著者
徳永 哲
出版者
日本赤十字九州国際看護大学
雑誌
日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing (ISSN:21868042)
巻号頁・発行日
no.13, pp.21-32, 2014

19世紀の中頃、グラスゴーの公衆衛生は最悪の状態にあった。埋葬地に隣接していたグラスゴー王立病院は熱病病棟や外科病棟を拡充し、1860年代には感染症を消毒によって防ぐことに成功した。1885年にグラスゴー王立病院看護師長に就任したレベッカ・ストロングは、急速に進歩する医学に適合した看護師準備訓練学校を1891年に設立し、看護師資格認定試験を第3者の手で行うことを提唱した。 折しも、ロンドンでは看護師資格認定試験及び国家登録をめぐる賛否両論が看護界を2分していた。認定登録推進派の英国看護協会と反対派のナイチンゲールは激しく対立したが、結局女王の勅令によって1887年から3年間続いた闘いに終止符が打たれた。この論争はまさに看護教育の歴史的分岐点を象徴する出来事であった。ストロングの看護教育刷新は英国看護協会側の立場に立っていた。看護教育にとって最も優先されるものは国家資格認定試験合格なのか、あるいは高度な技術と測りがたい人格的資質の育成なのか。そこには今日の看護教育のあり方を再考させる問題が提起されている。Report About the middle of the 19th Century, Glasgow's hygiene was the worst condition in the UK. The Glasgow Royal Infirmary close to the burial places expanded the fever ward and the surgical department, and succeeded in preventing infective diseases by an antiseptic. Rebecca Strong who had become Matron of the Glasgow Royal Infirmary in 1885 established the preliminary training-school for nurses suitable for rapidly developing modern medical science in 1891 and proposed a recognized test of qualification conducted by a third person. On the other hand, the nursing world in London was divided into the two over the pros and cons of a recognized test and nurse registration. While the British Nurses Association promoted the test and registration, F. Nightingale opposed to them and harshly criticized the promoting movement. Their battle continued for 3 years from 1887. Finally Imperial ordinance gave the battle an end in 1891. R. Strong's renovation of nursing education was on the place where the British Nurses Association stood. Their battle was a symbolic event in a turning point of the history of nurse education. Which is more important as the objective for nurse education, "to pass qualifying examination" or "to develop the art and character suitable for nurses"? Today, this question must be also the primary problem which makes us reexamine what the nursing education at college should be.
著者
徳永 哲
出版者
日本赤十字九州国際看護大学
雑誌
日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing (ISSN:21868042)
巻号頁・発行日
no.12, pp.13-31, 2013

