著者
外村 中
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文学報 (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
no.103, pp.1-43, 2013

琵琶は,古代中世の東アジアにおいて最も流行していた楽器の一つである。小稿では,正倉院に伝わるタイプの琵琶の源流とその流伝について,新たな仮説を提起する。従来の研究では,とくにローマとの関連は考察されていないようであるが,琵琶をひいては伝統音楽をあるいはさらには東西文化の交流を総合的に検討するためには,見落としてしまってはならないであろう。「阮咸」は,中国起源あるいは中国系であるとされる。そういえないことはないであろう。ただし,その原初タイプは,西アジア系長頸リュートから2世紀頃から3世紀頃までに中国において分岐したものらしい。また,1世紀から3世紀頃の西アジア系長頸リュートの中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝における流伝は,ローマあるいはローマ文化圏と関連がありそうである。「曲項」は,ペルシャ起源とされるが,ローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから2世紀頃までに中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「五絃」は,インド起源とされるが,正確にはローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから3世紀頃までに南方インドのサータヴァーハナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「秦漢」は,詳細不明であるが,あるいはギリシア・ローマ文化圏の梨形直頸リュートの直系あるいはそれに近いタイプであったかもしれない。
著者
外村 中
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方学報 = Journal of Oriental studies (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.95, pp.580-524, 2020-12

Regarding the chronology of Early Buddhism, many researchers have been discussing which to take, the "long" or the "short" chronology, in order to pinpoint the year of Śākyamuni's death. In this article, the author advocates the possibility to accept both chronologies, because they were apparently based on and developed from the same original information. It appears that the history of "118 years" after the death of Śākyamuni was intentionally extended to that of "236 (=118 x 2) years" in the long chronology, and that in it the year of Aśoka's accession was accordingly set as the 219th year, when "218 (=118+100) years" had elapsed. This point seems to have been overlooked in previous studies, but should be taken into account. (1) The year of Aśoka's accession is around 268 BCE. (2) The year of Kanishka's accession, or the 1st year of a Kusāna century, is around 127 CE. (3) Xuanzang's narrative about King Kanishka is reliable. If these three points can be accepted, the above "236 (=118 x 2) years" theory should be adopted as the most likely explanation. As a result, the chronology can be read as following : The year of Śākyamuni's death is around 368 BCE. The date of his death is the autumnal equinox day, the 22nd day of the eighth month of the year in the Indian calendar. Around 268 BCE, the 101st year, when "100 years" had elapsed since Śākyamuni's death, Aśoka acceded to the throne. In the same year, Mahādeva started five modifications of the Buddhist teachings. Around 258 BCE, the 111th year, when "110 years" had elapsed, a group of monks in Vaishālī started ten unlawful matters. Around 252 BCE, the 117th year, when "116 years" had elapsed, the fundamental schism took place. The original Buddhist group was split into two, the Sthaviravāda and the Mahāsāmghika schools. Around 250 BCE, the 119th year, when "118 years" had elapsed, Mahinda arrived in Sri Lanka and introduced Buddhism. In the same year, the Vibhajyavāda school separated from the Sthaviravāda school.
著者
外村 中
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.1-14, 1992-04-08
被引用文献数
1 3

『作庭記』にいう枯山水は,はたして,日本独自のものだろうか。本論は,日本,韓国,並びに,中国の古代庭園に関する文献や,考古発掘資料の代表例を比較検討することにより,『作庭記』にいう枯山水の源流は,中国の古代庭園に見出し得るのではなかろうかと考える理由を明らかにしたものである。
著者
外村 中
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
人文學報 = The Zinbun Gakuhō : Journal of Humanities (ISSN:04490274)
巻号頁・発行日
vol.103, pp.1-43, 2013-03-25

琵琶は,古代中世の東アジアにおいて最も流行していた楽器の一つである。小稿では,正倉院に伝わるタイプの琵琶の源流とその流伝について,新たな仮説を提起する。従来の研究では,とくにローマとの関連は考察されていないようであるが,琵琶をひいては伝統音楽をあるいはさらには東西文化の交流を総合的に検討するためには,見落としてしまってはならないであろう。「阮咸」は,中国起源あるいは中国系であるとされる。そういえないことはないであろう。ただし,その原初タイプは,西アジア系長頸リュートから2世紀頃から3世紀頃までに中国において分岐したものらしい。また,1世紀から3世紀頃の西アジア系長頸リュートの中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝における流伝は,ローマあるいはローマ文化圏と関連がありそうである。「曲項」は,ペルシャ起源とされるが,ローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから2世紀頃までに中央アジア西部・北方インドのクシャーナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「五絃」は,インド起源とされるが,正確にはローマ文化圏からもたらされた梨形直頸リュートから3世紀頃までに南方インドのサータヴァーハナ朝で分岐したものを原初タイプとするらしい。「秦漢」は,詳細不明であるが,あるいはギリシア・ローマ文化圏の梨形直頸リュートの直系あるいはそれに近いタイプであったかもしれない。
著者
外村 中
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.56, no.1, pp.1-14, 1992-08-10 (Released:2011-07-19)
参考文献数
66
被引用文献数
3 3

