著者
武石 みどり
雑誌
研究紀要
巻号頁・発行日
vol.33, pp.1-21, 2009-12-10
著者
根岸 一美 渡辺 裕 武石 みどり 桑原 和美 井手口 彰典 坂本 秀子
出版者
同志社大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

1921年(大正10年)に宝塚少女歌劇において上演された新舞踊『春から秋へ』について、楳茂都陸平による舞踊譜の解読と原田潤による楽譜の演奏解釈を行い、この作品の復元上演を実現した。この活動を通じて、1)『春から秋へ』が舞踊的にも音楽的にも西洋の前衛性を備えた斬新な作品であったことを明らかにし、2)舞踊学、演劇学、音楽学、文化史学といった多様な視点からの宝塚歌劇研究の一つのモデルを提示することに成功した。
著者
五十殿 利治 井上 理恵 木下 直之 武石 みどり 梅宮 弘光 桑原 規子
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

本研究は、舞台美術という演劇と美術の境界領域に属するジャンルについて、検討するものであった。研究対象は研究者の専門領域の関係で、「近代」(概ね明治以降)と限定し、また舞台美術を視覚文化という視点から多角的に検討するために、美術と演劇の研究者ばかりでなく、音楽史や建築吏の専門家にも参加を求めて、検討を加えた。毎年3回ずつ開催された研究会においては、分担研究者ばかりでなく、専門家にも指導助言を仰いだおかげで、議論されたテーマはすこぶる多岐にわたるものとなった。その内容については、研究成果報告書に反映している。この研究成果報告書では、テーマが近代能、海外巡業演劇、劇場建築、舞台写真、舞踊、劇場音楽等にまで拡がっており、つぎにような論として結実している。伊藤真紀「日比谷野外能と舞台の松」、井上理恵「川上音二郎の『金色夜叉』初演と海外巡業」、梅宮弘光「川喜田煉七郎による劇場計画案の舞台機構とその時代背景」、五十殿利治「『機械美』時代における舞台と写真」、木下直之「日清戦争と原田重吉の奮闘」、木村理恵子「舞踊家アレクサンダー・サハロフの来日をめぐって」、京谷啓徳「山本方翠と活人画」、桑原規子「アーニー・パイル劇場をめぐる美術家たち」、武石みどり「山田耕作の初期劇中音楽」坂本麻衣(研究協力者)「川上音二郎の舞台改革」である。これらの議論は各研究者が研究会での意見交換を踏まえたものであり、今後さらに各ジャンルにおける舞台美術への理解を促進するとともに、舞台美術に関わる文化的な領域の多様性をつねに踏まえた研究を進めることが期待できる。
著者
武石 みどり
出版者
東京音楽大学
雑誌
東京音楽大学研究紀要 (ISSN:02861518)
巻号頁・発行日
vol.24, pp.35-60, 2000
著者
武石 みどり
雑誌
研究紀要
巻号頁・発行日
vol.24, pp.35-60, 2000-12-20
著者
武石 みどり
出版者
東京音楽大学
雑誌
研究紀要 (ISSN:02861518)
巻号頁・発行日
vol.28, pp.1-31, 2004-12-20
著者
武石 みどり
出版者
東京音楽大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2000

伊藤道郎が1916年4月にイェーツの舞踊劇『鷹の井戸』に出演した背景には、その前段階として、ロンドンの芸術家達との出会いと共同制作があった。1915年5月にコロシアム劇場で日本的舞踊を披露したことが、一方ではホルストによる『日本組曲』の作曲へと結びつき、また他方ではパウンド、イェーツ、リケッツ、デュラック、コバーンといった芸術家達との出会いへ結びついたのである。前者は二人の共同制作ではなく、伊藤が提供した旋律によりホルストが独自に管弦楽曲を作曲した。伊藤は『日本組曲』の完成を知らなかったものと思われる。後者の芸術家達は特に日本の浮世絵や能に大きな関心を抱き、伊藤から日本の芸術を学ぼうとし、反対に伊藤は、彼等の関心に刺激されて日本の芸術を新しい目で捉えるようになった。1915年秋から1916年初頭にかけて、伊藤はリケッツとデュラックが作った日本的衣裳で日本の伝統芸能の主題を強く意識した舞踊を踊り、1916年8月にニューヨークに移ったのちも、この日本的舞踊が伊藤の基本レパートリーとなった。日本的舞踊の伴奏音楽については不明な部分が多い。しかし、「狐の踊り」の音楽の原型は、おそらく『日本組曲』の終曲に近いものであったと推測される。ニューヨークでも、1917年以降は伴奏に積極的に日本旋律を用いた。能に対する興味はアメリカでも大きく、1918年に『鷹の井戸』を再演したほか、『田村』を英語版で上演、その後も幾つかの能と狂言を英語で上演した。『鷹の井戸』のニューヨーク再演では山田耕筰の音楽が用いられたが、現存するピアノ版楽譜が実際にはどのような編成で演奏されたのか、不明な部分も多い。能の英訳上演に関しても、謡と伴奏楽器が実際にどのようなものであったのか、今後さらなる追究を要する。1920年代前半を境に、能と狂言の要素が伊藤のレパートリーから排除されていった理由も今後の検討課題である。