著者
村山 にな
雑誌
玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.11, pp.17-31, 2020-03-31

千葉県市原市を南北に走る小湊鉄道沿線地域の南部で繰り広げられる「いちはらアート×ミックス」を事例に、既存の市民活動とアートプロジェクトを比較し、地域におけるアートの真価を問う。地方の芸術祭における新規作品展示の再魔術化と運営合理化の連鎖と、ノスタルジアを媒介とする来場者と地域の共犯と相反関係の錯綜を示唆する。内外から見えてくる市原市の芸術祭は身の丈で、アマチュアとプロの境なく、大規模な恒久作品もないが、専門用語で飾った言説で市民を疎外するものでもない。過疎化する地域に出現するアートに対する期待と現状の齟齬を擦り合わせ、まちづくりのビジョン形成と共有化、具現化の試行錯誤におけるアートの役割を考察する。
著者
丸山 松彦
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.4, pp.13-24, 2012

本論文は映画《トイ・ストーリー》のキャラクターが、オモチャらしい人格を手に入れる過程を考察することで、アニメにおけるキャラクターはアイデンティティを獲得できるのかを明らかにしたい。あるいは、獲得できない理由を明らかにしたい。 また《トイ・ストーリー》には作品世界と現実世界を巧妙につなぐ仕掛けが施されていることにも注目する。それはアニメの中でキャラクターはオモチャであるが、現実世界でもオモチャとして販売されていることである。これは他の作品における、オモチャとキャラクターの関係とは異なった特異な状況といえる。 本論文はこの2点を軸に考察することで、キャラター、オモチャがいかなる関係をもち、どのように作品とその世界観を構築しているかを明らかにしようとするものである。 なお筆者は博士論文において写真における差異の問題について論じたが、本稿ではこの理論をアニメの分野に適用するものとする。
著者
法月 敏彦
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.7, pp.1-11, 2015

既刊研究書等によれば、明治期の演劇改良運動・演劇改良論とは、東京における演劇改良会に関する記述が大部分を占め、その演劇改良会について、例えば秋庭太郎は「自然と中止されて了つた」運動であったという。また、同時期の大阪における演劇改良に関しても、「東京のそれに刺戟されたものであつたことは言ふまでもない。」としている。 しかし、このような記述は、以下に述べる理由から、不十分かつ誤解が含まれていると考えられる。まず、当時、大阪に存在し、実態としては東京よりも早期に活動を開始し、「東京のそれに刺戟されたもの」ではない大阪演劇改良会への言及が少ない。また、主導であった東京の演劇改良会はほとんど失敗に終わったであろうが、官民協同の大阪の演劇改良会は角藤定憲らの若者を奮い立たせ、新しい演劇の発芽を準備したのであり、そういう事実に関する正しい評価がなされていないのである。 本稿では、従来、等閑視されることの多かった「大阪演劇改良会」に焦点をあてて、さらに、今まで史料として採り上げられることのなかったと考えられる大阪における主唱者の一人、丹羽純一郎訳述『英国龍動新繁昌記』(1878年刊)などを拠り所に、日本近代演劇史の実態を明らかにしたいと思う。
著者
平高 典子
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.9, pp.1-14, 2018-03-31

幸田延(1870明治3―1946昭和21)は音楽教育家として知られているが、ウィーン留学時以来、作曲活動も鋭意行っていた。本稿では、演奏や印刷されていないと考えられるものも含め、残された作品を紹介・解説したうえで、幸田の作風や作曲活動の意義と限界について考察する。
著者
小佐野 圭
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
vol.2013, no.5, pp.29-38, 2014-03-31

本稿は2013年10月22日に開催された釜山における「日韓親善交流のための演奏会研究報告」である。日本におけるピアノデュオ協会と韓国・釜山のピアノデュオ協会は、20年前から親密な関係を維持しており、私たちはピアノデュオの日本代表として招聘を受けた。演奏会においてはプーランク、ブラームス、ベネット、そしてガーシュウィンの作品を演奏した。本文は主にブラームスのピアノ五重奏曲と二台ピアノのためのソナタを比較研究し、2つの作品の共通性と相違性を考察した。ブラームスがどのようにピアノの譜面を弦楽器に書き直したかに焦点をあて、二台ピアノによる演奏法を探った。ピアニストとしての視点から、実際にこの2つの作品を演奏する上でどのようなテクニック(演奏法)が求められるのかを探求した。具体的にはアンサンブルとしての技術的な奏法と二台ピアノならではの演奏効果を表現する奏法が必要となる。それらを克服するためにはピアノの減衰楽器である特性と弦楽器のボウイングを認識することが重要であることを明らかにした。いかに弦楽器的効果を取り入れながらピアノ表現を求めるかが鍵となる。二台ピアノ作品を演奏するピアニスト、あるいは学生達の指針となれば幸いである。
著者
今野 哲也
雑誌
玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.11, pp.33-47, 2020-03-31

