著者
大塚 秀高
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.81-94, 2011

西王母は古く『山海経』に異形の姿を現すが、のちには不老不死の仙薬や蟠桃の管理者として、人間界の帝王などと交会するようになる。当初の両性具有の存在から女性原理の体現者に変化したため、男女の交会により自らの不老不死の能力を更新する必要が生じたためであろう。しかし人間界に交会の相手を求めるのは困難であり差しさわりもあると意識されたのであろう、西王母の対偶神としての東王公が創出され、これと歳に一度の交会を果たすようになった。ところが道教のパンテオンのなかで、東王公が天帝、西王母が女神の最高神となるや、両者の交会は不適切と感ぜられるようになってしまった。かくてその役割は織女と牽牛という第二世代にバトンタッチされた。原西王母の継承者である織女は、道教パンテオンにおいて間もなく西王母の娘に相応しい「夫人」の地位を得たが、男性原理の体現者を人間界に求める必要がある点ではそれまでと変わらなかった。これが『新話摭粋』(や『緑窗新話』)の遇仙類に見える、「遇」や「歓」を求める仙女の正体であり、「楊家将」に代表される、数世代に亙る武将一族の物語において、戦場で男将と闘い、これを実力で負かして捕虜にしたうえ強引に夫とする(陣前比武招親)、女仙に師事する女将の正体であった。いいかえれば、「陣前比武招親」する女将は西王母の第二世代であり、その師事する女仙は西王母だったのである。このモチーフを「西王母交会モチーフ」というとき、「西王母交会モチーフ」は後の才子佳人小説の中にも形を変えて使われていた。「西王母交会モチーフ」は中国の小説史において極めて重要なモチーフといえよう。
著者
TM 福岡 安則 黒坂 愛衣
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.31-63[含 英語文要旨], 2009

この調査ノートは,「らい予防法」による「隔離政策」が貫徹していた時代に,ハンセン病を発症しながら,「ハンセン病療養所」に入所することなく生涯を終えた女性を母親にもつある男性のライフストーリーである。TM さんは1945 年生まれ。1956 年ごろ,母親がハンセン病だとの噂が地域社会に広がり始める。1959 年4 月,TM が中学2 年のはじめ,母親は「親戚会議」の決定に従って,「ハンセン病療養所」への入所を回避して,鳥取県から大阪に移住。阪大病院の「らい部門」での外来診療に通院することとなる。4 人の兄と1 人の姉が「逃げて」しまったあと,TM はひとりで母親の面倒をみる。9 年間の大阪暮らしのあと,阪大病院の外来治療に見切りをつけて,母とTM は鳥取県に戻る。TM は出稼ぎをしながら母親の生活を支える。1985年,母親が脳梗塞で倒れ,老人ホームに入所。ここで露骨な差別的扱いを受ける。この時点で,TM は,母親に「よかれ」と思って,「非入所」の生活を支えつづけてきたが,むしろ,ハンセン病療養所に入所させていたほうが母親の老後は幸せだったのではないかと,価値判断の大転換を体験する。このときから,そして,母親が1994 年に亡くなった後も,保健所や県庁を相手に,「らい予防法」に従った適切な対応を怠ってきた責任を執拗に問いつづける。まともに相手にされず,けっきょくは,2003 年,「こまい鉈」で県職員を殴打し,「殺人未遂事件」として刑事事件の被告とされ,「懲役3 年の実刑判決」に服した。TM の"非入所よりはハンセン病療養所に入所していたほうが,母は幸せだったにちがいない"という言説,"行政職員が「らい予防法」に従って適切な対応をしなかったのは問題だ"という言説,そして,"阪大病院のハンセン病治療は,患者家族の経済的立場を十分に考えておらず,治療内容も患者とその家族に十分な説明のないままの診療実験にすぎなかったのではないか"という言説は,2001 年の熊本地裁判決,その後の「ハンセン病問題に関する検証会議」の『最終報告書』(2005年)などによって積み上げられてきたハンセン病問題をめぐる現在の共通理解とは,一見対立するかのようである。しかし,わたしたちの理解によれば,TM の語りは,「らい予防法」体制下の「強制隔離政策」というものは,たんに,当事者の意思にかまわず強制的にハンセン病療養所へと患者を引っ張ってきて閉じ込める《収容・隔離の力》だけでなく,社会のなかに患者とその家族の居場所を徹底的になくして,ときに,患者みずからに,あるいは,患者の家族に,療養所への入所を望ませさえする《抑圧・排除の力》をもつくりだすことによって,はじめて機能していたということ。非入所を貫いたということは,この後者の《抑圧・排除の力》を長年にわたって浴びつづけたことにほかならないこと。それへの憤りが,母親の老人ホームでの差別的扱いで一挙に噴出したことをこそ,雄弁に物語っていると読み取れる。TM の語りは,ハンセン病療養所に「強制隔離された生活」が人権を根こそぎ剥奪された生活だったとすれば,「非入所者」としてハンセン病療養所に入所せずに社会のなかで暮らしつづけることも徹頭徹尾心のやすらぎを奪われた生活であったことを,鮮明に物語っているのだ。
著者
李 順徳 崔 明淑 三井 沙織
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.65-86, 2009

