著者
石田 晋司
出版者
四天王寺大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.5-18, 2018-03-20

地域自立支援協議会は、障害者支援のネットワーク構築ために中心となり活動することが期待される機関である。大阪市は、区地域自立支援協議会に参画し地域における相談支援体制の中核的な役割を障がい者相談支援センターに課している。現在では、24 区全区に障がい者相談支援センターを中心とした区地域自立支援協議会が設置されている。そこで、区地域自立支援協議会や地域における障害者支援の現状と課題を把握するために、障がい者相談支援センターの職員にインタビュー調査を行った。 結果は、【活動推進の条件】【活動の膠着】【連携困難な事業者の増加】のコアカテゴリーが生成され、行政が参画している組織の受け入れられやすさを活用して、意欲的に障害者福祉支援の周知を行っている状況、制度的課題、地域の事業所の意識の変化などが明らかになった。
著者
田原 範子
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.49-66, 2018-03-20

国立ハンセン病療養所「松丘保養園」に暮らす滝田十和男さんのライフヒストリーである。滝田十和男さんは、1925(大正14)年、福島県で生まれた。10 歳の頃にハンセン病を発症し、1937(昭和12)年9月21 日、12 歳の時、同じくハンセン病を発症した父親と一緒に警察に付き添われて強制的に北部保養院に入所した。その後、療養所内の小学校を卒業し、患者の介護や療養所内のさまざまな仕事に従事した。療養所を飛び出し外で行商をしたり、精密機械工組み立ての仕事をしたりした後、手足の麻痺が進んだこともあり、東北新生園へと再入所し、戦争中の厳しい時を生き抜き、知り合いを頼って再び松丘保養園に戻った。若い頃に「生きた証として形に遺せるものは短歌くらいしかない」と始めた短歌は、その才能を認められて、北部保養院で初めて1956 年に歌集を出版することになった。歌人であり、俳人でもあった。松丘ではプロミン獲得運動の委員、盲人会の書記、カトリック教会信徒会の世話役なども務めた。 滝田さんは私たちの来訪を快く受け入れ、体調を気にする看護師や職員の心配をよそに、自身の経験や療養所のできごとを語った。その記憶の鮮明さ、語る言葉の芳醇なことに私たち聞き手は驚いた。聞き取り時間は、2015 年9 月2 日に1 時間30 分、9 月3 日に52 分であった。聞き手は、平田勝政1)、和田謙一郎2)、田原範子3)である。聞き取り時点で滝田十和男さんは90 歳であった。その後、2016 年2 月2 日に1 時間10 分、2 月3 日に4 時間15 分の聞き取りを行った。聞き手は平田勝政、田原範子であり、いずれも病棟の待合室で行った。滝田さんの語りからは常に、今、生きていることへの感謝、人間が生きることへの敬意が感じられた。それは、「療養所にいて、ほんとにかわいそうな人生送ったっていう風に思われるかもしれないけども、療養所は療養所なりに、やっぱり人間の生きる社会ですから、生きた社会ですから、それなりにね。やっぱり人間として生かしてもらってありがたいなー」という言葉に凝縮されている。聞き取りはIC レコーダーで録音し、後日、松下かおり(四天王寺大学卒業生)が音声を文字データとし、田原が最終チェックを行った。 滝田十和男さんは2016 年8 月17 日、91 歳で永眠された。松丘保養園の川西園長によれば、8 月19 日に園内の松丘カトリック教会で告別ミサが執り行われた。福島から数名の親族が来て、交流のあった人びとや入所者、職員が多数参列して滝田さんに相応しいとてもよい告別式だったという。2016 年2 月2 日、平田と田原は、納骨堂のなかの滝田さんの骨壺を拝むことができた。本稿では、2015 年9 月の聞き取り調査にもとづいてライフヒストリーを記す4)。
著者
近藤 祐昭
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.10, pp.23-58, 2016-03-20

