著者
百瀬 響 遠藤 匡俊
出版者
北海道教育大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2019-04-01

本研究は、平成25~28年度科研費(挑戦的萌芽研究)「北海道・東北を中心とする北方交易圏の理論的枠組み構築のための総合的研究」(研究代表者 百瀬響、課題番号25580150)での成果を発展させ、東北・北海道の日本海沿岸地域(石狩・余市地方)・樺太における「北方交易圏」の交流の実像を通時的に明らかにする。近世から近代を通じ、東北-樺太-北海道日本海沿岸地域に存在した交易圏と婚姻圏に関して、各地域の博物館・アイヌ系住民らと連携し、物質文化・古文書・オーラルヒストリー等の史資料から、地理学・歴史学・文化人類学等諸分野の手法を用い、かつてこれらの地域に存在した交易・婚姻圏の実態を探る。
著者
遠藤 匡俊
出版者
東北地理学会
雑誌
季刊地理学 (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.61, no.1, pp.19-37, 2009 (Released:2011-12-08)
参考文献数
55
被引用文献数
2

集団の空間的流動性は,おもに移動性の高い狩猟採集社会で確認されてきたが,移動性の程度と集団の空間的流動性の程度の関係が必ずしも明確ではなかった。本研究では,定住性が高いアイヌを事例に,定住性の程度と流動性の程度の関係を分析した。1856∼1869年の東蝦夷地三石場所におけるアイヌの27集落を対象として集落の存続期間を求めた結果,最低1年間,最高14年間,平均4.4年間であった。全期間中に消滅した集落は18,新たに形成された集落は14,そして14年間ずっと存続し続けた集落は3であった。分裂の流動性が高い集落(S<0.82)および結合の流動性が高い集落(J<0.79)は,いずれも集落の存続期間の長さには関わりなく多くみられた。このように,集落の空間的流動性の程度は集落の存続期間の長さとは関係しなかった。消滅した集落の分裂の流動性は存続し続けた集落よりも低く,新たに形成された集落の結合の流動性も存続し続けた集落よりも流動性が高いという傾向はとくに認められなかった。この結果は,アイヌのように移動性の低い狩猟採集社会だけでなく,移動性の高い狩猟採集社会においても,移動性の程度と流動性の程度はあまり関係がなかったことを示唆する。
著者
遠藤 匡俊
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.85, no.3, pp.236-258, 2012-05-01 (Released:2017-10-07)
参考文献数
55

幕府は二度にわたり蝦夷地を直轄地として,アイヌの人々の文化を和人風に変えようとした.この同化政策によるアイヌ文化の変容過程については,あまり知られていない.本研究では1799~1801(寛政11~享和元)年のエトロフ島におけるアイヌの和名化と風俗改変の空間的・社会的拡散過程を復元した.1799年にシャナ集落で始まった文化変容の中で,和名化は1800年に,風俗改変は1801年にほぼエトロフ島全体に広がった.1801年に会所や番小屋が設置された集落とその周辺地域では和名化率と風俗改変率はより高く,ロシアとの境界に接するエトロフ島北部では低かった.1800年に和名化したのは主に10歳以下の子供であり,1801年に和名化・風俗改変したのは主に16歳以上の青壮年であった.和名化と風俗改変が生じるかどうかにおいては有力者の動向が下男・下女に影響力をもっていた.
著者
遠藤 匡俊 土井 宣夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.86, no.6, pp.505-521, 2013-11-01 (Released:2017-12-08)
参考文献数
77

1822(文政5)年の有珠山噴火の火砕流・火砕サージにより南麓のアブタ集落が被災したが,死亡者数は明確ではなかった.本研究では,史料を用いて災害の発生過程および被災状況の詳細を復元することで,アイヌの死亡者数を確定し,アブタ集落のアイヌの居住者数と災害時の滞在者数を明らかにした.滞在者数に対する死亡率は非常に高く,火砕流・火砕サージに遭遇した際には生存の可能性が低いことを示した.一方,居住者数に対する死亡率は低かった.当時のアブタ集落は和人の社会経済活動に深く組み込まれた強制部落(強制コタン)として知られてきたが,10月から翌年3月ころにかけて行われていた季節的移動は主体的・自律的な行動であった可能性が高い.被災を免れたのは,多くのアイヌの人々が自らの食糧となるサケ(鮭)を漁獲するためにシリベツ川上流域へ季節的移動をしており不在であったことが一因という解釈を提示した.
著者
遠藤 匡俊
出版者
東北地理学会
雑誌
季刊地理学 (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.66, no.3, pp.155-175, 2015 (Released:2015-08-01)
参考文献数
68
被引用文献数
1

