Garden To my way of thinking, the Garden of this Osada-hachiman-komo Shrine was built by Usano Kimi Ikemori in 8 A. D. who regarded it as the compass needle of an intercontinental navigation.<BR>In his opinion, the subject of this divine garden was "three sea gods" the conception of it, "Orion" and the formation of it, "three stars."
著者
外村 中
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2009, no.20, pp.1-19, 2009-02-27 (Released:2012-02-28)
参考文献数
121

陳の眞諦(499-569)が559年に漢訳した『立世論』(『佛説立世阿毘曇論』)には、須彌山の山頂にあるといわれる帝繹天の善見城について、説明が見られる。それは、非常に詳細かつ体系的であり、仏教の都市や園林に関連して研究を行うときには必ず目を通しておくべき情報である。本稿では、その内容について、初歩的な考察ならびに特に重要と思われる箇所の訳出を行った。善見城は、正方形の都市で、多くの園林がある点と「善法堂」と呼ばれる集会堂がある点を大きな特徴とする。園林は、豪華なもので「方池(四角い池)を主要な構成要素とする園林」であり、日本庭園を含める東アジアの古代園林とは異なり島や築山は見られない点などが注目される。
著者
澤田 天瑞
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.17, pp.39-53, 2007-08-31 (Released:2011-05-20)
参考文献数
22

Saint Sennyo, the head priest of Higashi Honganji temoje asked Ishikawa Jozan to design a garden early in the Edo period. This is called Shoseien Garden of Higashi Honganji temple.I consider it to be a “Kaiyushiki Garden”. It reproduced “the Kawarain Garden” of the Minister of the Left, Prince Minamoto Toru (822 - 895). The main theme of this garden is “Kawarain”. and the design is based on “the salt pan of Mutsu district”, and the configuration is “the Noh song Toru”
著者
大澤 伸啓
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2007, no.16, pp.79-84, 2007-03-31 (Released:2011-05-20)
参考文献数
26
著者
廣安 春華
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2013, no.27, pp.27_29-27_40, 2013 (Released:2018-10-01)
参考文献数
7

平安時代初期に造営された藤原冬嗣の邸宅・閑院は創建当時の姿について不明な点が多い。本研究では、閑院への行幸や餞別の宴の際に詠まれた漢詩を庭園史の観点から整理・分析し、庭園意匠と利用目的を考察した。漢詩には、釣・弾琴・喫茶・詩作などの遊興の様子やそれらに用いる釣殿・薬室(茶室)・花亭といった庭園内の施設が詠まれており、遊興面に配慮した邸宅だったことが明らかになった。閑院は臣下の邸宅であるが故に接遇面に配慮されていたことがうかがえる。また、行幸については、冬嗣と家人に対する叙任等が目的であり、詩宴も天皇と臣下の親密さを確認する目的のもの(密宴)であったと推測できる。