日本のハンセン病療養所は、明治以後欧米から日本に布教にやってきたカトリックの神父およびプロテスタントの宣教師などによって始められた。日本における患者のおかれた過酷な現実に出会い、患者への強い共感を持ち、救済と共生を求めていった。 その後、法律が制定され、公立療養所の設立へとつながっていった。しかしその中で、「共感・共生」は後退していき、「国民への感染予防」が主となり、「隔離撲滅」や「民族浄化」が強調されていった。 日本のハンセン病療養所の原点であった「共感・共生」について、綱脇龍妙と「身延深敬病院」を主として振り返ってみることにした。
著者
坂本 光德
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.93-104, 2018-03-20

韓国の公的扶助制度の大きな改革は、2000 年施行の国民基礎生活保障法であった。扶助の種類など日本の生活保護法と類似する点も多い制度であるが、改正を繰り返して2015 年にはそれまでのパッケージ方式の給付から各扶助の個別給付への大きな転換も果たしている。 その中で、国民基礎生活保障法の対象である生活困窮者を経済的理由等で文化芸術に触れる機会が少ない文化疎外階層と呼び、その人々の文化的な生活を送ることを支援することを目的に文化利用券制度が2004 年から展開されてきた。2017 年現在その文化利用券は「文化ヌリカード」として発行され、生活困窮者160 万人以上が利用している。 本論では文化利用券制度の概要と展開を明らかにして、日本の生活困窮者対策に示唆できることを検討する。
著者
原 順子
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.33-48, 2018-03-20

聴覚障害は外見では分からない障害であり、また聞こえ方、失聴時期等の多様な障害実態があり、かつ誤解を受けやすい障害であるといわれている。そこで日頃から聴覚障害者のコミュニケーション保障および情報保障に携わる手話通訳者を対象に、聴覚障害者についての障害認識を問う調査を実施した。その結果、コア・カテゴリーとして出現数の多い順に、【聴覚障害者独自のコミュニケーション】【聴覚障害は情報アクセス障害】【ろう文化は聴覚障害者の独自の文化】【理解困難な障害】【オーディズム:聴者至上主義】【手話コミュニケーションの特徴】の6 つが生成された。【聴覚障害者独自のコミュニケーション】【聴覚障害は情報アクセス障害】の出現数が多いのは、手話通訳という業務上の理由からであることは推測できる結果である。また、【ろう文化は聴覚障害者の独自の文化】が生成されたことは、わが国においてもろう文化の理解が定着してきているという実態が明らかとなった。
著者
濵名 元之
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.14, pp.56-76, 2020-03-20

本稿では障害者に対する就労支援の観点から、特別支援学校高等部における進路指導実践に着目した。現在、発達障害を主とした障害の多様化が、知的障害を対象とする特別支援学校に対する教育的支援を中心としたニーズの多様化と深く結びついている。そこで、筆者はニーズの多様化が高等部生徒に対する現在の進路指導にどのような影響を及ぼしているのか、現状を把握するため、特別支援学校高等部の進路指導と特別支援教育に関する調査を実施した。生徒の「在学中」と「卒業後」の進路指導・支援を担う特別支援学校高等部の進路指導は、教育と福祉、就労支援という複数の要素が混在していることが把握できた。また、進路指導において中心的担い手となる者は「進路指導教諭」であった。この研究の調査内容と関連する文献を確認しつつ、特別支援学校高等部における進路指導は、在籍する生徒に対してこれまでいかなる役割を果たしてきており、今後、進路指導においていかなる専門性が期待されるのか、課題を探り検討と分析を行った。 なお、本稿は平成30 年度四天王寺大学大学院に提出した修士論文の一部を再編集し、大幅に加筆修正したものである。
著者
和田 謙一郎
出版者
四天王寺大学
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.11, pp.53-79, 2016

この国で類を見ない人権侵害を継続し続けたハンセン病(らい)問題については、司法判断までの経緯や当事者(ハンセン病回復者)らの考え方について、似た分類に入る他の訴訟との相違点を感じる部分が多い。この素朴な疑問を解決するためには、戦後の現行憲法下のらい法制と、当初から強制隔離の対象となった療養所入所者の生活状況、そして、らい法制を含むわが国の国民の生活保障を担う社会保障法制について、一連のらい法制を旧来の保護と考えるか、侵害法制と考えるか、あるいは給付法制と考えるか、それら各法制を時代別相互に確認する必要がある。同時に、戦後に再形成されるハンセン病患者らへの社会的排除と、社会保障法制下の制度的排除が生じる原因の解明も必要となる。本稿は、戦後の時代背景を捉え、らい法制と社会保障法制の変遷も確認し、行政・立法、そしてハンセン病患者らが、戦後のらい法制を、その時代、その時代にどのように捉えていたかを司法判断を参考にし先の疑問の解明を試みる。
著者
和田 謙一郎
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.67-92, 2018-03-20

