著者
菅野 文夫 KANNO Fumio
出版者
岩手大学教育学部社会科教育科
雑誌
岩手大学文化論叢 (ISSN:09123571)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.39-55, 2009

岩手県二戸市の川嶋氏所蔵文書のうち南部信直書状を含む14点は,現在巻子1巻に表装されている。これを表装順に列挙すると,以下の通りである。C 年欠 5月18日 南部信直書状D 年欠 5月29日 南部信直書状E 年欠 6月27日 南部信直書状F 年欠 7月12日 南部信直書状H 年欠 7月22日 南部信直書状 年欠 3月 1日 南部信直書状A 年欠 4月16日 南部信直書状B 年月日欠 南部信直書状断簡 年欠 6月 9日 南部利直黒印状 慶長 9年後 8月19日 南部利直黒印状 慶長14年10月11日 南部利直黒印状 元和 6年 5月 5日 南部利直一字書上 寛永 5年 3月 6日 南部利直黒印状G 天正19年 7月12日 親輔書状 上記のうち年代順にA~Hを付した8点は,天正19(1591)年9月に終熄した九戸一揆の最中に書かれたものである。宛先はすべて糠部郡九戸野田の領主野田政義であり,発給者はGが南部信直の腹心と思われる親輔なる人物で,他はすべて信直その人である。 九戸政実ら陸奥国糠部郡の領主たちによっておこされたこの一揆は,「郡中諸侍其外下々迄,京儀をきらい申内存候間」の文言によく表れているように,前年の奥羽仕置に対する百姓を含む広範な階層を巻きこんだ抵抗であり,葛西大崎一揆などと一連の,豊臣政権の全国統一に対する最後の抵抗であった。ただし糠部にあって豊臣政権を代表したのが三戸南部氏信直であり,一揆が九戸氏によって指導されたことが,この事件を一層複雑なものとしている。三戸と九戸の対立は,15世紀末以来一世紀にわたってこの地域で繰り広げられた領主間の戦国化の動きの,いわば到達点というべき性格をもっていたからである。 九戸一揆の過程で,信直は糖部郡内の多くの領主に自陣に加わるようあらゆる手だてを講じたはずである。次節で述べるように,少なく見積もっても数ヶ月間は一揆勢力が郡内を席巻したといってよい。その間諸領主に宛てられた信直書状は相当な量だったはずである。にもかかわらず,現在残されている郡内領主宛の三戸からの書状はA~Hの8点のみである。なぜこれ以外は残らなかったのか。さまざまな説明が可能だろう。三戸から九戸城へ,さらに盛岡城の建設という城下の移動も大きな要素かもしれない。近世盛岡藩過程でのある種の政治的な意図も十分考えられる。とはいえここでは,失われてしまった文書のことはさておいて,さしあたり,辛うじて残されたこの貴重な8点にこだわってみたい。 そもそもこれらは,1961年刊の『岩手県史』3巻に掲載されて以来周知の史料であり,その後刊行された中世陸奥北部をあつかう史料集にも繰り返し収録されてきたものである。しかし本稿ではあらためて原本調査に基づいて翻刻作業をおこない,そこから読みとれる九戸一揆の様相を検討してみたい。
著者
菅野 文夫 KANNO Fumio
出版者
岩手大学教育学部社会科教育科
雑誌
岩手大学文化論叢 (ISSN:09123571)
巻号頁・発行日
vol.7/8, pp.39-55, 2009-03-31

岩手県二戸市の川嶋氏所蔵文書のうち南部信直書状を含む14点は,現在巻子1巻に表装されている。これを表装順に列挙すると,以下の通りである。C 年欠 5月18日 南部信直書状D 年欠 5月29日 南部信直書状E 年欠 6月27日 南部信直書状F 年欠 7月12日 南部信直書状H 年欠 7月22日 南部信直書状 年欠 3月 1日 南部信直書状A 年欠 4月16日 南部信直書状B 年月日欠 南部信直書状断簡 年欠 6月 9日 南部利直黒印状 慶長 9年後 8月19日 南部利直黒印状 慶長14年10月11日 南部利直黒印状 元和 6年 5月 5日 南部利直一字書上 寛永 5年 3月 6日 南部利直黒印状G 天正19年 7月12日 親輔書状 上記のうち年代順にA~Hを付した8点は,天正19(1591)年9月に終熄した九戸一揆の最中に書かれたものである。宛先はすべて糠部郡九戸野田の領主野田政義であり,発給者はGが南部信直の腹心と思われる親輔なる人物で,他はすべて信直その人である。 九戸政実ら陸奥国糠部郡の領主たちによっておこされたこの一揆は,「郡中諸侍其外下々迄,京儀をきらい申内存候間」の文言によく表れているように,前年の奥羽仕置に対する百姓を含む広範な階層を巻きこんだ抵抗であり,葛西大崎一揆などと一連の,豊臣政権の全国統一に対する最後の抵抗であった。