著者
大竹 尚之
出版者
東京音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02861518)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.49-72, 1999-12-20
著者
下道 郁子
出版者
東京音楽大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

旧制第一高等学校の寮歌の研究を通して、戦前の日本人の音楽的感性が変化し、洋楽スタイルを指向したこと、また西洋音楽の受容と理論の学習が、これらの変化を進める要因となったことが考察された。そして教養教育による人間教育という教育理念の旧制高等学校においては、学友会や運動部による対抗試合等の課外活動が活発であり、この活動が寮歌という、音楽的にも社会的にも価値ある文化遺産を生み出したことが理解された。
著者
岡部 英男
出版者
東京音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02861518)
巻号頁・発行日
vol.17, pp.1-18, 1993-12-20
著者
武石 みどり
出版者
東京音楽大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2000

伊藤道郎が1916年4月にイェーツの舞踊劇『鷹の井戸』に出演した背景には、その前段階として、ロンドンの芸術家達との出会いと共同制作があった。1915年5月にコロシアム劇場で日本的舞踊を披露したことが、一方ではホルストによる『日本組曲』の作曲へと結びつき、また他方ではパウンド、イェーツ、リケッツ、デュラック、コバーンといった芸術家達との出会いへ結びついたのである。前者は二人の共同制作ではなく、伊藤が提供した旋律によりホルストが独自に管弦楽曲を作曲した。伊藤は『日本組曲』の完成を知らなかったものと思われる。後者の芸術家達は特に日本の浮世絵や能に大きな関心を抱き、伊藤から日本の芸術を学ぼうとし、反対に伊藤は、彼等の関心に刺激されて日本の芸術を新しい目で捉えるようになった。1915年秋から1916年初頭にかけて、伊藤はリケッツとデュラックが作った日本的衣裳で日本の伝統芸能の主題を強く意識した舞踊を踊り、1916年8月にニューヨークに移ったのちも、この日本的舞踊が伊藤の基本レパートリーとなった。日本的舞踊の伴奏音楽については不明な部分が多い。しかし、「狐の踊り」の音楽の原型は、おそらく『日本組曲』の終曲に近いものであったと推測される。ニューヨークでも、1917年以降は伴奏に積極的に日本旋律を用いた。能に対する興味はアメリカでも大きく、1918年に『鷹の井戸』を再演したほか、『田村』を英語版で上演、その後も幾つかの能と狂言を英語で上演した。『鷹の井戸』のニューヨーク再演では山田耕筰の音楽が用いられたが、現存するピアノ版楽譜が実際にはどのような編成で演奏されたのか、不明な部分も多い。能の英訳上演に関しても、謡と伴奏楽器が実際にどのようなものであったのか、今後さらなる追究を要する。1920年代前半を境に、能と狂言の要素が伊藤のレパートリーから排除されていった理由も今後の検討課題である。