19世紀中頃のロンドンには大飢饉を逃れたアイルランド人をはじめ各地域からの移住者がテムズ川河口付近や南側の地域に住み着いた。汚物と悪臭に満ちたその一帯には疫病が蔓延していた。貧しい病人を救済するべくカトリックやプロテスタントの修道女が奉仕活動を始めた。また救貧院や総合病院が拡充され、医学校の開設が相次いだ。ナイチンゲールはこうした社会の変化に心を動かされ、看護に関心を抱くが、1852年まで両親の反対によって外出の自由が奪われ、看護への道が閉ざされてしまった。しかし、8年に及ぶ自室にこもって自学したことは公衆衛生学や薬学などから宗教哲学や近代思想などに及んだ。特に、チャドウィックの「瘴気説」は彼女に大きな影響を与え、スクタリの陸軍病院の衛生改善や国内の近代的病棟の設計に優れた実績を残す基となった。それは、また、ナイチンゲール自身の熱いキリスト教信仰と深く結びつけられ、彼女の看護論の中に根強く生き続けた。そして、このことは看護師に必須の「仕事における三重の関心」(1893年)として集約され、病院での看護の優越性と医療の核となって働く看護師の重要性を主張するに至った。 In the middle of the 19th century, immigrants who escaped from the Great Famine came over from Ireland and other regions into London. They came to live around the southern bank of the Thames River, where they formed a huge Irish town, The river flew through an area brimmed over with excreta and stench and caused different epidemics. Poverty and lack of sanitation became the most important matter in London and demanded an immediate solution. The New Poor Law was established by Chadwick in 1834. Both Catholic and Protestant nursing sisters did the relief work around the area in order to save the sick poor. General hospitals enlarged their wards ad established one medical school after another. Nightingale was not allowed to leave her house and could not follow her call to become a nurse for eight years, during this time the situation of medical care and public health in London were rapidly transformed. However, the eight –year's collecting information and thinking in her house gave her a lot of knowledge about nursing, sanitation, and religion. She read information about reformation of public health and learned Chadwick's Miasmatic theory and medical statistician Farr's zymotic diseases theory. When she went to the Crimean War as a matron, both Miasmatic theory and zymotic disease theory led her to the reformation of sanitation in the hospital as Scutari where she worked. Nightingale is considered a scientist because she mastered medical statistics and was well informed on medicine and sanitation. On the other hand it should not be forgotten that she was a Christian. Her guiding principle was to practice nursing following the teachings of Jesus Christ. There is a contradiction between science and Christianity. Nightingale had the contradiction in her mind. It was this contradiction in her mind that was useful to establish modern nursing because nurses must be concerned with the humanity scope of patients. They have to support recovery from illness and give patients the power to live independently. Nightingale said on one of her essays, "A nurse must have an three-fold interest in her work: an intellectual interest in the case, a hearty interest in the patient, a technical interest in the patient's care and cure."
著者
大重 育美 衛藤 泰秀 小川 紀子 苑田 裕樹 山本 孝治 西村 和美 姫野 稔子 高橋 清美 田村 やよひ
出版者
日本赤十字九州国際看護大学
雑誌
日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing = 日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing (ISSN:21868042)
巻号頁・発行日
no.18, pp.23-30, 2020-03-31

われわれは平成28年度の学長指定研究開始後より、福祉避難所としての仕組みを整えるための活動を行ってきた。平成29 年度には、熊本地震の際に福祉避難所としての運営を行った施設責任者を対象に聞き取り調査を行い、公共施設での福祉避難所の課題を明らかにした。今年度は、日本赤十字九州国際看護大学(以下、本学とする)が福祉避難所として機能するためにどの場所が適切なのか、実際に収容できるのかの実証的な調査が必要であった。そこで、本研究は災害を想定した福祉避難所としての運営に向けた課題を環境の変化と人体への影響という視点から明らかにすることを目的とした。方法は、福祉避難所として想定している本学敷地内のオーヴァルホール、体育館、実習室の外気温、室内温、湿度の経時的な変化を計測し、20歳代から70歳代までの各年代の参加者の自覚的疲労度を主観的評価と体温、血圧、脈拍を経時的に測定した。その結果、室内温は、時間の推移に伴い徐々に下降傾向で、オーヴァルホールと実習室は温度の推移がほぼ同じで2時以降やや下降気味であった。外気温は、オーヴァルホールと体育館は同じ推移であったが、実習室の外気温は棟内であり、気温の低下の影響は少なかった。主観的な評価項目では、「ねむけ感」が時間の推移に伴い高まり、「ぼやけ感」は22時をピークに下降気味となった。したがって、室内温、外気温の変化がほぼ同じだったことから、収容場所は要配慮者の状況によっては、オーヴァルホール、体育館、実習室の利用が可能であることが示唆された。課題は、睡眠環境の整備として寝具の工夫が必要であることが明らかとなった。報告 = report
著者
守山 正樹 鈴木 清史
出版者
日本赤十字九州国際看護大学
雑誌
日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing = 日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing (ISSN:21868042)
巻号頁・発行日
no.18, pp.1-12, 2020-03-31

