著者
小寺 智津子
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
雑誌
東京大学考古学研究室研究紀要 (ISSN:18803784)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.45-63, 2010-03-20

弥生社会ではガラス製品は装飾品としての用途以上に、政治的意味合いを伴う威儀品として私用されたため、その研究は弥生社会の分析へとつながるものである。一方ガラス素材は基本的に全て搬入品であり、当時アジアにおいて奢侈品として広く流通していたものであった。ガラスは当時の国際的な交流についての手掛かりを与えてくれる遺物でもある。本項では弥生時代のガラス製品の中でガラス釧を取り上げて詳細な検討を行った。まず出土した釧を各々細かく観察した後、西谷タイプと南大風呂タイプの大きく2タイプに分けた。さらに製作地を検討するために弥生時代の銅釧と比較を行い、国内でその形状の系譜を追うことが可能かを考察した。結果どちらのタイプも国内における系譜は存在せず、搬入品であることが明確となった。次に釧を出土した各墳墓の特徴や釧の出土状況などを検討し、副葬品としてのガラス釧の入手経路やその服装された背景を考察した。結果それぞれの地域の中で、独自の価値を持って副葬された状況が垣間見えるものとなった。特に出雲・丹後地域のガラス釧が副葬された主張の傑出性が高く、当該地域におけるガラス釧の威儀品としての重要性の高さや、各首長が独自に列島外から入手した可能性が推測された。また西谷タイプのガラス釧は釧として副葬された状況が伺える一方で、大風呂南の釧は中国の「佩玉」的な意図をもって副葬された可能性が浮上し、丹後地域の独自性、大陸との関係性の深さがより抽出される結果となった。今後の課題はこれらのガラス釧の製作地と古代アジアにおける流通経路の検討である。
著者
石丸 あゆみ
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
雑誌
東京大学考古学研究室研究紀要 (ISSN:18803784)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.65-96, 2011-03-20

本稿では、最近増加した資料を含め弥生系土器が出土した遺跡のうち、弥生系土器の資料数が多く様相がそれぞれ異なる4遺跡と、朝鮮半島と日本列島を結ぶ交渉ルート上に位置し、拠点的な役割を果たしていたと考えられる原ノ辻遺跡の出土土器を比較検討することで、当時の日韓交渉の復元を試みた。弥生系土器の様相からI期:城ノ越式から須玖I式古段階、II期:須玖I式新段階から須玖II式の2段階に区分し分析を行った。その結果、I期は、弥生時代前期後半に交易の中継地として開始された原ノ辻遺跡と、朝鮮半島南部の金海地域を中心とした各地域との短期間の居住を伴う小規模な交渉が行われた時期、また勒島の集落もこの時期に朝鮮半島側の交易拠点として開始されたが、この時点では複数存在する拠点の一つであるということが明らかとなった。II期は、前漢の武帝による楽浪郡を含む4郡の設置以後に活発化した交易に、北部九州沿岸域を中心とした西日本の各地域の集団が積極的に関与するようになったため、原ノ辻が交易の拠点として発展を見せ、環濠集落が成立する時期である。勒島においてもこの時期が最も多くの弥生土器がもたらされる時期であり、原ノ辻の弥生土器と強い関連を読み取ることができるため、原ノ辻と勒島の間に集約された交易ルートが確立されたと考えられる。
著者
石丸 あゆみ
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
雑誌
東京大学考古学研究室研究紀要 (ISSN:18803784)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.65-96, 2011-03-20