1822(文政5)年の有珠山噴火によって火砕流・火砕サージが発生し,多数の人々が死亡した。しかし,具体的な死因や被災地点の噴火口からの距離と熱傷程度との関係は必ずしも明らかではなかった。本研究では,史料に記された被災者の熱傷に関する記述を用いて熱傷の深度,重症度,救命率などを推定した。推定にあたっては1991(平成3)年の雲仙普賢岳の噴火による被災例を参考にした。その結果,火砕流・火砕サージに遭遇して死亡した人々の熱傷の深度は,主にIII度熱傷(皮下熱傷)であった。熱傷の重症度は主に重症熱傷であり,現代であれば熱傷専門施設での入院加療を必要とされるほどであり,それでも救命率は30%以下のレベルに相当していた。死亡者の多くは顔面に強いIII度熱傷を負っており,高度の気道熱傷も生じていた可能性が高い。一方,火砕流・火砕サージに襲われてもすぐに海に逃れて生存した2名は,頭から首にかけてII度熱傷(真皮熱傷)を負った。これは軽症熱傷に相当し,現代の基準によれば外来通院でよい程度であった。被災地点が噴火口から遠くなるほど被災者の熱傷の程度はより弱くなる距離減衰性が見いだされた。
著者
遠藤 匡俊
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.19-39, 2004-01-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
57
被引用文献数
2 2

本研究の目的は,1800年代初期におけるアイヌの社会構造の一端を示し,命名規則の社会的・空間的適用範囲を明らかにすることである.1800年代初期の厚岸(アッケシ),択捉(エトロフ),静内(シズナイ),高島(タカシマ),北蝦夷地東浦(南カラフト東海岸)の5地域では,社会的に他人へ従属する人々が多く,そのほとんどは主人の家に同居していた.特に北蝦夷地東浦では人口の48.8%が同居者であり, 79.2%の家が同居者を含んでいた.居住者名を照合した結果,非親族を同居者として含みながらも同一家内に同名事例はなく,集落や多数の集落を内包する場所という空間的範囲でみても同名事例は非常に少なかった.つまり1800年代初期のアイヌ社会には命名規則が存在していた.さらに,対象とした5地域は互いにかなり離れており対象年次もそれぞれ3~28年間の違いがあるものの,5地域間で居住者名を照合すると同名事例は非常に少なかった.命名規則の空間的適用範囲は蝦夷地全域に及んでいた可能性がある.
著者
遠藤 匡俊
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理学評論 (ISSN:13479555)
巻号頁・発行日
vol.79, no.11, pp.547-565, 2006-10-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
56
被引用文献数
1 1

狩猟採集社会の集落でみられる集団の空間的流動性には,紛争処理機能が備わっていると考えられてきた.本研究では,1856~1869(安政3~明治2)年の東蝦夷地三石場所におけるアイヌを対象として,集団の空間的流動性の程度を測定し,流動性の機能を集落内居住者間の血縁親族関係の維持という側面から検討した.その結果,集団の空間的流動性は分裂の流動性と結合の流動性に二分された.後者では流動性が高くとも分裂してこなかった家を含む集落が多く,集団の流動性は紛争処理理論のみでは説明できないことがわかった.集落の構成が流動的に変化していたにもかかわらず,集落内の家と家は親子,兄弟姉妹関係にあることが多く,つねに血縁親族関係を主体として集落が形成されていた.集団の空間的流動性には,同じ家で暮らした親子,兄弟姉妹が結婚を契機に居住集落を異にした後になっても,それぞれが移動することによって再び同じ集落で暮らそうとする,いわば血縁共住機能が備わっていると考えられる.
著者
遠藤 匡俊
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.74, no.11, pp.601-620, 2001-11-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
58
被引用文献数
1 1