『作庭記』にいう枯山水は, はたして, 日本独自のものだろうか。本論は, 日本, 韓国, 並びに, 中国の古代庭園に関する文献や, 考古発掘資料の代表例を比較検討することにより, 『作庭記』にいう枯山水の源流は, 中国の古代庭園に見出し得るのではなかろうかと考える理由を明らかにしたものである。
著者
外村 中
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
ランドスケープ研究 : 日本造園学会誌 : journal of the Japanese Institute of Landscape Architecture (ISSN:13408984)
巻号頁・発行日
vol.64, no.3, pp.266-269, 2001-01-29
被引用文献数
2

中国ではすでに5世紀後半頃には,生活環境にすぐれた郊外に住居を構え,朝早く起きて都市内にある職場に通うといった,いわば極めて現代的な生活様式が一部知識人達の間に流行していたらしいことが認められる。本稿は,この点に関して最も詳しい記録を残した人物のひとりである梁の沈約(441-513)の郊居(郊外の住居)についての基礎的な考察である。
著者
外村 中
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.57, no.3, pp.258-271, 1993-02-28 (Released:2011-07-19)
参考文献数
25
被引用文献数
1 1

大仙院の庭園を代表とするいわゆる枯山水は, はたして, 本当に, 日本独自の庭園様式なのであろうか。本稿は, 日本において枯山水が成立したと考えられる時代に, 日本とほぼ同様の庭園趣味が, 韓国にもあったらしいことを紹介し, 枯山水の新たな解釈の方向性を示すものである。
著者
外村 中
出版者
京都大學人文科學研究所
雑誌
東方学報 = Journal of Oriental studies (ISSN:03042448)
巻号頁・発行日
vol.93, pp.280-205, 2018-12

The Buddha-avatamsaka-sūtra (also : Avatamsaka-sūtra or Flower Adornment Sutra) with the teaching about Buddha Vairocana is thought to have been compiled in Northwestern India or Central Asia by the end of the 4th century CE at the latest. At present there is no complete version of the original Sanskrit sutra available. On the other hand, two full versions of Chinese translations are still extant : one is the so-called 60 fascicle Huayanjing made in the 5th century CE and the other is the so-called 80 fascicle Huayanjing in the 7th century CE. In East Asia, the Buddha-avatamsaka-sūtra has been considered as one of the most fundamental Mahāyāna sutras. However, due to the fact that the essential information is extremely fragmented and dispersed over the pages of the long texts, up to the present the two Chinese versions' contents concerning the buddha body and the universe have not been clearly understood by modern scholars yet. In order to establish a working basis for comparative discussion in the fields of history of science, arts and culture as well as religious studies, relevant fragments of information were extracted from both versions, organized and analyzed for this paper, coming to the following result : Concerning the issues, the basic idea of the Buddha-avatamsaka-sūtra apparently was established around the beginning of the second century CE or earlier. The original Sanskrit sutra seems to have been the earliest Mahāyāna scripture that explained an idea of a full picture of the universe in relation to the twofold buddha body. The sutra showed that the dharma body, which embodies the human buddha body, pervades the whole space of the universe. It also described the universe as following : 1) existing as one, 2) having limitless space, 3) having limitless time, 4) having no absolute center (=Buddha Vairocana is preaching not at the center of the universe), 5) being pure, 6) including even the inside of the atmosphere of a planet (=a world with Mt. Sumeru), and 7) really existing as a whole. However, for the 5th century CE version, the issue listed under no. 4) was obviously not translated literally, but intentionally edited to propagate the idea that the universe has an absolute center, where there is a cosmic lotus flower, on which Buddha Vairocana is turning the wheel of the dharma. That being so, it could be said that the 60 fascicle Huayanjing should not be considered as a mere translation but rather understood as a sutra, that was newly created in East Asia with a particular agenda. This new interpretation and possibility would have to be taken into account, especially when analyzing works of East Asian Buddhist art with respect to cosmological context.
著者
外村 中
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2009, no.20, pp.1-19, 2009-02-27 (Released:2012-02-28)
参考文献数
121

