著者
平高 典子
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.9, pp.1-14, 2018-03-31

幸田延(1870明治3―1946昭和21)は音楽教育家として知られているが、ウィーン留学時以来、作曲活動も鋭意行っていた。本稿では、演奏や印刷されていないと考えられるものも含め、残された作品を紹介・解説したうえで、幸田の作風や作曲活動の意義と限界について考察する。
著者
小佐野 圭
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
vol.2013, no.5, pp.29-38, 2014-03-31

本稿は2013年10月22日に開催された釜山における「日韓親善交流のための演奏会研究報告」である。日本におけるピアノデュオ協会と韓国・釜山のピアノデュオ協会は、20年前から親密な関係を維持しており、私たちはピアノデュオの日本代表として招聘を受けた。演奏会においてはプーランク、ブラームス、ベネット、そしてガーシュウィンの作品を演奏した。本文は主にブラームスのピアノ五重奏曲と二台ピアノのためのソナタを比較研究し、2つの作品の共通性と相違性を考察した。ブラームスがどのようにピアノの譜面を弦楽器に書き直したかに焦点をあて、二台ピアノによる演奏法を探った。ピアニストとしての視点から、実際にこの2つの作品を演奏する上でどのようなテクニック(演奏法)が求められるのかを探求した。具体的にはアンサンブルとしての技術的な奏法と二台ピアノならではの演奏効果を表現する奏法が必要となる。それらを克服するためにはピアノの減衰楽器である特性と弦楽器のボウイングを認識することが重要であることを明らかにした。いかに弦楽器的効果を取り入れながらピアノ表現を求めるかが鍵となる。二台ピアノ作品を演奏するピアニスト、あるいは学生達の指針となれば幸いである。
著者
佐藤 由紀
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
vol.2012, no.4, pp.1-12, 2013-03-31

本稿では、一人芝居における舞台俳優と課題説明場面における成人男性の、ジェスチャーを中心とした発話構造を比較し、その共通性と相違性を探索した。俳優のジェスチャーは、平均持続時間、出現位置や方向、ビートのリズム性、空間構造、発話との時系列関係などでは成人男性と共通性を示した。ただし、一つのジェスチャーに含まれるジェスチャー句数が少ないなど、相違性もみられた。とくに俳優の特徴として、指さしを多用することに注目し、架空の対話相手と、状況に向けられた意図の複合した表現が、ここにみられた指示であった可能性が主張され、指示の複雑性がこの俳優の演技の熟達の特徴である可能性を示した。
著者
今野 哲也
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.9, pp.41-53, 2018-03-31

本研究の目的は、F. シューベルトの歌曲《ドッペルゲンガー》D957―13を対象に、どのような和声技法に基づき、H. ハイネの詩の世界が表現されているのかを検証することにある。この歌曲で展開される和声上の特徴は、①パッサカリアの手法、②「属7の和音」とその変容体としての「増6の和音」、③「属7の和音」と「ドイツの6」を媒体とする異名同音的転義に集約されよう。合計4回現れるパッサカリア主題内部のドミナントは、「属7の和音」から「ドイツの6」へと順次変容してゆくが、その実それは、この歌曲の唯一の転調部分からの離脱和音であることの布石にもなっている。その転調部分は、この歌曲の主人公とも言える「ある男」惑乱が最高潮に達する場面でもある。これらの和声的特徴は、歌詞と密接に連関しており、「ある男」がゆっくりと、確実に狂気へと突き進んでゆく様を表現する上でも、必要不可欠なものであったと、本研究は結論付けるものである。
著者
多和田 真太良
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.8, pp.29-43, 2017-03-31

「ハラキリ」という単語はどこでどのように流布していったのか。19世紀末から20世紀初頭にかけて隆盛を極めたジャポニズムの舞台芸術の中で注目されたのは、キリスト教の下では禁じられた「名誉の自死」という概念だった。しかし舞台で再現されるのは、川上音二郎一座がアメリカで実際に切腹の場面を演じてからである。それまで理解不能であるがゆえに滑稽に描かれることさえあった「ハラキリ」が、音二郎や貞奴によって実に劇的で凄惨な描写として演じられた。「ハラキリ」は自然主義演劇に飽き足りず、新しい表現を模索する20世紀演劇の理論家たちに強い影響を与えた。ベラスコは『蝶々夫人』の結末を自殺に書き換え、続く『神々の寵児』では切腹する武士を描いた。音二郎一座の演技は強烈なイメージを与えた一方で、ジャポニズム演劇に潜む多様性の芽を摘むことになったともいえる。以後の作品は「ハラキリ」のイメージを払しょくすることが困難になった。「ハラキリ」はもはや不可解な日本の風習というより、ジャポニズム演劇にエキゾチックな効果を与える一つの重要な表現として定着していった。