敗戦を経験した年齢層のらい(ハンセン病)療養所入所者、及び療養所医療関係者は、らいの「不治の時代」と「治療可能になった時代」をまたぎ、また、戦争を経験した者が敗戦を迎え、GHQ 主導の下での新しい医療施策を経験する。これらを念頭に置き、当時からの療養所入所者の生活実態や、そこに従事した看護婦らの実態を眺め、敗戦後も、そして「治療可能な時代」になっても、なぜ長年、らい(ハンセン病)療養所が特異な療養所として存在し続け、あるいは、そこでの患者らの生活が継続し続けたのか、その検討を進める。
著者
田原 範子
出版者
四天王寺大学大学院
雑誌
四天王寺大学大学院研究論集 (ISSN:18836364)
巻号頁・発行日
no.12, pp.49-66, 2018-03-20

国立ハンセン病療養所「松丘保養園」に暮らす滝田十和男さんのライフヒストリーである。滝田十和男さんは、1925(大正14)年、福島県で生まれた。10 歳の頃にハンセン病を発症し、1937(昭和12)年9月21 日、12 歳の時、同じくハンセン病を発症した父親と一緒に警察に付き添われて強制的に北部保養院に入所した。その後、療養所内の小学校を卒業し、患者の介護や療養所内のさまざまな仕事に従事した。療養所を飛び出し外で行商をしたり、精密機械工組み立ての仕事をしたりした後、手足の麻痺が進んだこともあり、東北新生園へと再入所し、戦争中の厳しい時を生き抜き、知り合いを頼って再び松丘保養園に戻った。若い頃に「生きた証として形に遺せるものは短歌くらいしかない」と始めた短歌は、その才能を認められて、北部保養院で初めて1956 年に歌集を出版することになった。歌人であり、俳人でもあった。松丘ではプロミン獲得運動の委員、盲人会の書記、カトリック教会信徒会の世話役なども務めた。 滝田さんは私たちの来訪を快く受け入れ、体調を気にする看護師や職員の心配をよそに、自身の経験や療養所のできごとを語った。その記憶の鮮明さ、語る言葉の芳醇なことに私たち聞き手は驚いた。聞き取り時間は、2015 年9 月2 日に1 時間30 分、9 月3 日に52 分であった。聞き手は、平田勝政1)、和田謙一郎2)、田原範子3)である。聞き取り時点で滝田十和男さんは90 歳であった。その後、2016 年2 月2 日に1 時間10 分、2 月3 日に4 時間15 分の聞き取りを行った。聞き手は平田勝政、田原範子であり、いずれも病棟の待合室で行った。滝田さんの語りからは常に、今、生きていることへの感謝、人間が生きることへの敬意が感じられた。それは、「療養所にいて、ほんとにかわいそうな人生送ったっていう風に思われるかもしれないけども、療養所は療養所なりに、やっぱり人間の生きる社会ですから、生きた社会ですから、それなりにね。やっぱり人間として生かしてもらってありがたいなー」という言葉に凝縮されている。聞き取りはIC レコーダーで録音し、後日、松下かおり(四天王寺大学卒業生)が音声を文字データとし、田原が最終チェックを行った。 滝田十和男さんは2016 年8 月17 日、91 歳で永眠された。松丘保養園の川西園長によれば、8 月19 日に園内の松丘カトリック教会で告別ミサが執り行われた。福島から数名の親族が来て、交流のあった人びとや入所者、職員が多数参列して滝田さんに相応しいとてもよい告別式だったという。2016 年2 月2 日、平田と田原は、納骨堂のなかの滝田さんの骨壺を拝むことができた。本稿では、2015 年9 月の聞き取り調査にもとづいてライフヒストリーを記す4)。