著者
村山 瑞穂
出版者
愛知県立大学
雑誌
紀要. 言語・文学編 (ISSN:02868083)
巻号頁・発行日
vol.39, pp.97-114, 2007

『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany's)と聞いてまず思い浮かべるのは、オードリー・ベップバーン(Audrey Hepburn)主演、ブレイク・エドワーズ(Blake Edwards)監督め1961年公開のハリウッド映画だろう。しかし、これがアメリカ文学史でも特異な位置を占めるトルーマン・カポーティ(Truman Capote)の同タイトルの小説に基づくことを知る人はそれほど多くはなく、しかも、原作を読んだ誰もが、小説と映画との違いに少なからぬ当惑を感じるに違いない。例えば映画のオープニング・シーン。ヘンリー・マンシーニーの名曲「ムーン・リバー」のメロディーに乗せて、人気のない早朝のニューヨーク五番街が映し出されると、そこに一台のイエロー・キャブが走り来て、ティファニー宝石店の前に止まる。降り立った女性は、髪を高く結い上げ、黒のロングドレスに身を固めたヘップバーン演じるヒロインのホリー。彼女は、ティファニーのショー・ウインドウを覗き込みながら、おもむろに紙袋から取り出したデーニッシュをかじり、テイクアウトの紙コップ入りコーヒーをすする。タイトルを文字通り映像化してみた印象的なこのシーンは、実は原作には全く描かれていない。文学作品の忠実な映画化など期待すべきものではなく、映画は原作の一解釈であり、独立した作品として扱うべきだが、両者の違いに何らかの意味づけをしてみたくなるのもごく自然な衝動だろう。カポーティは、第二次世界大戦後、早熟な天才作家として彗星のごとく登場し、アメリカ南部を舞台に孤独な少年の自己探求の葛藤を幻想的に描く『遠い声、遠い部屋』(Other Voices,Other Rooms,1948)をはじめとする小説や短篇によって、キャサリン・アン・ポーター(Katherine Anne Porter)やカーソン・マッカラーズ(Carson McCullers)に並ぶ南部ゴシック作家の一人に数えられる。しかし後年は、夢想的な作風をがらりと変え、カンザスの片田舎で起きた一家惨殺事件を綿密に取材したルポタージュ風のノンフィクション・ノヴェル、『冷血』(In Cold Blood,1965)によってセンセーションを巻き起こした。ニューヨークの風俗をリアルに描きつつ、そこにファンタジーの要素を織り交ぜた『ティファニーで朝食を』(1958)は、カポーティ文学の二つの異なる作風の中間に位置するともいえる。終戦後、自らの体験に基づく戦争小説によって戦争の不条理や軍隊機構の抑圧性を告発して脚光を浴びたノーマン・メイラー(Norman Mailer)ら社会派作家とは対照的に、カポーティは一貫して社会性より芸術性を重視する審美主義作家と自らを定義してきた。しかし、時間が停止したような退廃的な南部の暗闇の世界からニューヨークの明るい昼の世界へと舞台を移した軽快なコメディ、『ティファニーで朝食を』は、実社会の断面を描き、思いのほか政治的な作品になっていると指摘される。なかでも、出版当時、賛否両論だった作品の政治性をいち早く見抜き、評価したのはイーハブ・H・ハッサン(Ihab H. Hassan)である。ハッサンは、冷戦下の体制順応の時代にあって、「飼いならされることがないゆえに安住の地を見出せない自由への愛("wild and homeless love of freedom")」を具現する新しいヒロインとして小説の主人公ホリー・ゴーライトリーの登場を歓迎している。小説『ティファニーで朝食を』についてハッサンが評価するカポーティの冷戦期アメリカへの批評は、しかしながらその映画化においては全くといっていいほど切れ味が削がれてしまっている。「ハリウッドは戦後期の政治と国民的アイデンティティの将来を決定づける決戦場であった」(May,358)といわれるように、当時のハリウッドを発信地とする大衆映画はアメリカの文化的価値を全世界へと送り出したが、それらが発するメッセージは当然のことながらきわめて体制擁護的なものであった。本論では、『ティファニーで朝食を』の映画化において原作がいかに改変されたかを、ジェンダー、階級、民族、セクシュアリティを切り口に分析することにより、当時の冷戦期アメリカを支配していた文化イデオロギーを浮き上がらせると同時に、それに対抗するカポーティの批評精神を明らかにする。また、きわめて巧妙に仕上げられた原作改変の隙間に走る亀裂を指摘することで、最終的にはその改変を支えるアメリカの文化イデオロギーが映画を完壁には支配しきれていないことを示唆したい。
著者
川端 有子
出版者
愛知県立大学
雑誌
紀要. 言語・文学編 (ISSN:02868083)
巻号頁・発行日
vol.36, pp.1-15, 2004-03-30

A Lady of Quality is said to be a sensation novel unique amongst Burnett's work, though written in 1896 when the boom for the genre was almost over. Moreover, unlike typical sensation fiction, the story is set against a 17th century background, and appears as a pseudo historical romance. But the central motif and theme of the novel, a protest against patriarchal oppression fuelled by the power of the