著者
Hina Atsuhiro
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.76, pp.31-42, 2012-03

本稿は東京大学ドイツ文学研究室で2011年6月30日に行われたドクター・コロキウムの発表原稿に加筆したものである。今回は1990年代のドイツ語詩を代表する詩人トーマス・クリング(1957-2005)の「ミューラウ,†」を取り上げた。この詩が1925年にブレンナーによって行われたゲオルク・トラークルの遺体(かれは1914年にクラカウの野戦病院で死亡し、その土地に埋葬されていた)のミューラウ墓地への輸送をテーマにしていることを実証しつつ、それを現代詩特有の複雑な統語法に支配された当作品を解読するための<鍵>であると考えた。さらに作品の目的が、単にトラークルの埋葬という歴史的事象を言語の中へと写しとることにではなく、その<音>による再構成をとおして同時的に、異なった歴史的事象へと意味内容をシフトさせることにこそあると考えた。ここで筆者は、哲学者ミシェル・フーコーの講演「異なった諸空間 (Andere Räume)」とそこで提起される<ヘテロトピア>という概念を積極的に参照し、詩という場所を舞台にした諸イメージの往来をクリングの詩学として定立せんと試みた。(本文ドイツ語)
著者
日名 淳裕
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.80, pp.143-163, 2014-09

本稿は2013年12月13日にウィーン大学ドイツ学科で行われたドクター・コロキウムでの発表原稿を日本語に訳し加筆したものである。なおオリジナルのドイツ語原稿は2014年6月25日にウィーン大学文学部に提出された博士論文Zur Rezeption Georg Trakls nach dem Zweiten Weltkrieg. Produktive Rezeption, Intertextualität, Strukturanalogie, Fortschreibenの一章をなすものである。今回はオーストリアの詩人インゲボルク・バッハマンによるトラークル受容について調査した。その際、第一詩集『猶予された時』(1953)出版にいたる、パウル・ツェランの影響下にフィッカーとのコンタクトを模索した第一期、第二詩集『大熊座の呼びかけ』(1956)を準備していた頃の作曲家ハンス・ヴェルナー・ヘンツェおよび詩人マリー・ルイーゼ・カシュニッツとの交流から詩作品の質的発展を求めた第二期、バッハマンによるトラークル受容をこの二つの時期に分けて考察した。また比較的その詩風にトラークルの影響が指摘されることの少ない印象を与えてきたバッハマンの研究史を丹念に辿りなおすことで、二人の接点を多角的に示そうとする二次文献を複数見つけることができた。その成果は本論中に図表としてまとめてある。経済的必要を動機として指摘できたり、他の詩人の影響という間接的な受容であったり、大枠として当時の文学的モードに収まるものであったり、バッハマンによるトラークル受容の本質は見極めにくい。その上で本論は、バッハマンの第二詩集に顕著な「言葉の音楽化」をバッハマンによるトラークル受容の結果として提起し、説明を試みた。
著者
中丸 禎子
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.31-52, 2004-09

2003年12月に提出した修士論文の前半である。スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴは、デビュー作『イェスタ・ベルリングのサガ』(1891)において、1820年代の故郷ヴェルムランドを舞台に、善き人間性と美しい自然を民話的な筆致で書いた。論文の第Ⅰ章「作者と作品」では、作者の時代の状況と北欧文学史における位置を紹介し、論考の目的を説明する。これまで同作は、民話調の情景描写や、人間の善意の肯定、自然主義文学から新ロマン主義文学への転換という北欧文学史上の功績を高く評価される一方、「現実逃避」、「過去の美化」といった批判も受けてきた。これに対して、本論文は、同作が、背景としての「近代化」をどのように反映し、なぜ前近代を「美化」しているのかを論じることで、作家像に新たな光をあてるのみならず、スウェーデンの「近代化」のあり方と、それに対して「前近代」が果たした役割を、文学研究の立場から考察する。第Ⅱ章「前近代のヴェルムランド」では、『イェスタ・ベルリングのサガ』において、1820年代のヴェルムランドがどのように語られているかを考察する。この作品には雑多な人物・事物が登場し、美しさと危険、善と悪、強さと弱さといった、「正反対のもの」が混ざり合う。混沌とした、清濁併せ持つその世界のすべては、一貫して肯定的に語られている。この語り口を保証するのが、表題にもある「サガ」である。「サガ(saga)」は、古アイスランド語の動詞segja(言う)を語源とし、口承文芸を意味する。同作は、近代文学でありながら、「サガ」を標榜することで、語り手を批判的主体ではなく、すでにある物語の媒介者として表現し、同時に、一つの空間に語り手と聞き手が集まり、物語を声で伝えていく前近代的な共同性の再現を試みている。『詩・言語』第62号に掲載された「後編」に続く。
著者
中丸 禎子
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.61, pp.31-52, 2004-09