文字を持たないアイヌ社会において,近所に生きている人やすでに死亡した人と同じ名を付けないという 個人名の命名規則が,どの程度の空間的範囲に生活する人々に適用されていたのかは,これまで不明であっ た.アイヌ名の命名には,出生後初めての命名と改名による新たな命名があり,いずれもアイヌ固有の文化 であったと考えられる.アイヌ名の改名は根室場所,紋別場所,静内場所,三石場所,高島場所,樺太(サ ハリン)南西部,鵜城で確認された.中でもアイヌ名の改名が最も多く生じていたのは,根室場所であった. 根室場所におけるアイヌ名の改名は,結婚や死と関わって生じた事例が多かった.改名による新たな命名が 多く生じていたにもかかわらず,同じ名を付けないという個人名の命名規則は, 1848~1858 (嘉永1~安政5) 年の根室場所においては,集落単位のみならず根室場所全域でほぼ遵守されていた.根室場所は,アイ ヌの風俗の改変率が高いことから和人文化への文化変容が進んだ地域とみなされるが,アイヌ名の命名規則 に関する限り,アイヌ文化は受け継がれていたと考えられる.
著者
遠藤 匡俊
出版者
公益社団法人 東京地学協会
雑誌
地学雑誌 (ISSN:0022135X)
巻号頁・発行日
vol.129, no.5, pp.611-634, 2020-10-25 (Released:2020-11-13)
参考文献数
63

Natural phenomena such as volcanic eruptions, earthquakes, and tsunami, have long been regarded by many people around the world as indicating the wills of deities. Such superstitions have been replaced gradually by modern scientific thinking. The Ainu people believed that evil deities caused volcanic eruptions, so they prayed to benevolent deities in order to avert them. As such, the Ainu people had superstitious beliefs on the causes of volcanic eruptions and how they could be prevented. In spite of their superstitious beliefs, the Ainu people actually had scientifically accurate ideas on the process of a volcanic eruption, the origins of material ejected from a crater, and the process of lava dome formation. This was long before scientific conception of volcanology and the geomorphology of volcanoes emerged in Japan. Modern science was introduced to Japanese volcanology and the geomorphology of volcanoes in the 1890s. Around the 1791, the Ainu people, who were neither scientists nor specialists, surmised that a volcanic eruption was actually caused by burning material under ground rising up from a crater through a fire well to the surface. The Ainu people's deductions on the process of a volcanic eruption were similar to the latest theories on magma eruptions in volcanology. The Ainu people's course of action of seeking refuge when Mt. Usu erupted was not based on superstition but on their memories of past eruptions. These memories informed them that a series of earthquakes heralded an eruption, as well as the facts that damage to areas by eruptions and their personal sufferings were actually due to pyroclastic flows and surges from past eruptions of Mt. Usu.
著者
遠藤 匡俊 張 政 ENDO Masatoshi ZHAN Zheng
出版者
東北地理学会
雑誌
季刊地理学 (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.17-27, 2011-03-01