unconventional heroine Clorinda, share the same concern as those novels by Mary Braddon and Mrs Henry Wood. However it is not enough to read this novel as focusing only on the beautiful crossdressing wild heroine. She has a shadowy double, her sister Anne, who represents the weak, feminine, submissive angel. Repressed and subjugated, Anne always looks at her strong willful sister, admiring her power and observing her love affair from afar. On the surface of the story, she looks like a saintly innocent, but a close reading reveals that she is not at all "the proper feminine" as Lyn Pyckett calls it, for she is carefully constructed as a bookworm, or a romance reader, and therefore knows "strange things", which makes her transgress the sphere of angelic existence. In this paper I will examine how the proper versus improper spheres of femininity are deconstructed, by focusing on Anne as a romance reader. It will be clear that the true sensationalism of the story exists not in the secret murder by Clorinda, but in the imperative of the dying Anne to keep the crime secret. Reading the subtext centering Anne will exemplify how she has developed as a subjective reader, and achieved her heart's desire in her own way. Sister Anne's reading is then interpreted as a strategy to make this story a meta-romance: a romance about the meaning of reading romance.
著者
村山 瑞穂 ムラヤマ M. MURAYAMA
雑誌
紀要. 言語・文学編
巻号頁・発行日
vol.39, pp.97-114, 2007

『ティファニーで朝食を』(Breakfast at Tiffany's)と聞いてまず思い浮かべるのは、オードリー・ベップバーン(Audrey Hepburn)主演、ブレイク・エドワーズ(Blake Edwards)監督め1961年公開のハリウッド映画だろう。しかし、これがアメリカ文学史でも特異な位置を占めるトルーマン・カポーティ(Truman Capote)の同タイトルの小説に基づくことを知る人はそれほど多くはなく、しかも、原作を読んだ誰もが、小説と映画との違いに少なからぬ当惑を感じるに違いない。例えば映画のオープニング・シーン。ヘンリー・マンシーニーの名曲「ムーン・リバー」のメロディーに乗せて、人気のない早朝のニューヨーク五番街が映し出されると、そこに一台のイエロー・キャブが走り来て、ティファニー宝石店の前に止まる。降り立った女性は、髪を高く結い上げ、黒のロングドレスに身を固めたヘップバーン演じるヒロインのホリー。彼女は、ティファニーのショー・ウインドウを覗き込みながら、おもむろに紙袋から取り出したデーニッシュをかじり、テイクアウトの紙コップ入りコーヒーをすする。タイトルを文字通り映像化してみた印象的なこのシーンは、実は原作には全く描かれていない。文学作品の忠実な映画化など期待すべきものではなく、映画は原作の一解釈であり、独立した作品として扱うべきだが、両者の違いに何らかの意味づけをしてみたくなるのもごく自然な衝動だろう。カポーティは、第二次世界大戦後、早熟な天才作家として彗星のごとく登場し、アメリカ南部を舞台に孤独な少年の自己探求の葛藤を幻想的に描く『遠い声、遠い部屋』(Other Voices,Other Rooms,1948)をはじめとする小説や短篇によって、キャサリン・アン・ポーター(Katherine Anne Porter)やカーソン・マッカラーズ(Carson McCullers)に並ぶ南部ゴシック作家の一人に数えられる。しかし後年は、夢想的な作風をがらりと変え、カンザスの片田舎で起きた一家惨殺事件を綿密に取材したルポタージュ風のノンフィクション・ノヴェル、『冷血』(In Cold Blood,1965)によってセンセーションを巻き起こした。ニューヨークの風俗をリアルに描きつつ、そこにファンタジーの要素を織り交ぜた『ティファニーで朝食を』(1958)は、カポーティ文学の二つの異なる作風の中間に位置するともいえる。