著者
佐々木 りか
出版者
岩手大学教育学部英語教育科
雑誌
岩手大学英語教育論集 = Bulletin of English education, Iwate University (ISSN:13447807)
巻号頁・発行日
no.13, pp.50-62, 2011

本稿では、翻訳とは何かを明らかにするための予備的研究として、映画字幕に対象を限定し、量的及び質的観点からその翻訳を分析し考察していく。今回は、映画Enchanted (『魔法にかけられて』)を取り上げ、字幕翻訳の特徴を探る。ところで、一般に翻訳というと、元の言語と翻訳された言語は、一対一の対応が想定されるのであるが、実際は両言語の違いによって必ずしもそうなってはいないのではないかと考えられる。例えば、英語から日本語への翻訳の場合、それらの対応の違いを見ることは、英語と日本語それぞれの言語構造などの違いを見ることになるのではないか。本稿は、映画における字幕翻訳を分析対象としているが、字幕というのは、1 秒間に3~4 文字画面に表示されるのが一般的で、画面上は横書きで最大1 行に13~14 文字を2 行まで表示できるとされている。さらに、普通は役者の声が出ている(口が動いている)時間だけ表示される。よって、元の英語を全て訳してしまうと、字幕をその時間内に表示し切れなかったり、画面上で字幕のスペースに収められなかったりすることから、元の言語と翻訳された言語が一対一で、対応していることが、一般の翻訳よりも少ないのではないかと考えられる。そのような意味で、映画字幕というのは、一般の翻訳において対応の違いを生み出す言語の違いだけではなく、更なる制約を持っているといえる。本稿では、そのような制約に焦点を当てて字幕翻訳を分析し考察していくことにする。
著者
山口 豊
出版者
岩手大学教育学部英語教育講座
雑誌
岩手大学英語教育論集 (ISSN:13447807)
巻号頁・発行日
no.2, pp.64-73, 2000

あなたがカウボーイであったり、またはカウボーイの親しい友人がいるのでもなければ、カウボーイが実際どういった人たちなのか、また彼らの生活がどういうふうなのかを知るのは難しい。我々のまわりにあるカウボーイたちの姿のほとんどは、偶像化されたものである。世の中はカウボーイもどきであふれ、日本にいるからあたりまえだが、真のカウボーイを見つけるのは困難である。特に最近の若者たちがファッションとして身につけるウェスタン風の帽子や、その他の衣服や靴などを見ると、カウボーイたちの姿(「かっこう」と言ったほうが良いかも知れない)がどこか一人歩きしている感じがある。最近よくテレビに出て、いろいろな分野での意見を述べているテリー伊藤(もはや若者ではないが、若者文化に理解のある)など、その代表のようなものだろう。
著者
星野 勝利 HOSHINO Katsutoshi
出版者
岩手大学教育学部英語教育講座
雑誌
岩手大学英語教育論集 (ISSN:13447807)
巻号頁・発行日
no.1, pp.80-94, 1999

Adventures of Hucklebrrγ Finn(1885,以下Huckleberry Finn)の冒頭で、語り手の少年Huckは、Adventures of Tomyen(1876,以下Tom Sawyer)に触れる。Huckによれば、Tom Sawyerという本は、「マーク・トウェインさん(Mr.Mark Twain)」が書いた本で、だいたいは「ほんとのこと(truth)」が書かれているが、「尾ひれをつけたところ(Stretchers)」も少しあるという。しかしこの「尾ひれ」に関して、Huckは、著者である"Mr.Mark Twain"を弁護する。理由は、「うそをっいたことのない人などみたことない(I never seen anybody but lied one time or another)」(1章)からである。1
著者
境野 直樹
出版者
岩手大学教育学部英語教育科
雑誌
岩手大学英語教育論集 = Bulletin of English education, Iwate University (ISSN:13447807)
巻号頁・発行日
no.13, pp.113-128, 2011

William Shakespeare (1564-1616)の作品の成立年代については、そもそもその「成立」のありかた-'authorship' のありよう-からすでに、確実なことはわかっていない。上演用の台本が、当時の版本と同じであったか、それとも異なっていたか、版本は執筆者の意図にどの程度忠実であったのか、検閲制度の介入や写字生、印刷所の仕事の信頼度など、気になり出せばきりがない。"Shakespearecannot be approached directly;he has been modified by his own after-history"『お気に召すまま』(As You Like It)についても、こうした事情は変わらない。それどころかこの作品の成立/受容史は、その超源の不確かさにおいて、際だった特徴を有している。作者生前の上演記録の不在、生前の版本の不在、出版遅延をめぐる謎-英国におけるこの劇の最初の上演記録は、作者の死後じつに120年余りを経たものである。それは近代的な屋内劇場での上演であり、騒然たる立ち見の群衆ひしめくシェイクスピアの時代の青空天井の円形の劇場とはあきらかに異質な演劇の空間だったはずだ。「騒然」と書いたが、観客のマナー以上に上演にとって不都合なのは、劇場の音響条件である。エリザベス時代の平戸間の「聴衆」は、18世紀の-おそらくはかなり洗練された屋内劇場の-「観客」と違って、響的にかなり不利な条件下で観劇していたはずである。トマス・ライマー(Thomas Rymer)によれば、18世紀の劇場には「聴衆」と「観客」が混在していた。つまり、観劇のありようそのものが、あるいは時代の求める芝居の価値基準が、変容しつつあった時代といってよいだろう。それはまた、台詞と演技が乖離してゆく経験、そしてその事離を積極的に演劇の効果に組み入れてゆくことが模索された時代だったとも考えられるだろう。本稿は、『お気に召すまま』の演劇的要素について、現存する最古の上演記録である1740年の時点でそれらがすでに少なからず改変され「近代化」されていた事実を確認し、このテクストを「復元」することの困難さについて、主として挿入歌をめぐる問題を指摘することを通じて論じてみたい。