看護師にとって手の働きは重要であり、触れる技術としてのタッチは看護の基本技術と位置付けられる。しかし看護の初学者に対し、技術としてのタッチの教育を急ぐ前に、タッチの基礎となる「手で対象に触れ感じ考えることの意味」をどのように教育したらよいだろうか。国内外の文献を検索したが、適切な先行研究が見当たらなかった。そこで看護大学の初年次教育用に新プログラムを開発した。 開発に当たっては、筆者が1990 年代から医学生を対象に行ってきた視覚障害体験実習の1プログラム「身の回りの物体に触れて考える」を出発点とした。少人数の設定では、学生は様々な物体(複雑な日用品から人間の手肌まで)に触れて考えることができる。しかしこの設定を大教室に適用するのは難しい。大教室で実行するためには工夫が必要である。飽きることなく触れ続けられ、様々なことを考えられる物体は何だろうか?学生がその指先から"人間性"や"看護の概念"に至るまで、思考を拡げることは可能だろうか? 試行錯誤の結果、気泡緩衝材(通称プチプチ)に注目した。プチプチは独特なアフォーダンスを持っている。通常はプチプチを渡すと学生はすぐにそれを潰し始める。しかし「なぜ潰すのか?それを命と考えても潰せるか?」などの問いを投げかけると、学生は触れることの意味を考え始める。プチプチにナラティブな問いかけを組み合わせ、新教育プログラムとした。2019 年6 月、学生120 名に対して新プログラムを実施した。学生はプチプチを教材として受入れ、"触れることの意味"から"看護と人間性"に至るまで、自律的に思考を発展させたことが観察された。報告 = report
著者
増成 直美
出版者
日本赤十字九州国際看護大学
雑誌
日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing (ISSN:21868042)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.25-36, 2012-12-28

近時、薬剤師の法的責任が問われる判例が目立ち始めた。そこで、近年の調剤過誤事件やそれに対する裁判所の判断等を中心に、とりわけ薬剤師の視点からの法解釈を通じて、現行の薬剤師の法的義務およびその限界を検討することにしたい。具体的には、調剤過誤事件11 件を「医師が交付した処方せんが存在しない場合」、「医師が交付した処方せん自体には問題がない場合」および「医師が交付した処方せん自体に問題がある場合」等に大きく分類し、それぞれについて詳細に検討を加えた。行政法上の規定の遵守、取締りの強化により、調剤過誤事件の防止が期待できるように思えた。
著者
寺門 とも子 喜多 悦子 小川 里美 エレーラ ルルデス 本田 多美枝 上村 朋子 松尾 和枝 五十嵐 清
出版者
日本赤十字九州国際看護大学
雑誌
日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing (ISSN:21868042)
巻号頁・発行日
no.12, pp.57-62, 2013

日本赤十字九州国際看護大学では2012年10月、国際協力機構(JICA)インドネシア看護実践能力強化プロジェクトの一環として、インドネシア看護職の実践力強化のための継続教育システム(キャリア開発ラダー)実践研修の機会を得た。この実践研修はインドネシア保健省をはじめ、看護教育学部を持つインドネシア大学ほか5大学とその協力病院から責任者レベル看護教育担当者18名が参加し、日本赤十字九州ブロック医療施設3施設と本学の協力によって行い、一定の成果を得た。この成果は、引き続き、JICAプロジェクトとして、本学が中心となり、インドネシア国内の看護職現任教育(インサービストレーニング)に活かし発展させていくこととなった。本学が企画し、研修の評価に関わったので、これまでの経過と成果を報告する。Under the auspices of the Japan International Cooperation Agency (JICA), The Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing (JRCKICN) organized and conducted a training program that aims at reinforcing nursing practice in Indonesia by introducing the Japanese Red Cross career development ladder in nursing continuing education system, A total of 18 nurses participated in the training course; they currently hold line management positions at either the Indonesian Ministry of Health, one of the 5 partner faculties of nursing, or partner university hospitals. The first part of the training program was conducted in close collaboration with 3 Red Cross Hospitals and the Kyushu block. Results attained in the program's first phase are being applied during "in service training" at the national lee. This report presents the program planning and implementation processes along with preliminary achievements.
著者
徳永 哲
出版者
日本赤十字九州国際看護大学
雑誌
日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing (ISSN:21868042)
巻号頁・発行日
no.13, pp.21-32, 2014