世界の狩猟採集社会の特徴の一つとして集団の空間的流動性があげられる。これまで複数の異なる民族を対象として流動性の程度を比較した研究例はほとんどみられなかった。本研究の目的は,アイヌとオロチョンを例に,集団の空間的流動性の程度を比較することである。分析の結果,以下のことが明らかとなった。集落共住率(U)を算出した結果,同一集落内に定住する傾向が強く集落を構成する家があまり変化しなかった紋別場所のアイヌでは,集落共住率(U)が0.9∼1.0である家の総家数に占める割合は73%ほどであった。一方,多くの家が集落間で移動する傾向が強く集落構成が流動的に変化していた三石場所のアイヌでは,集落共住率(U)が0.9∼1.0である家の総家数に占める割合は43%ほどであった。三石場所のアイヌと同様に,集落構成が流動的に変化していたオロチョンでは,集落共住率(U)が0.9∼1.0である家の総家数に占める割合は25%とさらに低く,0.1∼0.2の家は33.3%,0.3∼0.4の家は25%であった。13年間における集落共住率(U)の経年変化をみると,オロチョンの値は常に0.11∼0.33であり,三石場所のアイヌよりも下回っていた。アイヌの事例を1戸ずつ検討しても,集落共住率(U)の値が常に0.4未満であるような事例は1例もなかった。アイヌ社会のなかでも三石場所のアイヌ集落においては集団の空間的流動性が大きかったが,オロチョンの一家の場合にはさらに流動性が高かった可能性がある。Membership within a residential group was not stable in hunter-gatherer societies, such as those of the San (Bushman), Mbuti Pygmy, Hadza, Hare Indian, Inuit, Orochon, and Ainu. So far the differences of the degree of fluid residential groupings among hunter-gatherers have not been revealed well. The purpose of this study was to measure the degree of fluid residential groupings of settlement dwellers between the Ainu and Orochon by making use of a co-residing ratio (U), and to consider the backgrounds of their differences.The numerical value of the co-residing ratio (Ui) of the household i was calculated as follows:Ui=mi / MiMi:the number of households that resided with household i at the same settlement in one year and also resided at any settlement after a given number of years. Mi≥1.mi:the number of households that resided with household i at the same settlement in one year and also resided with household i at any settlement after a given number of years, including household i.The numerical value of the degree of the co-residing ratio (U) per household was within the range of 0 to 1. When the degree of the co-residing ratio (U) increases from 0 to 1, the fluidity of residential groupings of settlement becomes lower.When we focused on the 74 Ainu households that resided at any settlements in 1856, 1862, and 1868 in the Monbetsu district, a given number of years of the co-residing ratio(U) was six years for each time frame 1856-1862 and 1862-1868. The co-residing ratio (U) was 0.9~1.0 in about 73% of 144 households. Samely when we focused on the 46 Ainu households that resided at any settlements in 1856, 1858, 1864, 1865, 1868, and 1869 in the Mitsuishi district, a given number of years of the co-residing ratio (U) was two years, six years, one year, three years, and one year for each time frame. The co-residing ratio (U) was 0.9~1.0 in about 43% of 230 households. On the other hand, when we focused on one Orochon household in 1910, 1925, 1928, 1932, 1935, 1938, 1945, 1947, and 1957, one Orochon household in 1900, 1920, 1921, and 1931, and one Orochon household in 1908 and 1913, the co-residing ratio (U) was 0.9~1.0 in only about 25% of 12 households. In the Orochon households 33.3% of 12 households showed 0.1~0.2 degree of the co-residing ratio (U).Next, when we focused on the 46 Ainu households that resided at any settlements in all time frames 1856, 1858, 1864, 1865, 1868, and 1869 in the Mitsuishi district, and one Orochon household that resided at any settlement in all time frames 1925, 1928, 1932, 1935, and 1938, the numerical value of the co-residing ratio (U) of Orochon was lower than that of the Ainu in the Mitsuishi district during almost all thirteen years.Therefore it is postulated that the degree of fluid residential groupings of settlement dwellers was higher in the Orochon than in the Ainu, and was higher in the Mitsuishi district than in the Monbetsu district. And also it is estimated that the Orochon settlement was formed mainly by moved households and the Ainu settlements in the Mitsuishi district were formed by moved households and stayed households, and the Ainu settlements in the Monbetsu district were formed mainly by stayed households.
著者
遠藤 匡俊
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.60, no.5, pp.287-300, 1987-05-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
11
被引用文献数
1

江戸時代におけるアイヌの移動形態は,ほぼ一定の本拠地からの季節的移動と理解されてきた.これは,集落の位置および集落の構成家が一定していたことを意味する.しかしながら,安政3 (1856) 年から明治2 (1869) 年にかけての三石場所では,集落の位置が変化し,しかも集落の構成家は流動的に変化していた.このような流動的集団が形成されるメカニズムを親族関係から分析した. その結果,集落間居住地移動の行先には,多くの場合,親,子,兄弟姉妹等の親族が各々の家族と共に既に居住していたことが判明した.すなわち,婚姻等によって居住集落を異にしていた親族(親子,兄弟姉妹)が,再び同じ集落に共住するように,各々の新たな家族と共に居住地を移していたのである.集落間居住地移動によって集落の構成家は流動的に変化していたが,集落内の家と家の成員は密接な親族関係で結ぼれていたということになる.
著者
遠藤 匡俊
出版者
岩手大学教育学部
雑誌
岩手大学教育学部研究年報 (ISSN:03677370)
巻号頁・発行日
vol.62, pp.175-184, 2003-02-01
著者
遠藤 匡俊
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Ser. A (ISSN:00167444)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.79-100, 1994-02-01 (Released:2008-12-25)
参考文献数
53
被引用文献数
2

