著者
吉岡 一男 Kazuo Yoshioka
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of the University of the Air (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.107-120, 2000-03-31

夜空が何故暗いか? という疑問が17世紀に指摘されて以来,一部の天文学者を悩ましていた.それは,恒星が宇宙空間に無限に広がって輝いているならば夜空が昼間よりもはるかに明るいことになる,という現実とは異なる結論が導かれるからである.これをオルバースのパラドックスという.それを回避するために,宇宙有限説,孤立宇宙説,無限階前説,吸収説など様々な説が唱えられた.しかし,いずれの説も成り立たないことがわかった. 現在,ハッブルの法則に従う宇宙の膨張によりこのパラドックスが回避されると考えられている.すなわち,宇宙の膨張から帰結される宇宙年齢の有限性と宇宙の膨張に伴う膨張効果(ドップラー効果と希釈効果)によりパラドックスは回避される. しかし,通俗書に書かれているパラドックスの記述には,歴史の記述が不正確であったり,パラドックスの回避の説の記述が誤解を招いたり誤っている本が見られる.また,宇宙年齢の有限性の効果の方が膨張効果よりも圧倒的に効くのにその記述も見られない. 一方,宇宙の膨張を持ち出さなくても恒星の寿命が有限で空間密度が低いことでパラドックスを回避できる,と考えることもできるが,その場合も現在恒星が輝いていることの自然な説明を宇宙の膨張が与えることを指摘した.また,パラドックスが認識されるためには,背景となる理論が確立されている必要のあることも指摘した.
著者
島内 裕子 Yuko Shimauchi
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of the University of the Air (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.210(29)-188(51), 2000-03-31

本稿は、紀行文学における事実と真実を考察するにあたって、具体例として吉田健一の「或る田舎町の魅力」を取り上げるものである。「或る田舎町の魅力」は、昭和二十九年八月号の雑誌『旅』に掲載された短い作品で、埼玉県児玉町の訪問記である。その後、『随筆 酒に呑まれた頭』(昭和三十年刊)や『日本に就いて』(昭和三十二年刊)などの吉田健一の単行本に所収されただけでなく、昭和三十年代から四十年代に刊行された各種の文学全集にも、吉田健一の収録作品として繰り返し再録された。昭和五十年代以後に編まれた各種のアンソロジーにも、この作品が選ばれている。また、文学者たちのエッセイなどでも言及されたり、かなり詳しく論じられている。このように、「或る田舎町の魅力」は短編ではあるが、吉田健一の代表作の一つと言えよう。 本稿では考察の順序として、「或る田舎町の魅力」の文学史的な定位を図るために、まずこの作品の再録状況を概観し、次に他の文学者たちの論評を検討する。それらの作業を踏まえた上で、「或る田舎町の魅力」の内容を再確認する。吉田健一の児玉訪問から現在まで、すでに五十年近い歳月が経過しているので、現地調査にはかなりの困難を伴ったが、幸い当時のことを記憶している人々から貴重な回想談を聞くことが出来た。そればかりか、児玉ゆかりの人々の尽力によって、作品を読んだだけでは思いもよらぬ、さまざまな新事実を発掘することもできた。 この作品には、吉田健一が児玉町を再訪した時のことが主として書かれているが、最初の児玉訪問がいつであったのか、その年月日を特定できた。当時の児玉の文学環境も浮かび上がり、「或る田舎町の魅力」誕生の直接の契機と、その背景が明らかになった。さらに、吉田健一の児玉再訪が、彼単独のものではなかったことも判明した。そのことは、吉田健一の文学的交友を考える上でも重要であるし、そのような緊密な交友がやがては同人雑誌『聲』発刊へと繋がっていったのである。「或る田舎町の魅力」を文学史の流れの中で位置付けるとともに、事実と真実がどのように織り込まれてすぐれた紀行文学となりうるのかを解明し、この作晶の文学的な達成を考察したい。
著者
平沢 弥一郎 臼井 永男 Yaichiro Hirasawa Nagao Usui
雑誌
放送大学研究年報 = Journal of the University of the Air (ISSN:09114505)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.91-113, 1988-03-30

詩篇は王冠をちりばめた宝石のように,その一つ一つが小さくて純,そして自由な光を放っている.旧約中最も愛読される.これは旧約と新約との橋渡しをし,ルーテルはこれを抱いて逃げさり,カルビンはその死床において第6篇を口ずさんだという. 詩篇が多くの入に親しまれるのは,詩であるがためである.理屈でなく,心の底から感じたまま流れ出たものである.だからまた人の心の奥深いところに入り込んでくる.詩経,古今集にもその例を見る.詩はまた飛躍する.たとえば旧約時代に人は復活を信じていなかったと言われるが,16:1Oには確かに復活を思わせる表現がなされている.また73:25,26は,自分の地上生活はだんだんみじめになるばかりで,神を信じた功徳はないが,それでも「神はわが厳なり!」と歌っている. 詩篇には,〓〓〓〓(tehillim)という表題がついている.この語は「ハッレルー・ヤーハ」(ヤハをほめたたえよ)では動詞の形で出てくる〓〓〓という語源から作られた名詞で,「讃美の歌」を意味する.詩篇全体にこの名称がつけられたのは,詩篇150篇がユダヤ教団の讃美歌集として認められた頃であっただろう.より古い時代には「祈り」〓〓〓〓(tephillah)という名称がよく見られるが,この名称はことに詩篇の中に多い歎きを訴える歌を指す場合に用いられる. 「讃美の歌」と「歎きの歌」,この二つが詩篇の中心であると言えよう. 著者らは,この二つの歌の中に「人の体」に関する用語がどのように歌われているかに着目し,その用語を日本聖書協会訳から全部拾い上げ,それらが旧約聖書の中で,どのような箇所で,またどのような意味で用いられているかを調べ,かつその一つ一つのヘブライ原語,New English Bible, Luther それに関根正雄訳に当たって比較することを試みた. さて拾い上げた用語は40種類におよび,その延べ回数は650回という膨大な数に上ることがわかった.次に示す用語は回数の多い順で( )内はその使用回数である. 手(131),目(77),口(71),足(48),顔(42),耳(37),舌(34),頭(27),唇(26),血(19),身(16),骨(16),肉(15),角(13),腕(12),歯(7),胸(6),ふところ(6),胎(6),のど(4),腰(4),毛(3),まぶた(3),鼻(3),あご(3),ひざ(3),からだ(3),首(2),指(2),ほお,ひとみ,ひげ,肩,腹,内臓,背,くびす,脂肪,髄,きば(夫々1回). 聖書は「手」の動作をもって種々の表象としている.手を上げることは神に対する祈り,また民への祝福であった.また「目」については,ヘブライ原語〓〓〓(eēnayim)は854回も使われており,この語の頻出度が高いことは人間生活において目がいかに重要な役割をもっていたかを示す.人類の堕落が「目」をとおしてはじまったものであり,そしてその目を神にむけなければならないという聖詩人の叫びは,詩篇において絶頂に達している. また,聖書が言語の器官である「口」を,「言語」の意味において用いていることは,抽象概念を具体的なものを用いて表現するヘブル人の特徴を示す好例として興味がある.沈黙は口に手を当てること(ヨブ40:4),大胆に語る自由は「口を開く」(エペ6:19)と表現された. 詩篇の中に「手」「目」「口」の頻度が高いのは,聖詩人たちは,両手を高くさしのべ,目を上に見はり,そしでのどが張り裂けんばかりに,神を讃美し,また歎きを赤裸々に訴えたのであろう.そしてその生き生きとしたかれらの祈る姿がありありと浮かんで来るようである.