2003年12月に提出した修士論文の前半である。スウェーデンの作家セルマ・ラーゲルレーヴは、デビュー作『イェスタ・ベルリングのサガ』(1891)において、1820年代の故郷ヴェルムランドを舞台に、善き人間性と美しい自然を民話的な筆致で書いた。論文の第Ⅰ章「作者と作品」では、作者の時代の状況と北欧文学史における位置を紹介し、論考の目的を説明する。これまで同作は、民話調の情景描写や、人間の善意の肯定、自然主義文学から新ロマン主義文学への転換という北欧文学史上の功績を高く評価される一方、「現実逃避」、「過去の美化」といった批判も受けてきた。これに対して、本論文は、同作が、背景としての「近代化」をどのように反映し、なぜ前近代を「美化」しているのかを論じることで、作家像に新たな光をあてるのみならず、スウェーデンの「近代化」のあり方と、それに対して「前近代」が果たした役割を、文学研究の立場から考察する。第Ⅱ章「前近代のヴェルムランド」では、『イェスタ・ベルリングのサガ』において、1820年代のヴェルムランドがどのように語られているかを考察する。この作品には雑多な人物・事物が登場し、美しさと危険、善と悪、強さと弱さといった、「正反対のもの」が混ざり合う。混沌とした、清濁併せ持つその世界のすべては、一貫して肯定的に語られている。この語り口を保証するのが、表題にもある「サガ」である。「サガ(saga)」は、古アイスランド語の動詞segja(言う)を語源とし、口承文芸を意味する。同作は、近代文学でありながら、「サガ」を標榜することで、語り手を批判的主体ではなく、すでにある物語の媒介者として表現し、同時に、一つの空間に語り手と聞き手が集まり、物語を声で伝えていく前近代的な共同性の再現を試みている。『詩・言語』第62号に掲載された「後編」に続く。
著者
三根 靖久
出版者
東京大学大学院ドイツ語ドイツ文学研究会
雑誌
詩・言語 (ISSN:09120041)
巻号頁・発行日
vol.70, pp.47-70, 2009-03-24

Dieser Aufsatz behandelt, wie der oder die Held(in) zweier Texte Kafkas über Tiere, sc. „Forschungen eines Hundes"(1922) und „Josefine, die Sängerin oder Das Volk der Mäuse"(1924) Musik empfindet oder ausdrückt, und wie Körper resp. Körperlichkeit als Medium solcher Musik dargestellt werden. Dabei wird auch betont, dass in diesen Texten die Körpersprache eine wichtige Rolle spielt.//„Forschungen eines Hundes"//Der Erzählerhund, der seinem bisherigen Leben nachforscht, führt zwei Musikerfahrungen als wichtigste Wendepunkte in seinen Forschungen an. Der eine betrifft die Musikhunde, die er als Kind allein im Feld zufällig traf und die vor ihm Musik machten. Aus der Darstellung aber ist zu entnehmen, dass ihre Aktion eher einen Tanz als Musik darbot. Vermutlich empfand der Erzähler die rhythmischen Bewegungen ihrer Füße und Kopfe als Musik. Unter dieser starken Impression begann er die Erforschung des Hundesessens, bzw. der Frage, woher das Essen komme. Zu diesem Zweck unternahm er allein im Wald ein Hungerexperiment. Während seines Hungerns, erfuhr er zum zweiten Mal durch einen Jagdhund die Musik. In diesem Fall blieb jener bewegungslos und sang nicht. Demnach empfand der Erzähler diesmal die Musik oder die Musikalität in den winzigen Gesten, die der Jagdhund machte. Diese Empfindung ermöglichten allein seine durch das Hungern geschärften Sinne. Im Anschluss daran konnte er bei allen Hunden Musik finden. Was der Erzähler damit erreicht, ist das Musikempfinden in kleinen fast bewegungslosen Gesten. Diese Fähigkeit ist eine Produktion der geschärften Sinne.//„Josefine, die Sängerin oder Das Volk der Mäuse"//Josefine ist eine Sängerin. Dennoch hegen viele Mäuse Zweifel, ob sie wirklich singt. Ihr Gesang klingt nur wie jenes Pfeifen, das als Sprache des Volkes tagtäglich benutzt wird. Aber sie reißt das Volk immer wieder damit fort. Wie die Theorie des Erzählers von „Nußknacken" zeigt, kann man in ihrer Musik das Pfeifen als Kunst, und zwar als »performing arts« verstehen. Josefines Musik wird von zahlreichen körperlichen Gesten und Bewegungen begleitet. Wegen ihres zarten Körpers und ihrer Untüchtigkeit wird ihre Darbietung ausdrucksvoll. Jede Bewegung ist ein einmaliger Gestus. Josefines oft vom Erzähler angesprochene Empfindlichkeit und der schlanke zarte Körper kann aus dem Pfeifen mit den unrhythmischen Bewegungen einen künstlichen Körperausdruck machen. Daneben spielt das Verhältnis zum Volk eine wichtige Rolle, denn diese Kunst braucht Zuschauer. Kafkas Erzählung beschreibt, wie das Volk Josefine unterstützt, gleichzeitig aber auch, wie es sie nicht versteht. Hier wird nicht nur das Pfeifen selbst als Körpersprache, sondern auch die Umwelt der Ausdruckskünstlerin dargestellt. Schließlich wird der Prozeß beschrieben, wie Josefine ihre Erkenntnis bekämpft und darüber scheitert.