陳の眞諦(499-569)が559年に漢訳した『立世論』(『佛説立世阿毘曇論』)には、須彌山の山頂にあるといわれる帝繹天の善見城について、説明が見られる。それは、非常に詳細かつ体系的であり、仏教の都市や園林に関連して研究を行うときには必ず目を通しておくべき情報である。本稿では、その内容について、初歩的な考察ならびに特に重要と思われる箇所の訳出を行った。善見城は、正方形の都市で、多くの園林がある点と「善法堂」と呼ばれる集会堂がある点を大きな特徴とする。園林は、豪華なもので「方池(四角い池)を主要な構成要素とする園林」であり、日本庭園を含める東アジアの古代園林とは異なり島や築山は見られない点などが注目される。
著者
外村 中
出版者
奈良国立博物館
雑誌
鹿園雜集 (ISSN:13466402)
巻号頁・発行日
no.7, pp.1-24,図巻頭1p, 2005-03
著者
外村 中
出版者
古代学協会
雑誌
古代文化 (ISSN:00459232)
巻号頁・発行日
vol.61, no.3, pp.422-429, 2009-12
著者
外村 中
出版者
社団法人 日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.54, no.3, pp.215-221, 1990-01-25 (Released:2011-07-19)
参考文献数
40

通説によれば, 光福寺の開山和尚である宗心 (1541-1626) が, 立花の理論を応用した作庭手法をあみだし, 聖衆来迎寺の庭で, 自らその手法を実践したという。本稿は, 光福寺に伝わる文書を紹介検討し, 宗心の作庭手法は, 実は, 後世の捏造であり, また, 聖衆来迎寺の作庭者も, 宗心ではなく, 実は, 光福寺の門人で辰巳宗源という名の人物であった可能性があることを指摘するものである。
著者
外村 中
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
日本研究 (ISSN:09150900)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.21-40, 2015-03

日本の奈良の東大寺大仏(752年開眼)は、宇宙に花咲く蓮の花托に坐す仏を表したもので、世界的にも有名な芸術作品の一つである。また、日本の華厳宗の大本山である東大寺の本尊であるから、大乗仏教の最も代表的な経典の一つである『華厳経』を当時の日本人が如何に理解していたかを考察する上でも、非常に重要な仏像である。ところが、大仏は、意匠的には、華厳宗がもとづく『華厳経』よりも律宗で重んじられた『梵網経』の内容に符合しているようにも見える。その理由は、いまだ明らかにはされておらず、大仏は、実のところは華厳教主像ではなく、梵網教主像であろうとする説もある。しかしながら、やはり華厳教主像と見るべきであろう。小稿は、そのように思われる理由を整理するものである。『華厳経』の漢訳完本である『六十華厳』と『八十華厳』の内容、とくに両仏典が記す宇宙論の内容を比較分析するに、『六十華厳』の内容には重大な欠落があることが知られる。おそらくは、大仏の意匠を決定するにあたり、『六十華厳』のその欠落を補うために、『梵網経』の内容が援用されたのであろう。ただし、大仏は、積極的に梵網教主像として造られたものではなく、あくまで華厳教主像として造られたものらしい。大仏の意匠は、確かに『八十華厳』の内容とは齟齬をきたすが、実は『六十華厳』の内容とは必ずしも違うものではない。この点は、従来の研究においては注意が払われていないが、大仏が六十華厳教主廬舎那像として造られたものであることをしめすものであろう。
著者
外村 中
出版者
日本庭園学会
雑誌
日本庭園学会誌 (ISSN:09194592)
巻号頁・発行日
vol.2009, no.21, pp.21_1-21_14, 2009 (Released:2012-02-22)
参考文献数
1

近年注目されている説によれば、飛鳥の須彌山石は、夷狄が当時の日本の朝廷に対して行う服属儀礼のための装置であったらしいとされる。そして、その儀礼は帝釋天や四天王に関連する神聖なあるいは呪術的なものであったらしいとされる。さらには、『倶舍論』にもとづきつつ、須彌山石と東大寺大仏蓮弁の須彌山図とには共通点が見られるので、須彌山石は意匠的にも須彌山を象徴したものであろうとされる。しかしながら、『日本書紀』や『倶舍論』などの内容を確認してみると、以上のように解釈することは適切ではなさそうである。須彌山石は、文化力誇示のための装置と見るほうがよいであろう。また、その意匠についても、さらに検討が必要であろう。
著者
外村 中
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.57, no.3, pp.258-271, 1994-02-28
被引用文献数
1

大仙院の庭園を代表とするいわゆる枯山水は,はたして,本当に,日本独自の庭園様式なのであろうか。本稿は,日本において枯山水が成立したと考えられる時代に,日本とほぼ同様の庭園趣味が,韓国にもあったらしいことを紹介し,枯山水の新たな解釈の方向性を示すものである。