ただし糠部にあって豊臣政権を代表したのが三戸南部氏信直であり,一揆が九戸氏によって指導されたことが,この事件を一層複雑なものとしている。三戸と九戸の対立は,15世紀末以来一世紀にわたってこの地域で繰り広げられた領主間の戦国化の動きの,いわば到達点というべき性格をもっていたからである。 九戸一揆の過程で,信直は糖部郡内の多くの領主に自陣に加わるようあらゆる手だてを講じたはずである。次節で述べるように,少なく見積もっても数ヶ月間は一揆勢力が郡内を席巻したといってよい。その間諸領主に宛てられた信直書状は相当な量だったはずである。にもかかわらず,現在残されている郡内領主宛の三戸からの書状はA~Hの8点のみである。なぜこれ以外は残らなかったのか。さまざまな説明が可能だろう。三戸から九戸城へ,さらに盛岡城の建設という城下の移動も大きな要素かもしれない。近世盛岡藩過程でのある種の政治的な意図も十分考えられる。とはいえここでは,失われてしまった文書のことはさておいて,さしあたり,辛うじて残されたこの貴重な8点にこだわってみたい。 そもそもこれらは,1961年刊の『岩手県史』3巻に掲載されて以来周知の史料であり,その後刊行された中世陸奥北部をあつかう史料集にも繰り返し収録されてきたものである。しかし本稿ではあらためて原本調査に基づいて翻刻作業をおこない,そこから読みとれる九戸一揆の様相を検討してみたい。
著者
菅野 文夫 KANNO Fumio
出版者
岩手大学教育学部社会科教育科
雑誌
岩手大学文化論叢 (ISSN:09123571)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.139-149, 2002-03-31

天正末年に糠部郡を舞台にして起こった九戸一揆については,これまでも多くの研究が言及しているところであり,その性格もおおむね解明されている。しかしながら,この事件の全容を通史的に叙述した論攷は,1961年に刊行された『岩手県史』を除いては,ほとんど見あたらないといえよう。筆者は近年刊行された『二戸市史』で,この事件を時系列にしたがって論述する機会を得た。ただ,自治体史としてできるだけ平易で簡潔な叙述につとめたため,史料に即した論証という点で不十分な憾みがあった。本稿は,事件の性格を確認した上で,経過の細部にわたる検証を試みる。ただし紙幅の都合と筆者の力量不足により,一揆のはじまりと想定される天正18(1590) 年冬から,豊臣政権による軍事行動が本格化する直前の翌年6月までをとりあげることとしたい。
著者
佐藤 眞 SATO Makoto
出版者
岩手大学教育学部社会科教育科
雑誌
岩手大学文化論叢 (ISSN:09123571)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.107-111, 2009

学校から職業社会への移行パターンが大きく変容した現在,さまざまな角度から「若者と仕事」が論じられ,キャリア教育,フリーター・ニート論の隆盛はブームの感さえある。 「日雇い派遣」,「ネットカフェ難民(事実上のホームレス)」に象徴される,きわめて不安定な労働と生活を強いられている多くの若者たち。その実態がマスコミでも採り上げられ,「年越し派遣村」の報道が世論を喚起した。こうした失業・貧困をめぐる状況は若年層に限定された問題ではなく,すべての年齢階層にひろがる生活不安,深刻化するワーキングプア問題として,その実相が明らかになるにつれ,何らかの政策的対応をせまる諸運動が随所で形成されつつある。 小論は,いま「未曾有の危機」にあるとされる日本経済のもとで,不安定雇用の動態をスケッチするための基礎的作業を試みたものである。
著者
今野 日出晴 KONNO Hideharu
出版者
岩手大学教育学部社会科教育科
雑誌
岩手大学文化論叢 (ISSN:09123571)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.145-159, 2009

