著者
小松 暁子
出版者
千葉大学文学部日本文化学会
雑誌
語文論叢 (ISSN:21878285)
巻号頁・発行日
no.30, pp.1-14, 2015-07

説教とは、中世末から近世にかけて隆盛した語り物である。その成立過程は不祥な部分も多いが、路上などでささらと呼ばれる道具を使いながら、聴衆へ語る形態がはじまりだと伝えられている。 説教作品の中でも代表的な作品は「五説教」として挙げられており、本稿で扱う「小栗判官」もその一つに数えられている。物語では、宿敵によって醜い姿にされた主人公・小栗が、本復のために熊野を目指し、一方、その妻・照手姫も人買いにその身を売られ、各地を漂浪していく。悲哀に満ちた二人の流離は聴衆の涙を誘い、物語が帯びる哀感も作品における趣向の一つと言えるだろう。照手姫が身を売られ、たどり着く先は青墓の遊女宿である。青墓は、漂浪の月日を送った小栗と照手姫が再会を果たし、物語が展開を遂げる場所である。では、なぜ青墓が物語の重要な土地として機能しているのだろうか。これまで「小栗判官」の先行研究では、青墓を拠点として活動していた傀儡子と呼ばれる漂泊民について論点が集中していた。先行研究では、彼らが物語の語り部として「小栗判官」の成立に関与したと論じられてきたが、傀儡子が活動したとされる時期と「小栗判官」の隆盛時期には年代的な隔たりがある。傀儡子がどこまで「小栗判官」の成立に関わっているのかは模糊としており、より多面的な検討が必要であるだろう。また、「小栗判官」には寛永後期から明暦頃の成立とされる絵巻『をくり』のほか、複数のテクストが残されており、その中でも絵巻『をくり』と奈良絵本『おくり』については、古い詞書の特徴(①浄瑠璃の様な六段の段別がされていないこと、②「てに」という特殊な用例が頻出すること、③冒頭に中世の宗教的色合いを残す「本地語り」を持つこと)が顕著に見られる。横山重氏は、絵巻『をくり』となら絵本『おくり』の両者以前に、「原・小栗判官」ともいえる最古の正本らしきものが存在し、両社はそれぞれの目的と用途に応じて内容を取捨選択して詞書を作成したのではないかと言及している。さらに横山氏は、絵巻『をくり』の方がより原初的な詞書を残しているかと推測した。横山氏の論をはじめ専攻研究では、絵巻『をくり』の詞書が、諸本の中でもより古態を有すると位置づけられている。そこで本稿では、詞書に古態性を残し、最も長大な内容を備えた絵巻『をくり』に注目し、青墓という舞台が「小栗判官」にとってどのような意味をもつのかという問題を柱として考察をすすめていく。第一章では、青墓の歴史的過程と文芸的な位置づけを時系列に整理する。それを踏まえ、第二章では絵巻『をくり』において青墓がどのように表象されているのかを検討し、作品読解における新たな視座の明示を目的としたい。
著者
岡部 嘉幸
出版者
千葉大学文学部日本文化学会
雑誌
語文論叢 (ISSN:21878285)
巻号頁・発行日
no.28, pp.96-75, 2013-07
著者
鈴木 奈生 スズキ ナオ SUZUKI Nao
出版者
千葉大学文学部日本文化学会
雑誌
語文論叢 (ISSN:21878285)
巻号頁・発行日
no.29, pp.17-36, 2014-07

寛政六年(一七九四)に出版された山東京伝作『絵兄弟』に、次のような挿絵がある(図一)。見開きの右半丁には、『桂川連理柵』などで著名な〈お半〉を背負い桂川に向かう〈長右衛門〉の図が、左半丁には、池から〈阿弥陀如来〉に呼び掛けられた〈本田善光〉が如来像を背負って信濃路を行ったという『善光寺縁起』の一場面が描かれている。この二つの図を対として並べているのだが、仏縁に牽かれていく本田善光と、心中に向かう穢濁の男女という全く異なるものを、背負うという形の酷似で結び付けた点に妙がある。『絵兄弟』は、宝井其角が編んだ『句兄弟』の趣向を戯画に転じ、一見した形は似ているが内実に落差のある事物を兄弟の対として配置し、そこに戯文を寄せた見立絵本で、この一対の見立絵という形式は、絵師北尾政演でもあり、多くの見立絵本においてその才を発揮した京伝ならではの新機軸であった。中野三敏氏が、宝暦年間に出された漕川小舟作『見立百化鳥』に始まる見立絵本作品を整理し記された見立絵本目録においては、『絵兄弟』は二十八番目に挙げられている。そして、この目録の最後にあたる三十六番目の作品として挙げられているのが、柳下亭種員作・歌川国芳画『滑稽絵姿合』(中野氏の目録では、『絵姿合』として載る。以下『絵姿合』と略す)であり、本稿ではこの『絵姿合』を考察対象とする。種員自序に、「故人京傳翁の画兄弟ハ、寛政六年の新版にて、耕書堂の大當りも、五十余年のいにしへながら、世の人今にもてはやす、他の作意も羨ましく」とあるように、『絵姿合』が『絵兄弟』に連なる意識で以て作られたことは明らかで、形式的・内容的にも原書を忠実に踏襲した「『絵兄弟』の続編」とも言える作品となっている(図二、図三)。しかしながら、続編と言っても、『絵姿合』が出されたのは天保十五年(一八四四。この年の十二月二日に弘化に改暦)であって、『絵兄弟』が出版された寛政六年からは五十年もの時を隔てている。さらに、『絵姿合』以前に、『絵兄弟』に倣った絵本作品が見られないという点からしても、『絵兄弟』のリバイバル作品である『絵姿合』の刊行は、いささか唐突な出来事であるように思われる。本稿では、この『絵兄弟』のリバイバル、換言すれば「絵兄弟」(二重括弧は書名を、一重括弧は趣向を示す)という趣向への注目という現象が、何故天保末期という時期に見られるのか、という疑問を出発点としたい。そして、『絵姿合』刊行の背景を探りその契機を明らかにすることで、『絵姿合』の文学史上での位置付けを試みたいと考える。