漁携・狩猟・採集生活をしていたアイヌが和人の影響を受けるようになった段階で,家の構成員が流動的に変化していた現象が確認されている.しかし,家の構成員が流動的に変化する原因とメカニズムは不明であった.天保5 (1834) ~明治4 (1871) 年の高島アイヌでは,多くの家が高島場所内にとどまっていたが,家単位の居住者を追跡した結果,個人の家間移動が激しく,家の構成員は流動的に変化していた.家間移動回数を比較すると,家構成員が流動的に変化していた高島・紋別場所では2回以上の移動者が多く,家構成員が固定的であった静内場所と樺太南西部ではほとんどが1回であった.すなわち,家構成員の流動性はおもに2回以上の移動者によって惹き起こされていた.高島アイヌで個人の家間移動が激しく生じたおもな原因は,高い死亡率と離婚である.とくに配偶者との死別・離別によって,親子・兄弟姉妹の居住する家へ移動したり,再婚のたあに他家へ移動するために2回以上の移動が生じ,家構成員は流動的に変化していた.家構成員の流動性は,必ずしも狩猟・採集という生業形態や遊動性とはかかわりなく生じていた.
著者
遠藤 匡俊 ENDO Masatoshi
出版者
歴史地理学会
雑誌
歴史地理学
巻号頁・発行日
vol.44, no.1, pp.48-59, 2002-01-01
著者
遠藤 匡俊
出版者
東北地理学会
雑誌
季刊地理学 (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.63, no.2, pp.85-106, 2012 (Released:2012-10-25)
参考文献数
48

定住性が高い狩猟採集社会である1864∼1869(元治元∼明治2)年の東蝦夷地三石場所のアイヌ集落を対象として,定住性の程度と集落の血縁率の関係を分析した。その結果,「集落の存続期間が長くなると血縁率は低くなる」という傾向はとくに認められなかった。また「家の同一集落内滞在期間が長くなると血縁率は低くなる」という傾向もとくに認められなかった。集団の空間的流動性の程度と集落の血縁率の関係を分析した結果,分裂・結合の流動性の程度と集落の血縁率の間にもとくに関係はなかった。これは集団の空間的流動性が,移動する家のみで形成されるのではなく,集落内に定住する家と移動する家の組み合わせで生じており,集団の空間的流動性には血縁共住機能があり集落の血縁率が維持されているためと考えられる。集落の血縁率の変動率(絶対値)は平均24.9%と大きく,その変動は主に集団の空間的流動性に起因していた。多くの場合に集落の血縁率は50%以上に保たれており,血縁率は平均73.6%である。この結果は,三石場所のアイヌ集落においては,移動性(あるいは定住性)の程度に関わりなく,集団の空間的流動性によって集落の血縁率は低下しない可能性,つまり国家という枠組みのなかに組み込まれながらも「血縁から地縁へ」という変化は生じない可能性があることを示唆する。
著者
遠藤 匡俊 張 政
出版者
東北地理学会
雑誌
季刊地理学 = Quarterly journal of geography (ISSN:09167889)
巻号頁・発行日
vol.63, no.1, pp.17-27, 2011-03-01
参考文献数
42