ゲーテの『ハンノキの王』は、ヘルダーの民謡思想の影響下に書かれたバラードである。『ハンノキの王』は、シューベルトの《魔王》D328の歌詞としても知られているが、その原型を辿ると、デンマークの伝承譚詩にまで遡る。この世の者ならぬ存在が、罪のない若者の命を奪うという筋書きこそ原型から一貫しているが、ゲーテは新たに、「中年男性による少年への誘惑」と「父親の無理解⇒親の子殺し」のモティーフを導入している。本研究の目的は、デンマークの伝承譚詩から『ハンノキの王』が成立してゆく過程を精査しながら、ゲーテの創作の意図を検証することにある。 子供の主張を無視し続けた馬上の父は、啓蒙思想の象徴とも捉え得るし、絶命する息子に、同性愛的な「ギリシアの愛」の対象として、古代ギリシアへの懐古趣味を見て取ることもできるかも知れない。これらの諸要因が総合的に咀嚼された結果、劇的効果をさらに強めるため、ゲーテは「少年愛のモティーフ」を導入したとする見解を述べ、本研究の結論とする。
著者
佐藤 由紀
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
vol.2012, no.4, pp.1-12, 2013-03-31

本稿では、一人芝居における舞台俳優と課題説明場面における成人男性の、ジェスチャーを中心とした発話構造を比較し、その共通性と相違性を探索した。俳優のジェスチャーは、平均持続時間、出現位置や方向、ビートのリズム性、空間構造、発話との時系列関係などでは成人男性と共通性を示した。ただし、一つのジェスチャーに含まれるジェスチャー句数が少ないなど、相違性もみられた。とくに俳優の特徴として、指さしを多用することに注目し、架空の対話相手と、状況に向けられた意図の複合した表現が、ここにみられた指示であった可能性が主張され、指示の複雑性がこの俳優の演技の熟達の特徴である可能性を示した。
著者
今野 哲也
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.9, pp.41-53, 2018-03-31

本研究の目的は、F. シューベルトの歌曲《ドッペルゲンガー》D957―13を対象に、どのような和声技法に基づき、H. ハイネの詩の世界が表現されているのかを検証することにある。この歌曲で展開される和声上の特徴は、①パッサカリアの手法、②「属7の和音」とその変容体としての「増6の和音」、③「属7の和音」と「ドイツの6」を媒体とする異名同音的転義に集約されよう。合計4回現れるパッサカリア主題内部のドミナントは、「属7の和音」から「ドイツの6」へと順次変容してゆくが、その実それは、この歌曲の唯一の転調部分からの離脱和音であることの布石にもなっている。その転調部分は、この歌曲の主人公とも言える「ある男」惑乱が最高潮に達する場面でもある。これらの和声的特徴は、歌詞と密接に連関しており、「ある男」がゆっくりと、確実に狂気へと突き進んでゆく様を表現する上でも、必要不可欠なものであったと、本研究は結論付けるものである。
著者
今野 哲也
雑誌
玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.11, pp.33-47, 2020-03-31

ゲーテの『ハンノキの王』は、ヘルダーの民謡思想の影響下に書かれたバラードである。『ハンノキの王』は、シューベルトの《魔王》D328の歌詞としても知られているが、その原型を辿ると、デンマークの伝承譚詩にまで遡る。この世の者ならぬ存在が、罪のない若者の命を奪うという筋書きこそ原型から一貫しているが、ゲーテは新たに、「中年男性による少年への誘惑」と「父親の無理解⇒親の子殺し」のモティーフを導入している。本研究の目的は、デンマークの伝承譚詩から『ハンノキの王』が成立してゆく過程を精査しながら、ゲーテの創作の意図を検証することにある。 子供の主張を無視し続けた馬上の父は、啓蒙思想の象徴とも捉え得るし、絶命する息子に、同性愛的な「ギリシアの愛」の対象として、古代ギリシアへの懐古趣味を見て取ることもできるかも知れない。これらの諸要因が総合的に咀嚼された結果、劇的効果をさらに強めるため、ゲーテは「少年愛のモティーフ」を導入したとする見解を述べ、本研究の結論とする。
著者
多和田 真太良
雑誌
芸術研究:玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.8, pp.29-43, 2017-03-31