19世紀の中頃、グラスゴーの公衆衛生は最悪の状態にあった。埋葬地に隣接していたグラスゴー王立病院は熱病病棟や外科病棟を拡充し、1860年代には感染症を消毒によって防ぐことに成功した。1885年にグラスゴー王立病院看護師長に就任したレベッカ・ストロングは、急速に進歩する医学に適合した看護師準備訓練学校を1891年に設立し、看護師資格認定試験を第3者の手で行うことを提唱した。 折しも、ロンドンでは看護師資格認定試験及び国家登録をめぐる賛否両論が看護界を2分していた。認定登録推進派の英国看護協会と反対派のナイチンゲールは激しく対立したが、結局女王の勅令によって1887年から3年間続いた闘いに終止符が打たれた。この論争はまさに看護教育の歴史的分岐点を象徴する出来事であった。ストロングの看護教育刷新は英国看護協会側の立場に立っていた。看護教育にとって最も優先されるものは国家資格認定試験合格なのか、あるいは高度な技術と測りがたい人格的資質の育成なのか。そこには今日の看護教育のあり方を再考させる問題が提起されている。Report About the middle of the 19th Century, Glasgow's hygiene was the worst condition in the UK. The Glasgow Royal Infirmary close to the burial places expanded the fever ward and the surgical department, and succeeded in preventing infective diseases by an antiseptic. Rebecca Strong who had become Matron of the Glasgow Royal Infirmary in 1885 established the preliminary training-school for nurses suitable for rapidly developing modern medical science in 1891 and proposed a recognized test of qualification conducted by a third person. On the other hand, the nursing world in London was divided into the two over the pros and cons of a recognized test and nurse registration. While the British Nurses Association promoted the test and registration, F. Nightingale opposed to them and harshly criticized the promoting movement. Their battle continued for 3 years from 1887. Finally Imperial ordinance gave the battle an end in 1891. R. Strong's renovation of nursing education was on the place where the British Nurses Association stood. Their battle was a symbolic event in a turning point of the history of nurse education. Which is more important as the objective for nurse education, "to pass qualifying examination" or "to develop the art and character suitable for nurses"? Today, this question must be also the primary problem which makes us reexamine what the nursing education at college should be.
著者
徳永 哲
出版者
日本赤十字九州国際看護大学
雑誌
日本赤十字九州国際看護大学紀要 = Bulletin of the Japanese Red Cross Kyushu International College of Nursing (ISSN:21868042)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.61-72, 2011-12-28

ナイチンゲールの思想は、1842 にプロシアの特使ブンゼン男爵と知り合いになった時点から急速に進歩、深化した。ブンゼン男爵の豊富な知識は、神学者でありながら異端者として火刑に処されたブルーノやエックハルト、さらにネオ・プラトニズムにまで及んでいた。また、ドイツのカイザースヴェルト学園の情報誌などを届けてくれたのはブンゼン夫妻であり、彼を通して知った宗教思想や哲学はナイチンゲールの看護への意志を支え、励まし続けた。1840 年代後半になると、ロンドンにはプロテスタントとカトリック双方の女子修道会が発足し、貧困者の救済に修道女が活躍するようになった。ナイチンゲールは特に看護修道女の活動を知るようになった。クリミア戦争ではナイチンゲールを支えて献身的に働いた看護修道女のフライやマザー・ムーアから、彼女等の看護への意識の高さを思い知らされた。その一方で、キングス・カレッジのボーマン医師の外科手術に立ち会ったことから医療技術の進歩に直面し、病院看護の新しい方向性を見出す切掛けとなった。また、彼女が自発的に習得した公衆衛生学や統計学の知識は近代看護の確立基盤となった。宗教と科学、この矛盾したものがナイチンゲールの思想の中には一体となって存在し、近代看護は生み出されたのである。