本稿では、最近増加した資料を含め弥生系土器が出土した遺跡のうち、弥生系土器の資料数が多く様相がそれぞれ異なる4遺跡と、朝鮮半島と日本列島を結ぶ交渉ルート上に位置し、拠点的な役割を果たしていたと考えられる原ノ辻遺跡の出土土器を比較検討することで、当時の日韓交渉の復元を試みた。弥生系土器の様相からI期:城ノ越式から須玖I式古段階、II期:須玖I式新段階から須玖II式の2段階に区分し分析を行った。その結果、I期は、弥生時代前期後半に交易の中継地として開始された原ノ辻遺跡と、朝鮮半島南部の金海地域を中心とした各地域との短期間の居住を伴う小規模な交渉が行われた時期、また勒島の集落もこの時期に朝鮮半島側の交易拠点として開始されたが、この時点では複数存在する拠点の一つであるということが明らかとなった。II期は、前漢の武帝による楽浪郡を含む4郡の設置以後に活発化した交易に、北部九州沿岸域を中心とした西日本の各地域の集団が積極的に関与するようになったため、原ノ辻が交易の拠点として発展を見せ、環濠集落が成立する時期である。勒島においてもこの時期が最も多くの弥生土器がもたらされる時期であり、原ノ辻の弥生土器と強い関連を読み取ることができるため、原ノ辻と勒島の間に集約された交易ルートが確立されたと考えられる。
著者
久我谷 渓太
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
雑誌
東京大学考古学研究室研究紀要 (ISSN:18803784)
巻号頁・発行日
vol.30, pp.1-32, 2016-03-29

本稿は、鋸歯尖頭器・石鋸の系譜と展開の分析をもとに、縄文時代の九州西北部沿岸地域から新石器時代の朝鮮半島にかけて成立していたとされる「漁撈文化」「漁撈文化圏」の再検討を試みたものである。はじめに基礎作業として資料の集成を行い、その結果から両者を一体的に捉えた4つの類型を提示し、類型ごとの年代や分布状況を整理した。従来の研究ではこれらの系譜を朝鮮半島や大陸方面に求める見解があったが、分析の結果から唐津湾沿岸地域において凹基形鋸歯鏃を構造的な特徴を維持しつつ大型化させたことにより、出現したものである可能性を指摘した。破損率の高い脚部を別造りにして交換を容易にすることにより、運用効率を向上させる狙いがあったと想定される。このことから、鋸歯尖頭器を伴わず少数の石鋸のみが確認される遺跡が多数存在するという現象を備蓄分や廃棄品が残置された結果であると解釈し、朝鮮半島の遺跡で石鋸が確認されるのも、九州から限定的・断続的に持ち込まれたものが同様の理由によって当地に残されたことによると捉えた。「漁撈文化(圏)」を構成したとされる他の遺物についても、近年の研究では朝鮮半島との関係性の強さを疑問視する見方が相次いでいるうえ、相互の時間的・地理的な連動性も明確ではないといえる。以上のことから、漁撈具から推察される当時の日韓交流には文化的な共通性・一体性を認めるほどの密な関係は見出せず、総体的な枠組としての「漁撈文化(圏)」の存在自体も認め難いと結論される。Saw-formed edge point and blade are stone implement that it was probably used as a harpoon by combining both. These are recognized in Jomon culture in Kyushu and Korean Peninsula neolith culture characteristically. In the past study, the genealogy of saw-formed edge point and blade in Kyushu has been thought in Korean Peninsula. And this view was considered to be one of evidence that there was "fishing culture" to be common in both areas at that time. In this paper, sort out these four types (and the others), arranged time and distribution of each type. Of four types, "Tokuzotani type" point tend to be excavated with a large quantity of saw-formed edge flint arrowhead. About half of these arrowheads ware damaged barb, it is thought that the reason is these were used as harpoon. When I suppose that saw-formed edge point and blade is saw-formed edge arrowhead which upsized, it is thought that saw-formed edge blade corresponds to barb of saw-formed edge arrowhead. For these reason, it is assumed that saw-formed edge blade was developed for the purpose of improve efficiency of parts replacement by separating barb damaged easily from head part. It is thought that other three types diverged from "Tokuzotani type". Saw-formed edge blade which is accepted in Korean Peninsula is "Shitadani type" and "Monzen type". The existence of "Tokuzotani type" is not recognizable. The number of individual and the remains which there were excavated is overwhelmingly less than in Kyushu. There were brought fragmentarily from Kyushu, did not take root in Korean Peninsula. This result of analysis brings doubt in a frame of "fishing culture".
著者
鈴木 舞
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
雑誌
東京大学考古学研究室研究紀要 (ISSN:18803784)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.105-119, 2015-03-29