終戦後、自らの体験に基づく戦争小説によって戦争の不条理や軍隊機構の抑圧性を告発して脚光を浴びたノーマン・メイラー(Norman Mailer)ら社会派作家とは対照的に、カポーティは一貫して社会性より芸術性を重視する審美主義作家と自らを定義してきた。しかし、時間が停止したような退廃的な南部の暗闇の世界からニューヨークの明るい昼の世界へと舞台を移した軽快なコメディ、『ティファニーで朝食を』は、実社会の断面を描き、思いのほか政治的な作品になっていると指摘される。なかでも、出版当時、賛否両論だった作品の政治性をいち早く見抜き、評価したのはイーハブ・H・ハッサン(Ihab H. Hassan)である。ハッサンは、冷戦下の体制順応の時代にあって、「飼いならされることがないゆえに安住の地を見出せない自由への愛("wild and homeless love of freedom")」を具現する新しいヒロインとして小説の主人公ホリー・ゴーライトリーの登場を歓迎している。小説『ティファニーで朝食を』についてハッサンが評価するカポーティの冷戦期アメリカへの批評は、しかしながらその映画化においては全くといっていいほど切れ味が削がれてしまっている。「ハリウッドは戦後期の政治と国民的アイデンティティの将来を決定づける決戦場であった」(May,358)といわれるように、当時のハリウッドを発信地とする大衆映画はアメリカの文化的価値を全世界へと送り出したが、それらが発するメッセージは当然のことながらきわめて体制擁護的なものであった。本論では、『ティファニーで朝食を』の映画化において原作がいかに改変されたかを、ジェンダー、階級、民族、セクシュアリティを切り口に分析することにより、当時の冷戦期アメリカを支配していた文化イデオロギーを浮き上がらせると同時に、それに対抗するカポーティの批評精神を明らかにする。また、きわめて巧妙に仕上げられた原作改変の隙間に走る亀裂を指摘することで、最終的にはその改変を支えるアメリカの文化イデオロギーが映画を完壁には支配しきれていないことを示唆したい。
雑誌
紀要. 言語・文学編
巻号頁・発行日
vol.41, pp.i-vi, 2009
著者
森田 久司 モリタ ヒサシ Hisashi Morita
雑誌
紀要. 言語・文学編
巻号頁・発行日
vol.37, pp.41-67, 2005-03-30 (Released:2013-10-09)

この論文では、実際に音韻的に強調された語が、意味的にどのような影響をあらわし、その影響が統語的にどのように派生されるか、すなわち、日本語と英語、特に日本語のフォーカス現象を考察する。日本語のデータは主に、強調される旬に結びつく、係助詞の「も」について取り扱う。日本語のフォーカスにおいて三つの現象が見られる。一つ目は、音韻的に強調された語よりも広範囲の強調の意味を取ることができる。二つ目は、強調を促す、「も」や「さえ」といった係助詞自体が強く発音されると、音韻的に強調された語よりも広範囲の強調の意味を取ることができなくなる。三つ目は、強調の意味が広がることはあっても、となりの語句にずれることはない。英語に関しても、一つ目と三つ目の現象に関して、同様なことが観察されている。これらの現象を説明するために、DIと呼ばれる目に見えない範疇が、意味の強調範囲をマークする場所に基底派生され、音韻的に強調された語と組成チェックを行うと主張する。したがって、音韻的に強調された語よりも広範囲の強調の意味を取れるといった現象は、フォーカス素性が素性浸透といった、実際に存在するのかどうか疑わしいメカニズムを経て、強調の範囲を拡大したためではなく、最初から、その範囲がDIにより決定されていることがわかる。さらには、強調の意味が隣の語句にずれない現象も、DIが音韻的に強調された語と組成チェックにできる位置に基底派生されなければいけないことから説明できる。以上のように、DIの存在を仮定することにより、日本語と英語のフォーカスの現象をシンプルに説明できる。 In this paper I would like to offer a simple account of focus phenomena in Japanese and English. There are a few interesting features with regard to focus. First, the domain of focus may be wider than a phonologically stressed portion. Secondly, the positions of certain scope markers, which seem to induce focusing, are important when deciding the domain of focus. Thirdly, the domain of focus seems to expand, but does not shift. This paper will discuss these features and offer an account from which the features automatically follow. This paper is organised in the following order. I will introduce a few important facts about the focus phenomena in Japanese and English. Then I will review Aoyagi (1998), who attempts to account for the focus phenomena in Japanese. After mentioning a few problems with his approach, I will present an alternative account.