著者
田原 範子
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.49-66, 2018-03-20

国立ハンセン病療養所「松丘保養園」に暮らす滝田十和男さんのライフヒストリーである。滝田十和男さんは、1925(大正14)年、福島県で生まれた。10 歳の頃にハンセン病を発症し、1937(昭和12)年9月21 日、12 歳の時、同じくハンセン病を発症した父親と一緒に警察に付き添われて強制的に北部保養院に入所した。その後、療養所内の小学校を卒業し、患者の介護や療養所内のさまざまな仕事に従事した。療養所を飛び出し外で行商をしたり、精密機械工組み立ての仕事をしたりした後、手足の麻痺が進んだこともあり、東北新生園へと再入所し、戦争中の厳しい時を生き抜き、知り合いを頼って再び松丘保養園に戻った。若い頃に「生きた証として形に遺せるものは短歌くらいしかない」と始めた短歌は、その才能を認められて、北部保養院で初めて1956 年に歌集を出版することになった。歌人であり、俳人でもあった。松丘ではプロミン獲得運動の委員、盲人会の書記、カトリック教会信徒会の世話役なども務めた。 滝田さんは私たちの来訪を快く受け入れ、体調を気にする看護師や職員の心配をよそに、自身の経験や療養所のできごとを語った。その記憶の鮮明さ、語る言葉の芳醇なことに私たち聞き手は驚いた。聞き取り時間は、2015 年9 月2 日に1 時間30 分、9 月3 日に52 分であった。聞き手は、平田勝政1)、和田謙一郎2)、田原範子3)である。聞き取り時点で滝田十和男さんは90 歳であった。その後、2016 年2 月2 日に1 時間10 分、2 月3 日に4 時間15 分の聞き取りを行った。聞き手は平田勝政、田原範子であり、いずれも病棟の待合室で行った。滝田さんの語りからは常に、今、生きていることへの感謝、人間が生きることへの敬意が感じられた。それは、「療養所にいて、ほんとにかわいそうな人生送ったっていう風に思われるかもしれないけども、療養所は療養所なりに、やっぱり人間の生きる社会ですから、生きた社会ですから、それなりにね。やっぱり人間として生かしてもらってありがたいなー」という言葉に凝縮されている。聞き取りはIC レコーダーで録音し、後日、松下かおり(四天王寺大学卒業生)が音声を文字データとし、田原が最終チェックを行った。 滝田十和男さんは2016 年8 月17 日、91 歳で永眠された。松丘保養園の川西園長によれば、8 月19 日に園内の松丘カトリック教会で告別ミサが執り行われた。福島から数名の親族が来て、交流のあった人びとや入所者、職員が多数参列して滝田さんに相応しいとてもよい告別式だったという。2016 年2 月2 日、平田と田原は、納骨堂のなかの滝田さんの骨壺を拝むことができた。本稿では、2015 年9 月の聞き取り調査にもとづいてライフヒストリーを記す4)。
著者
渡邉 泰夫 笠原 幸子
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集
巻号頁・発行日
no.12, pp.151-163, 2018-03-20

〔目的〕主体的に学ぶ介護福祉士の職業的アイデンティティの形成過程を明らかにすることを目的とする。〔方法〕主体的に学ぶ介護福祉士6 人の協力を得てLife-line Interview Method に基づく半構造化面接を行い、M-GTA を用いて分析した。〔結果〕主体的に学ぶ介護福祉士の職業的アイデンティティ形成過程は、《省察の深化に伴う葛藤》《"如何に自分で勉強するか"》《介護福祉研究を介した"やればできる感覚"の高まり》《職業的アイデンティティの探求》《社会福祉実践者という職業的アイデンティティへの帰結》という5 カテゴリーから構成された。〔結論〕専門職制度を超越した職業的アイデンティティの形成には隣接領域の資格取得に関連した学びが重要でありながらも、単なる資格取得ではなく"ふりかえり"が契機となっていることが示唆された
著者
坂本 光德
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.93-104, 2018-03-20

韓国の公的扶助制度の大きな改革は、2000 年施行の国民基礎生活保障法であった。扶助の種類など日本の生活保護法と類似する点も多い制度であるが、改正を繰り返して2015 年にはそれまでのパッケージ方式の給付から各扶助の個別給付への大きな転換も果たしている。 その中で、国民基礎生活保障法の対象である生活困窮者を経済的理由等で文化芸術に触れる機会が少ない文化疎外階層と呼び、その人々の文化的な生活を送ることを支援することを目的に文化利用券制度が2004 年から展開されてきた。2017 年現在その文化利用券は「文化ヌリカード」として発行され、生活困窮者160 万人以上が利用している。 本論では文化利用券制度の概要と展開を明らかにして、日本の生活困窮者対策に示唆できることを検討する。
著者
原 順子
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.33-48, 2018-03-20