殷周青銅器銘文に関する研究では、従来その関心の中心は成文銘をもつ西周青銅容器にある。本稿では、これまで余り顧みられることのなかった殷代武器銘を対象に、その生産に関する考察を行った。 筆者は、これまでに行った検討の中で、殷墟花東54 号墓出土青銅器群に見られる「長」銘の字体が、器物の用途・器種・器形・紋様によって異なり、その中でも特に武器とその銘文の製作については、字体の選択・装飾性・施紋技法との共通性から、鋳型製作時に紋様を施した者によって行われた可能性のあることを指摘した。本稿は、上記の結果が、当該青銅器群に特有の現象であるのか、それとも殷墟期を通じた現象であるのかを検証すべく、それ以外の有銘青銅武器についても集成・検討を試みたものである。その結果、同銘青銅武器群およびその銘文では、器物そのものの形態・紋様に加え、銘文の字形・字体に統一性の見られることから、これらの各要素の定められたモデルに基づいて量産された可能性を考えた。群を成さない武器の銘文もまた、しばしば鏡文字が使用されて一個体内で同一字形の繰り返しや線対称の意識が見られること、銘文・紋様間において鋳型上での線の幅や彫りこみ方に共通点が見られること、銘文・紋様ともに緑松石の象嵌が見られることなどの特徴が見られた。これらは皆、容器銘には見られない特徴である。なおかつ、これらの特徴が殷墟3 ~ 4 期の武器銘に偏って見られたことから、前稿で明らかになった殷墟2 期末における武器生産のあり方が殷墟後半期にも引き継がれたと考えた。 本稿は東京大学文学部列品室所蔵「青銅製容器破片」(登録番号c118)の資料紹介も兼ねている。本遺物は収蔵以来「青銅製容器破片」とされてきたが、実際には青銅製銎式戈の内部分の破片であること、また内の両面には紋様と「亜娃」銘を持つことが分かった。また、各種金文著録に掲載された類似資料と比較検討した結果、当該遺物が1940年前後に安陽で出土した複数点の銅戈のうちのひとつである可能性が指摘できた。到现在为止,很多学者对商周青铜器特别是容器的铭文有过深入的研究。虽然学术界一般称之为" 商周青铜器铭文",但是研究对象却主要集中在西周青铜器铭文,进而根据铭文内容来复原当时的历史。这是因为自商代晚期出现族徽后,到了商代末期才出现长文铭,西周时期得以继承和发展。同时,学界研究铭文字形时,其主要研究对象仍然集中在西周青铜器铭文。在这样的学术背景下,本文以学界容易忽视的商代青铜兵器与其铭文为主要研究对象来探讨其生产方式。 笔者曾经对殷墟花东M54 出土青铜容器与兵器的铭文" 长" 字进行过字体研究,发现了当时按照器物本身的用途、器类、器形、纹饰来选择" 长" 字的各种字体。