- 著者
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法月 敏彦
- 出版者
- 玉川大学芸術学部
- 雑誌
- 芸術研究 : 玉川大学芸術学部研究紀要 (ISSN:18816517)
- 巻号頁・発行日
- no.7, pp.1-11, 2015
既刊研究書等によれば、明治期の演劇改良運動・演劇改良論とは、東京における演劇改良会に関する記述が大部分を占め、その演劇改良会について、例えば秋庭太郎は「自然と中止されて了つた」運動であったという。また、同時期の大阪における演劇改良に関しても、「東京のそれに刺戟されたものであつたことは言ふまでもない。」としている。 しかし、このような記述は、以下に述べる理由から、不十分かつ誤解が含まれていると考えられる。まず、当時、大阪に存在し、実態としては東京よりも早期に活動を開始し、「東京のそれに刺戟されたもの」ではない大阪演劇改良会への言及が少ない。また、主導であった東京の演劇改良会はほとんど失敗に終わったであろうが、官民協同の大阪の演劇改良会は角藤定憲らの若者を奮い立たせ、新しい演劇の発芽を準備したのであり、そういう事実に関する正しい評価がなされていないのである。 本稿では、従来、等閑視されることの多かった「大阪演劇改良会」に焦点をあてて、さらに、今まで史料として採り上げられることのなかったと考えられる大阪における主唱者の一人、丹羽純一郎訳述『英国龍動新繁昌記』(1878年刊)などを拠り所に、日本近代演劇史の実態を明らかにしたいと思う。