筑波大学附属高校の教壇に立って,日本史を教えていたころ,1989(平成元)年3月に告示された「高等学校学習指導要領」の「第1章 総則」の「第2款 各教科・科目の標準単位数等」に示された「その他の科目」の規定を拠り所にして,「東アジア史」を科目として設定できないかと同僚たちと話し合ったことがある。「東アジア史」とすることによって,世界史と日本史という枠組みとは別の構想で歴史を考えてみようということではあったが,いざ,具体化しようとすると,「東アジア史」の内容も方法も曖昧なままで,実施にうつすことはできなかった。 2004年10月23日,日本学術会議歴史学研究連絡委員会の主催によって,歴史教育シンポジウム「歴史教育における東アジア像-近現代を中心に-」が早稲田大学教育学部大会議室で開催された。目良誠二郎「日本の歴史教育・歴史教科書における東アジア像」,杉山文彦「中国歴史教科書における東アジア像」,田中正敬「韓国の歴史教科書における東アジア像」の三氏の報告があり,井口和起氏が「日・中・韓3国の東アジア史像を考える」として総括的な報告をおこなった。ここでの「東アジア」とは地理的にどこを指すのかという,一参加者からの質問に応答するかたちで,李成市氏は,いま議論すべきなのは地理的な領域としての「東アジア」ではなく,「主体的な歴史認識としての東アジア」であり,「自らの歴史認識を検証する場」としての「東アジア」ではないのかと,語気鋭く応答した。新しい思考が生まれてくるような〈トポス(場所)〉としての「東アジア」の意味づけに魅力を感じつつも,この用語が前提としている構図そのものを問題として前景化し,吟味することの難しさにたじろぐ思いがした。 2005年3月5日,歴史教育研究會・歴史學會・韓國歴史研究會の3学会共同の学術シンポジウム「日本の歴史教科書に対する韓・日両国の視角と共同対応方案」がソウル博物館で開催された。韓国からは,安秉佑(韓神大)・宋相憲(公州教育大)・朴星奇(河南高)の各氏が,日本からは,君島和彦氏と私が登壇して報告した。『新しい歴史教科書』の改訂版が検定審査中であったことから,私は,「新しい歴史教科書をつくる会」の会誌『史』や藤岡信勝・西尾幹二氏らの著作を用いながら,まだ見ることのできない改訂版の特徴を類推して批評した。質疑応答のときに,一人の老人が激昂した口調で発言した。通訳の方に訳してもらおうとすると,「俗語が多くて,わかりません」として申し訳なさそうに眼を伏せていた。その老人の口調と通訳の方の様子から,私と,そして日本人に対する非難であろうことは理解できた(会の終了後,日本の留学生から確かめることができた)。また,シンポジウムが終わったあと,テレビ局の取材をうけたが,インタビュアーは,今回の改訂によって歪曲が如何にひどくなったのかということを私に語らせようと幾度も尋ねてきた。しかし,先に述べたように,未だ検定審査中であり,白表紙本を見ることができない状況で不確かな発言をすることはできなかったし,何よりも,そのときの報告で指摘したように,公刊された著作や資料などからは,むしろ,「表現は『洗練』されて簡潔になり,客観性の高いものであるかのように装われ」るであろうと考えていた。そのためインタビュアーの望むような回答にはならなかった。そこには,自らが聴きたい声だけを聴きだそうとする作法があった。そして,日本に戻ってきてインターネットなどで眼にしたのが,公開前の白表紙本を流出させたとでもいうような事実無根の非難であった。事実を検証することもなく浴びせられる言葉の激しさに困惑した。私がこの報告の最後に紹介したのは,「日本人は韓国人の声を『他者の声』として傾聴し,韓国人は日本人の声を『他者の声』として聴く」ことの重要性を述べた都正一氏の言葉であった。相互に「他者の声」に耳をすますことから始めるべきだという私のメッセージは,二つの国の激しいナショナリズムの立場から挟撃され,それぞれのポリティクスによって,受け入れられずに,宙づりにされたような感覚におそわれた。 「東アジア」や「東北アジア」(「北東アジア」とする議論もある),そして,それらのなかにある交流や対抗の歴史に向きあうということは,具体的な授業レベルから歴史研究のレベル,そして,激しい政治のレベルまでを含み込んで,考えなければならない難問に満ちている。それらの難問を解きほぐすために,その前提をつくるために,本稿では,まず,これまでの「歴史対話」「歴史教科書対話」とはどのようなものであったのか,代表的なものを簡略に紹介しながらその意義を明らかにしてみたい。そして,歴史科目としての「東アジア史」の可能性について検討するなかから,歴史教育と社会科歴史の交差するところを考えてみたい。
著者
今野 日出晴
出版者
岩手大学教育学部社会科教育科
雑誌
岩手大学文化論叢 = The report of social studies, the Faculty of Education, Iwate University (ISSN:09123571)
巻号頁・発行日
vol.7-8, pp.145-159, 2009-03-31