笔者以此现象为线索推测了在殷墟二期时,工匠们在作坊里制作该青铜器群时,容器与兵器是分开制作的。在花东M54 出土的兵器制造上还有如下三个特点:一是铭文的字形。在一件器物上往往有两个同铭,而且这两个同铭往往采用同一字形或采用反转文字。一般来说,容器上的同铭只见于器身和器盖。而且有些学者曾经提出过,殷墟出土的同铭铜器,无论是同一器物器身和器盖的同铭,还是不同器物的同铭,铭文的字形或间架结构都不完全相同; 二是铭文和纹饰的类似性。兵器铭文有采用绘画性较强或比较简单的字体的倾向,它在制作技术上和纹饰类似,都镶嵌绿松石。根据这些现象,笔者指出了由施纹者担任铭文制造的可能性。从这个方面来看,兵器铭文则完全异于容器铭文。三是兵器的生产方式。本文比较同一器形的几件兵器就发现它们不仅形状、尺寸、纹饰相同,而且铭文字形也基本上相同。当时的人们可能会在制造兵器时模仿一件模型来批量生产几件兵器群。如上三个特点都与容器生产方式不同。因而可以得出如下结论:花东M54 出土青铜器群,兵器和容器是分开制造的。 本文为了验证如上的生产方式是否是花东M54 出土青铜器所独有还是整个殷墟时期都能看到的现象,故收集了除该墓以外的商代兵器铭文材料来进行探讨。若是特例,如上现象只不过反映了花东M54 青铜器群的生产方式。可是,若是普遍现象,则涉及到晚商青铜器的生产方式这样的重大问题。 通过如上的探讨,笔者推测同铭青铜兵器群与其铭文一般都按照器物本身的形状、纹饰、铭文字形批量生产,并且从铭文生产方式来看,兵器与容器的生产方式是不同的。另外,除了各同铭青铜兵器群以外,在单独制造的有铭铜戈的同铭上也可以看到反转文字和完全相同的字形;铭文与纹饰的制造痕迹也有类似性;在铭文与纹饰上都镶嵌绿松石等现象。而且,这些铜戈基本上集中出现于殷墟三、四期。通过以上研究,本文最后指出了分开制造容器与兵器这样的生产方式承续到殷墟后期。 本文兼对东京大学文学部陈列室收藏的" 青铜制容器破片"(编号为c118)作简要介绍。该遗物收藏以来登记为" 青铜制容器破片" 这个遗物名称,可是通过本次的整理工作发现它并不是容器残片而是銎式内戈的残片,也发现了在其内的两面上都有纹饰与" 亚娃" 两个字。同时,通过各种金文著录收集的相关资料可以看出该铜戈残片可能是一九四〇年前后从安阳的某个单位出土的十几件铜戈之一。
著者
林 正之
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
雑誌
東京大学考古学研究室研究紀要 (ISSN:18803784)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.65-125, 2010-03-20