世界の狩猟採集社会の特徴の一つとして集団の空間的流動性があげられる。これまで複数の異なる民族を対象として流動性の程度を比較した研究例はほとんどみられなかった。本研究の目的は,アイヌとオロチョンを例に,集団の空間的流動性の程度を比較することである。分析の結果,以下のことが明らかとなった。集落共住率(<i>U</i>)を算出した結果,同一集落内に定住する傾向が強く集落を構成する家があまり変化しなかった紋別場所のアイヌでは,集落共住率(<i>U</i>)が0.9&sim;1.0である家の総家数に占める割合は73%ほどであった。一方,多くの家が集落間で移動する傾向が強く集落構成が流動的に変化していた三石場所のアイヌでは,集落共住率(<i>U</i>)が0.9&sim;1.0である家の総家数に占める割合は43%ほどであった。三石場所のアイヌと同様に,集落構成が流動的に変化していたオロチョンでは,集落共住率(<i>U</i>)が0.9&sim;1.0である家の総家数に占める割合は25%とさらに低く,0.1&sim;0.2の家は33.3%,0.3&sim;0.4の家は25%であった。13年間における集落共住率(<i>U</i>)の経年変化をみると,オロチョンの値は常に0.11&sim;0.33であり,三石場所のアイヌよりも下回っていた。アイヌの事例を1戸ずつ検討しても,集落共住率(<i>U</i>)の値が常に0.4未満であるような事例は1例もなかった。アイヌ社会のなかでも三石場所のアイヌ集落においては集団の空間的流動性が大きかったが,オロチョンの一家の場合にはさらに流動性が高かった可能性がある。
著者
遠藤 匡俊 ENDO Masatoshi
出版者
岩手大学教育学部社会科教育科
雑誌
岩手大学文化論叢 (ISSN:09123571)
巻号頁・発行日
vol.7, pp.75-91, 2009

明治期以前のアイヌの生活を知るうえでは,文字で記された史料,絵図,地図など様々な種類の歴史的史料が有効である。アイヌの人々に遵守されていた「すでに死亡した人や近所に生きている人と同じ名前を付けない」という命名規則,あるいは集落,家族構成などの研究において,必要不可欠な史料として人別帳があげられる。人別帳には、一人ひとりの名前,年齢,続柄等が家という単位で記されているだけでなく,複数の家が含まれる集落,さらには複数の集落が含まれる場所の各単位で記されている。アイヌの人別帳は,1800年代中期のものは蝦夷地のなかでも多くの地域に関するものが多数残存しているが,1800年代初期のものになると残存するものはかなり限られており,1800(寛政12)年の択捉(エトロフ)場所,1803(享和3)年の厚岸(アッケシ)場所,1812(文化9)年の静内(シズナイ)場所,1822(文政5)年の高島(タカシマ)場所,1828(文政11)年の北蝦夷地東浦(南カラフト東海岸)などの少数の地域の史料が知られているにすぎない。 北海道江別市の北海道立図書館北方資料室には,1825(文政8)年の「フルウ場所土人人別改」という史料が所蔵・保管されている。この史料は,文政8年の西蝦夷地古宇(フルウ)場所におけるアイヌの人別帳の写本である。これは原稿用紙にペン書きで記された写本であり,「フルウ場所土人人別改」の原本は文政8年6月に作成されたものと判断されるが,その後かなりの時間が経過して明治期以降になってから筆写されたものと考えられる。原本の所在はまだ明らかではないものの,残存する1800年代初期のアイヌの人別帳は非常に数少なく,当時のアイヌの生活を知るうえで貴重な史料であると考えられる。 1800年代初期のアイヌの社会構造の特徴として,厚岸場所や択捉場所周辺地域の研究によって,多数の家来や妻妾を持つ有力者の存在が挙げられてきた(高倉,1940;川上,1986;菊池,1991;海保,1992;岩崎,1994)。一方,択捉場所,厚岸場所,静内場所,高島場所,北蝦夷地東浦の研究によって,1800年代初期のアイヌの社会構造の特徴として同居者の存在があげられ(遠藤,2004a),「すでに死亡した人や近所に生きている人と同じ名前を付けない」という命名規則が存在しその空間的適用範囲はかなり広い地域にまで及んでいたことが示されている(遠藤,2004a)。古宇場所の事例は,1800年代初期のアイヌの社会構造や命名規則の空間的適用範囲のなかで,どのように位置付けられるのであろうか。 本研究の目的は,「フルウ場所土人人別改」を用いて,1825(文政8)年の古宇場所におけるアイヌの家構成員の人口構成を復元し,「近所に生きている人と同じ名前を付けない」という命名規則の空間的適用範囲を明らかにすることである。そして文政8年の古宇場所のアイヌの家と命名規則の実態を,既に公表した1800年代初期の5地域(寛政12年の択捉場所,享和3年の厚岸場所,文化9年の静内場所,文政5年の高島場所,文政11年の北蝦夷地東浦)の実態(遠藤,2004a)と比較して考察することである。