筑波大学附属高校の教壇に立って,日本史を教えていたころ,1989(平成元)年3月に告示された「高等学校学習指導要領」の「第1章 総則」の「第2款 各教科・科目の標準単位数等」に示された「その他の科目」の規定を拠り所にして,「東アジア史」を科目として設定できないかと同僚たちと話し合ったことがある。「東アジア史」とすることによって,世界史と日本史という枠組みとは別の構想で歴史を考えてみようということではあったが,いざ,具体化しようとすると,「東アジア史」の内容も方法も曖昧なままで,実施にうつすことはできなかった。 2004年10月23日,日本学術会議歴史学研究連絡委員会の主催によって,歴史教育シンポジウム「歴史教育における東アジア像-近現代を中心に-」が早稲田大学教育学部大会議室で開催された。目良誠二郎「日本の歴史教育・歴史教科書における東アジア像」,杉山文彦「中国歴史教科書における東アジア像」,田中正敬「韓国の歴史教科書における東アジア像」の三氏の報告があり,井口和起氏が「日・中・韓3国の東アジア史像を考える」として総括的な報告をおこなった。ここでの「東アジア」とは地理的にどこを指すのかという,一参加者からの質問に応答するかたちで,李成市氏は,いま議論すべきなのは地理的な領域としての「東アジア」ではなく,「主体的な歴史認識としての東アジア」であり,「自らの歴史認識を検証する場」としての「東アジア」ではないのかと,語気鋭く応答した。新しい思考が生まれてくるような〈トポス(場所)〉としての「東アジア」の意味づけに魅力を感じつつも,この用語が前提としている構図そのものを問題として前景化し,吟味することの難しさにたじろぐ思いがした。 2005年3月5日,歴史教育研究會・歴史學會・韓國歴史研究會の3学会共同の学術シンポジウム「日本の歴史教科書に対する韓・日両国の視角と共同対応方案」がソウル博物館で開催された。韓国からは,安秉佑(韓神大)・宋相憲(公州教育大)・朴星奇(河南高)の各氏が,日本からは,君島和彦氏と私が登壇して報告した。『新しい歴史教科書』の改訂版が検定審査中であったことから,私は,「新しい歴史教科書をつくる会」の会誌『史』や藤岡信勝・西尾幹二氏らの著作を用いながら,まだ見ることのできない改訂版の特徴を類推して批評した。質疑応答のときに,一人の老人が激昂した口調で発言した。通訳の方に訳してもらおうとすると,「俗語が多くて,わかりません」として申し訳なさそうに眼を伏せていた。その老人の口調と通訳の方の様子から,私と,そして日本人に対する非難であろうことは理解できた(会の終了後,日本の留学生から確かめることができた)。また,シンポジウムが終わったあと,テレビ局の取材をうけたが,インタビュアーは,今回の改訂によって歪曲が如何にひどくなったのかということを私に語らせようと幾度も尋ねてきた。しかし,先に述べたように,未だ検定審査中であり,白表紙本を見ることができない状況で不確かな発言をすることはできなかったし,何よりも,そのときの報告で指摘したように,公刊された著作や資料などからは,むしろ,「表現は『洗練』されて簡潔になり,客観性の高いものであるかのように装われ」るであろうと考えていた。そのためインタビュアーの望むような回答にはならなかった。そこには,自らが聴きたい声だけを聴きだそうとする作法があった。そして,日本に戻ってきてインターネットなどで眼にしたのが,公開前の白表紙本を流出させたとでもいうような事実無根の非難であった。事実を検証することもなく浴びせられる言葉の激しさに困惑した。私がこの報告の最後に紹介したのは,「日本人は韓国人の声を『他者の声』として傾聴し,韓国人は日本人の声を『他者の声』として聴く」ことの重要性を述べた都正一氏の言葉であった。相互に「他者の声」に耳をすますことから始めるべきだという私のメッセージは,二つの国の激しいナショナリズムの立場から挟撃され,それぞれのポリティクスによって,受け入れられずに,宙づりにされたような感覚におそわれた。 「東アジア」や「東北アジア」(「北東アジア」とする議論もある),そして,それらのなかにある交流や対抗の歴史に向きあうということは,具体的な授業レベルから歴史研究のレベル,そして,激しい政治のレベルまでを含み込んで,考えなければならない難問に満ちている。それらの難問を解きほぐすために,その前提をつくるために,本稿では,まず,これまでの「歴史対話」「歴史教科書対話」とはどのようなものであったのか,代表的なものを簡略に紹介しながらその意義を明らかにしてみたい。そして,歴史科目としての「東アジア史」の可能性について検討するなかから,歴史教育と社会科歴史の交差するところを考えてみたい。