近年東北地方で鉄製鍬先の出土例が増加し、鍬先研究の盛んな関東地方との比較研究が可能になった。本稿では、東北・関東の古代の鍬先を集成してその規格を検討し、鍬先出土遺跡の性格を分析して鍬先の生産・流通体制を考察した。その結果南東北以南では7 世紀後半の国家による新規格導入以後、11世紀まで鍬先の規格が統一され、鍬先の生産・流通に国家や、国家に結びつく勢力が関与したことが判明した。他方北東北では、8 世紀代から南東北以南とは異なる鍬先が作られ、9世紀末の鉄生産の隆盛とともに独自の規格が確立されて製鉄集落を中心に自給的な鍬先生産が展開したが、10 世紀後半の集落再編でこれらの規格は断絶し、以後製鉄機能をもつ防禦性集落単位で多様な鍬先が生産されたことが判明した
著者
石丸 あゆみ
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
雑誌
東京大学考古学研究室研究紀要 (ISSN:18803784)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.65-96, 2011-03-20

本稿では、最近増加した資料を含め弥生系土器が出土した遺跡のうち、弥生系土器の資料数が多く様相がそれぞれ異なる4遺跡と、朝鮮半島と日本列島を結ぶ交渉ルート上に位置し、拠点的な役割を果たしていたと考えられる原ノ辻遺跡の出土土器を比較検討することで、当時の日韓交渉の復元を試みた。弥生系土器の様相からI期:城ノ越式から須玖I式古段階、II期:須玖I式新段階から須玖II式の2段階に区分し分析を行った。その結果、I期は、弥生時代前期後半に交易の中継地として開始された原ノ辻遺跡と、朝鮮半島南部の金海地域を中心とした各地域との短期間の居住を伴う小規模な交渉が行われた時期、また勒島の集落もこの時期に朝鮮半島側の交易拠点として開始されたが、この時点では複数存在する拠点の一つであるということが明らかとなった。II期は、前漢の武帝による楽浪郡を含む4郡の設置以後に活発化した交易に、北部九州沿岸域を中心とした西日本の各地域の集団が積極的に関与するようになったため、原ノ辻が交易の拠点として発展を見せ、環濠集落が成立する時期である。勒島においてもこの時期が最も多くの弥生土器がもたらされる時期であり、原ノ辻の弥生土器と強い関連を読み取ることができるため、原ノ辻と勒島の間に集約された交易ルートが確立されたと考えられる。
著者
林 正之
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
雑誌
東京大学考古学研究室研究紀要 (ISSN:18803784)
巻号頁・発行日
no.24, pp.65-125, 2010-03-20

近年東北地方で鉄製鍬先の出土例が増加し、鍬先研究の盛んな関東地方との比較研究が可能になった。本稿では、東北・関東の古代の鍬先を集成してその規格を検討し、鍬先出土遺跡の性格を分析して鍬先の生産・流通体制を考察した。その結果南東北以南では7 世紀後半の国家による新規格導入以後、11世紀まで鍬先の規格が統一され、鍬先の生産・流通に国家や、国家に結びつく勢力が関与したことが判明した。他方北東北では、8 世紀代から南東北以南とは異なる鍬先が作られ、9世紀末の鉄生産の隆盛とともに独自の規格が確立されて製鉄集落を中心に自給的な鍬先生産が展開したが、10 世紀後半の集落再編でこれらの規格は断絶し、以後製鉄機能をもつ防禦性集落単位で多様な鍬先が生産されたことが判明した
著者
弦本 美菜子
出版者
東京大学大学院人文社会系研究科・文学部考古学研究室
雑誌
東京大学考古学研究室研究紀要 (ISSN:18803784)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.131-158, 2014-03-29

本稿では、江戸時代、鎖国期における日本国内への海外産陶磁器の流入について考える。長崎が中国陶磁の入り口として主要なものであったことと、長崎に入ってきた幅広い種類の商品から選択された特定のものが江戸まで運ばれたということを指摘したい。日本が中国・オランダとのみ貿易を行ったこの時期に海外から流入した陶磁器はほとんどが中国製品であり、流入の窓口としては長崎が主なものとして考えられる。長崎と大消費地である江戸の遺跡とで出土した中国陶磁を比較すると、共通するものが多くあることが確認される。江戸時代を通じ長崎と江戸は太いパイプでつながっていたことを実例として示すものである。また沖縄を通して入ってきた中国陶磁と比較すると、中国南部の製品を中心とした沖縄ルートでの流入に対し、景徳鎮窯系の製品を多く含むという長崎ルートの特徴が見て取れる。江戸では景徳鎮窯系の磁器が輸入陶磁器の大部分を占めることから、江戸へ運ばれた中国陶磁は主に長崎から入ってきたものであると推定することができる。江戸と共通する中国陶磁は唐人屋敷跡・オランダ商館跡でも確認されるため、貿易の担い手については中国船・オランダ船の両方が考えられる。長崎で出土するが江戸ではほとんど出土していないものがあることもわかった。江戸で出土した中国陶磁は、特に江戸時代後期には生産地や器種に偏りが見られる一方で、長崎では江戸で少ない福建・広東産の粗製の製品や、他の器種も多数確認された。江戸での偏りは陶磁器が長崎に入った後になされた選別によるものだと判断できる。中国陶磁が江戸へ至る間に働いた選択の背景としては、中国陶磁に付与されたブランド性や、中国陶磁とそれを用いた行為との関係があったことが推察される。江戸での需要に応えたもの以外の中国陶磁が長崎で見られることからは、中国陶磁の日本への流通という面から見た長崎と江戸の性格の違いが看取される。