「ハラキリ」という単語はどこでどのように流布していったのか。19世紀末から20世紀初頭にかけて隆盛を極めたジャポニズムの舞台芸術の中で注目されたのは、キリスト教の下では禁じられた「名誉の自死」という概念だった。しかし舞台で再現されるのは、川上音二郎一座がアメリカで実際に切腹の場面を演じてからである。それまで理解不能であるがゆえに滑稽に描かれることさえあった「ハラキリ」が、音二郎や貞奴によって実に劇的で凄惨な描写として演じられた。「ハラキリ」は自然主義演劇に飽き足りず、新しい表現を模索する20世紀演劇の理論家たちに強い影響を与えた。ベラスコは『蝶々夫人』の結末を自殺に書き換え、続く『神々の寵児』では切腹する武士を描いた。音二郎一座の演技は強烈なイメージを与えた一方で、ジャポニズム演劇に潜む多様性の芽を摘むことになったともいえる。以後の作品は「ハラキリ」のイメージを払しょくすることが困難になった。「ハラキリ」はもはや不可解な日本の風習というより、ジャポニズム演劇にエキゾチックな効果を与える一つの重要な表現として定着していった。
著者
加藤 悦子
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.9, pp.63-71, 2017

クロード・ドビュッシーが交響詩《海》楽譜(初版)の表紙画に、葛飾北斎の「冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏」の図様を転用したことは、ジャポニスムの好例として著名である。それは単なるエキゾティシズムによる選択ではなく、日本美術の重要な一特質である遊戯性を感知した上のものであったことを、カミーユ・クローデルの彫刻作品「波」との関係から推定した。
著者
小山 正
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.5, pp.39-45, 2013

玉川大学芸術学部では、10年間アメリカ・ワシントンD.C.及びフィラデルフィアでの桜祭り公演を中心にアメリカで和太鼓と創作民族舞踊の公演を行っています。今回、玉川学園および玉川大学における海外公演(演劇・舞踊に特化)の軌跡についてのレポートです。
著者
平高 典子
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.7, pp.13-27, 2015

幸田延は、1909 年11 月から1910 年7月の間、東京音楽学校を休職してヨーロッパに滞在し、主にドイツのベルリンとオーストリアのウィーンで、また帰路フランスのパリとイギリスのロンドンで、音楽事情を視察した。その間したためられた日記から、演奏会鑑賞、音楽学校及び学校の音楽授業の参観、レッスン受講、音楽関係者との交流など、多彩な活動の内容が明らかになった。 日記における音楽関係の記述からは、彼女が、深い音楽性・的確な批判能力・過去や同時代音楽に対する豊富な知識と洞察力を持っていたことがうかがえる。これらの能力は、滞在によってより強まったであろう。また、当時彼女が置かれていた音楽界は楽家のネットワークというべきものが機能しており、そのネットワークと関わる音楽家たちと交流していたことも判明した。 帰国後延が東京音楽学校に復帰することはなく、ヨーロッパの音楽や音楽教育をライブで体験して得た知識や批評能力が十全に生かされたわけではなかったといえよう。
著者
多和田 真太良
出版者
玉川大学芸術学部
雑誌
芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
巻号頁・発行日
no.8, pp.29-43, 2016

「ハラキリ」という単語はどこでどのように流布していったのか。19世紀末から20世紀初頭にかけて隆盛を極めたジャポニズムの舞台芸術の中で注目されたのは、キリスト教の下では禁じられた「名誉の自死」という概念だった。しかし舞台で再現されるのは、川上音二郎一座がアメリカで実際に切腹の場面を演じてからである。それまで理解不能であるがゆえに滑稽に描かれることさえあった「ハラキリ」が、音二郎や貞奴によって実に劇的で凄惨な描写として演じられた。「ハラキリ」は自然主義演劇に飽き足りず、新しい表現を模索する20世紀演劇の理論家たちに強い影響を与えた。ベラスコは『蝶々夫人』の結末を自殺に書き換え、続く『神々の寵児』では切腹する武士を描いた。音二郎一座の演技は強烈なイメージを与えた一方で、ジャポニズム演劇に潜む多様性の芽を摘むことになったともいえる。以後の作品は「ハラキリ」のイメージを払しょくすることが困難になった。「ハラキリ」はもはや不可解な日本の風習というより、ジャポニズム演劇にエキゾチックな効果を与える一つの重要な表現として定着していった。