著者
工藤 喜作
雑誌
目白大学人文学研究 = Mejiro journal of humanities (ISSN:13495186)
巻号頁・発行日
no.3, pp.1-13, 2006

ホッブズの『市民論』第15章、「自然による神の国について」(De Regno Dei per naturam)は、第3部「宗教」の最初の章であり、ここで彼は自然宗教について論じている。彼によれば、神の掟は二つのことば、一つは理性のことば、他は預言的なことばによって伝えられる。この二つのことばの相違によって、神の掟を通じて神の支配する国が、二つの国、自然的な国と預言的な国の二つに分かれる。このホッブズの二つの神の国に相当するものがスピノザにもある。つまり、神の掟が自然的光明によって啓示される国と預言的光明によって啓示される国であり、前者は自然的な神の法によって、また後者は預言的な神の法によって支配される国である。このかぎり理性や自然的光明によって神の掟が啓示される国は、外面的に見れば、ホッブズとスピノザにおいて全く同じであったといえる。しかしその内実に立ち入って、両者の二つの国を詳細に検討するならば、ホッブズとスピノザの自然的な神の国はまったく異なった性格をもつ国であることが判明する。以下この点について述べていこうと思う。先ずホッブズから始めよう。

2 0 0 0 OA 「あたし」考

著者
山西 正子 山田 繭子 Masako YAMANISHI Mayuko YAMADA 目白大学外国語学部アジア語学科 西東京市図書館
雑誌
目白大学人文学研究 = Mejiro journal of humanities (ISSN:13495186)
巻号頁・発行日
vol.(4), pp.183-200, 2008

本稿では、自称詞「あたし」について、史的変遷を概観し、現代のいわゆるJ-POPの世界での「あたし」の位置づけを考察する。そして、しばしば「ややくだけた語感」とされる「あたし」が、J-POPの歌詞としては、「かわいらしさや女性のオーラを伝える」ためのアイデンティティ管理の表現として意図的に選択されることを確認する。その背景に、現代における、終助詞を含む文末表現に殊に顕著な、言語上の性差の縮小を想定する。アーティストが、自分のアイデンティティ表明の場である歌詞の中で、大きく女性に傾いた、いわば「有標の自称詞」である「あたし」を多用するのは、終助詞の使用など、それ以外の言語上のアイデンティティ表明手段が弱体化しているからではないか。「あたし」は一般的に「「わたし」の変化したかたち」と説明される。しかし、さらに変化して特化されている「わっち」や「あたい」に比して、いわば「変化の度合いが小さい/「わたし」との乖離が少ない」ために、様々な表情をもち得る。男性には「おれ」や「僕」などの「わたくし」系に属さない自称詞があるが、一般的にはそれを使用しない女性にとって、「わたくし」「わたし」「あたし」の選択は、時に大きな意味をもつ。しかるに、現代語では、「わたくし」系の自称詞は漢字「私」で表記されることが多い。日常語の実際の発音習慣が「わたくし」か「わたし」か、さらには「あたし」かを問わず、文字化するときには漢字表記「私」ですませてしまうことが多い。その中であえて「あたし」と表記するときの表現者の意図に迫り、アイデンティティ管理の手段として「あたし」が積極的に選択されることもある点を指摘したい。