聴覚障害は外見では分からない障害であり、また聞こえ方、失聴時期等の多様な障害実態があり、かつ誤解を受けやすい障害であるといわれている。そこで日頃から聴覚障害者のコミュニケーション保障および情報保障に携わる手話通訳者を対象に、聴覚障害者についての障害認識を問う調査を実施した。その結果、コア・カテゴリーとして出現数の多い順に、【聴覚障害者独自のコミュニケーション】【聴覚障害は情報アクセス障害】【ろう文化は聴覚障害者の独自の文化】【理解困難な障害】【オーディズム:聴者至上主義】【手話コミュニケーションの特徴】の6 つが生成された。【聴覚障害者独自のコミュニケーション】【聴覚障害は情報アクセス障害】の出現数が多いのは、手話通訳という業務上の理由からであることは推測できる結果である。また、【ろう文化は聴覚障害者の独自の文化】が生成されたことは、わが国においてもろう文化の理解が定着してきているという実態が明らかとなった。
著者
和田 謙一郎
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.67-92, 2018-03-20

敗戦を経験した年齢層のらい(ハンセン病)療養所入所者、及び療養所医療関係者は、らいの「不治の時代」と「治療可能になった時代」をまたぎ、また、戦争を経験した者が敗戦を迎え、GHQ 主導の下での新しい医療施策を経験する。これらを念頭に置き、当時からの療養所入所者の生活実態や、そこに従事した看護婦らの実態を眺め、敗戦後も、そして「治療可能な時代」になっても、なぜ長年、らい(ハンセン病)療養所が特異な療養所として存在し続け、あるいは、そこでの患者らの生活が継続し続けたのか、その検討を進める。
著者
田原 範子
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.49-66, 2018-03-20

国立ハンセン病療養所「松丘保養園」に暮らす滝田十和男さんのライフヒストリーである。滝田十和男さんは、1925(大正14)年、福島県で生まれた。10 歳の頃にハンセン病を発症し、1937(昭和12)年9月21 日、12 歳の時、同じくハンセン病を発症した父親と一緒に警察に付き添われて強制的に北部保養院に入所した。その後、療養所内の小学校を卒業し、患者の介護や療養所内のさまざまな仕事に従事した。療養所を飛び出し外で行商をしたり、精密機械工組み立ての仕事をしたりした後、手足の麻痺が進んだこともあり、東北新生園へと再入所し、戦争中の厳しい時を生き抜き、知り合いを頼って再び松丘保養園に戻った。若い頃に「生きた証として形に遺せるものは短歌くらいしかない」と始めた短歌は、その才能を認められて、北部保養院で初めて1956 年に歌集を出版することになった。歌人であり、俳人でもあった。松丘ではプロミン獲得運動の委員、盲人会の書記、カトリック教会信徒会の世話役なども務めた。 滝田さんは私たちの来訪を快く受け入れ、体調を気にする看護師や職員の心配をよそに、自身の経験や療養所のできごとを語った。その記憶の鮮明さ、語る言葉の芳醇なことに私たち聞き手は驚いた。聞き取り時間は、2015 年9 月2 日に1 時間30 分、9 月3 日に52 分であった。聞き手は、平田勝政1)、和田謙一郎2)、田原範子3)である。聞き取り時点で滝田十和男さんは90 歳であった。その後、2016 年2 月2 日に1 時間10 分、2 月3 日に4 時間15 分の聞き取りを行った。聞き手は平田勝政、田原範子であり、いずれも病棟の待合室で行った。滝田さんの語りからは常に、今、生きていることへの感謝、人間が生きることへの敬意が感じられた。それは、「療養所にいて、ほんとにかわいそうな人生送ったっていう風に思われるかもしれないけども、療養所は療養所なりに、やっぱり人間の生きる社会ですから、生きた社会ですから、それなりにね。やっぱり人間として生かしてもらってありがたいなー」という言葉に凝縮されている。聞き取りはIC レコーダーで録音し、後日、松下かおり(四天王寺大学卒業生)が音声を文字データとし、田原が最終チェックを行った。 滝田十和男さんは2016 年8 月17 日、91 歳で永眠された。松丘保養園の川西園長によれば、8 月19 日に園内の松丘カトリック教会で告別ミサが執り行われた。福島から数名の親族が来て、交流のあった人びとや入所者、職員が多数参列して滝田さんに相応しいとてもよい告別式だったという。2016 年2 月2 日、平田と田原は、納骨堂のなかの滝田さんの骨壺を拝むことができた。本稿では、2015 年9 月の聞き取り調査にもとづいてライフヒストリーを記す4)。