1928 年生まれ,「在日2 世」の李順徳(イ・スンドク)さんは,17 歳のとき,広島で被爆している。1987 年に,アメリカでの平和行動に参加したことをきっかけに,学校の生徒たちを相手に「被爆体験」を語る語り部として活動するようになった。「音もない,光もない。ほんとに衝撃も受けてない。ただ〔壊れた〕家の下敷きになった,あらあら,なんじゃろうという感じ」と語る李順徳さんは,爆心地からわずか900 メートルのところで被爆したのだ。彼女が記憶のままに語る原爆投下直後の広島は,まさに「地獄絵」そのものだが,そこに登場する人びとは,文字どおり「素っ裸のひとたち」であり,日本人も朝鮮人もない世界として語られている。李順徳さんの語りが在日韓国人女性のライフストーリーにほかならないことは,彼女が広島で被爆するに至るまでの物語,つまりは植民地支配下に仕事を求めて両親が渡日してきたがゆえに,彼女が〈そのとき,そこに〉存在したのだということと,戦後復興後かなりの日にちが経ってから,やっと,彼女たち在日韓国・朝鮮人被爆者には「被爆者手帳」の取得が可能になったという,日本人被爆者と在日被爆者とのあいだの行政的差別の存在が語られることで,明らかになる。――それだけに,被爆体験自体は,民族を超えたところで記憶され,物語られていることが,いっそう象徴的に際立つ。わたしたちは,李順徳さんのかけがえのない《記憶》が,語りをとおしてひとつの《記録》に転化する場面にたちあえたことをうれしく思う。
著者
李 順徳 崔 明淑 三井 沙織
出版者
埼玉大学大学院文化科学研究科
雑誌
日本アジア研究 (ISSN:13490028)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.65-86, 2009

1928 年生まれ,「在日2 世」の李順徳(イ・スンドク)さんは,17 歳のとき,広島で被爆している。1987 年に,アメリカでの平和行動に参加したことをきっかけに,学校の生徒たちを相手に「被爆体験」を語る語り部として活動するようになった。「音もない,光もない。ほんとに衝撃も受けてない。ただ〔壊れた〕家の下敷きになった,あらあら,なんじゃろうという感じ」と語る李順徳さんは,爆心地からわずか900 メートルのところで被爆したのだ。彼女が記憶のままに語る原爆投下直後の広島は,まさに「地獄絵」そのものだが,そこに登場する人びとは,文字どおり「素っ裸のひとたち」であり,日本人も朝鮮人もない世界として語られている。李順徳さんの語りが在日韓国人女性のライフストーリーにほかならないことは,彼女が広島で被爆するに至るまでの物語,つまりは植民地支配下に仕事を求めて両親が渡日してきたがゆえに,彼女が〈そのとき,そこに〉存在したのだということと,戦後復興後かなりの日にちが経ってから,やっと,彼女たち在日韓国・朝鮮人被爆者には「被爆者手帳」の取得が可能になったという,日本人被爆者と在日被爆者とのあいだの行政的差別の存在が語られることで,明らかになる。――それだけに,被爆体験自体は,民族を超えたところで記憶され,物語られていることが,いっそう象徴的に際立つ。わたしたちは,李順徳さんのかけがえのない《記憶》が,語りをとおしてひとつの《記録》に転化する場面にたちあえたことをうれしく思う。