著者
佐藤 眞 SATO Makoto
出版者
岩手大学教育学部社会科教育科
雑誌
岩手大学文化論叢 (ISSN:09123571)
巻号頁・発行日
vol.7/8, pp.107-111, 2009-03-31

学校から職業社会への移行パターンが大きく変容した現在,さまざまな角度から「若者と仕事」が論じられ,キャリア教育,フリーター・ニート論の隆盛はブームの感さえある。 「日雇い派遣」,「ネットカフェ難民(事実上のホームレス)」に象徴される,きわめて不安定な労働と生活を強いられている多くの若者たち。その実態がマスコミでも採り上げられ,「年越し派遣村」の報道が世論を喚起した。こうした失業・貧困をめぐる状況は若年層に限定された問題ではなく,すべての年齢階層にひろがる生活不安,深刻化するワーキングプア問題として,その実相が明らかになるにつれ,何らかの政策的対応をせまる諸運動が随所で形成されつつある。 小論は,いま「未曾有の危機」にあるとされる日本経済のもとで,不安定雇用の動態をスケッチするための基礎的作業を試みたものである。
著者
遠藤 匡俊 ENDO Masatoshi
出版者
岩手大学教育学部社会科教育科
雑誌
岩手大学文化論叢 (ISSN:09123571)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.75-91, 2009

明治期以前のアイヌの生活を知るうえでは,文字で記された史料,絵図,地図など様々な種類の歴史的史料が有効である。アイヌの人々に遵守されていた「すでに死亡した人や近所に生きている人と同じ名前を付けない」という命名規則,あるいは集落,家族構成などの研究において,必要不可欠な史料として人別帳があげられる。人別帳には、一人ひとりの名前,年齢,続柄等が家という単位で記されているだけでなく,複数の家が含まれる集落,さらには複数の集落が含まれる場所の各単位で記されている。アイヌの人別帳は,1800年代中期のものは蝦夷地のなかでも多くの地域に関するものが多数残存しているが,1800年代初期のものになると残存するものはかなり限られており,1800(寛政12)年の択捉(エトロフ)場所,1803(享和3)年の厚岸(アッケシ)場所,1812(文化9)年の静内(シズナイ)場所,1822(文政5)年の高島(タカシマ)場所,1828(文政11)年の北蝦夷地東浦(南カラフト東海岸)などの少数の地域の史料が知られているにすぎない。 北海道江別市の北海道立図書館北方資料室には,1825(文政8)年の「フルウ場所土人人別改」という史料が所蔵・保管されている。この史料は,文政8年の西蝦夷地古宇(フルウ)場所におけるアイヌの人別帳の写本である。これは原稿用紙にペン書きで記された写本であり,「フルウ場所土人人別改」の原本は文政8年6月に作成されたものと判断されるが,その後かなりの時間が経過して明治期以降になってから筆写されたものと考えられる。原本の所在はまだ明らかではないものの,残存する1800年代初期のアイヌの人別帳は非常に数少なく,当時のアイヌの生活を知るうえで貴重な史料であると考えられる。 1800年代初期のアイヌの社会構造の特徴として,厚岸場所や択捉場所周辺地域の研究によって,多数の家来や妻妾を持つ有力者の存在が挙げられてきた(高倉,1940;川上,1986;菊池,1991;海保,1992;岩崎,1994)。一方,択捉場所,厚岸場所,静内場所,高島場所,北蝦夷地東浦の研究によって,1800年代初期のアイヌの社会構造の特徴として同居者の存在があげられ(遠藤,2004a),「すでに死亡した人や近所に生きている人と同じ名前を付けない」という命名規則が存在しその空間的適用範囲はかなり広い地域にまで及んでいたことが示されている(遠藤,2004a)。古宇場所の事例は,1800年代初期のアイヌの社会構造や命名規則の空間的適用範囲のなかで,どのように位置付けられるのであろうか。 本研究の目的は,「フルウ場所土人人別改」を用いて,1825(文政8)年の古宇場所におけるアイヌの家構成員の人口構成を復元し,「近所に生きている人と同じ名前を付けない」という命名規則の空間的適用範囲を明らかにすることである。そして文政8年の古宇場所のアイヌの家と命名規則の実態を,既に公表した1800年代初期の5地域(寛政12年の択捉場所,享和3年の厚岸場所,文化9年の静内場所,文政5年の高島場所,文政11年の北蝦夷地東浦)の実態(遠藤,2004a)と比較して考察することである。