著者
菊地 暁 Kikuchi Akira
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書4 -第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 4 ―Ethnology and Cultural Anthropology during World War II and the Occupation―
巻号頁・発行日
pp.269-451, 2013-03-01

1943 年に国立研究機関として設置された民族研究所は、民族学・文化人類学の戦中と戦後を考える上で看過できない組織である。この研究所が孕む問題の一つに接収図書がある。日本軍によって中国大陸から接収された大量の図書が、研究所に運び込まれ、国策研究に活用されていたのだ。 松本剛(1993)、中生勝美(1997)、廣庭基介(2009)、鞆谷純一(2011)などの先行研究がその概要を明らかにしている。民族研究所は、海軍により接収された英国王立アジア協会上海支部、中山大学、南開大学などの蔵書を受け入れた後、東京大空襲による被災のため彦根に疎開、そのまま終戦を迎え、同年10 月に廃庁となる。彦根に残された蔵書は1946 年2 月に京都大学に移送、同年8 月、GHQ より民研旧蔵書に含まれる接収図書の調査依頼がなされ、1947 年4 月、神戸港にて中華民国代表に接収図書3 万冊余りを返還、これによって民研に関わる接収図書の戦後処理は一応完了する。 この結果、民研旧蔵書から接収図書を除いた残余が京大に残されることとなった。文学研究科図書館の特殊コレクション「民研本」と「米田文庫」、附属図書館の登録図書および未登録資料である。この悉皆調査を実施した結果、以下のことが分かった。①民研旧蔵書は必ずしも民族学・民族論に特化したものではなく、中国を中心に広く大東亜共栄圏に関わるさまざまなジャンルの図書・雑誌を含んでいる。②現存する民研旧蔵書は寄贈・購入本が大半で、接収図書と推定されるものは全体の1 パーセント程度であり、不注意な「返し忘れ」と推測される。③図書と同時に研究所の内部文書の断片が運び込まれており、研究所の活動を考える端緒となる。④民研旧蔵書の保管状況は、文学研究科と附属図書館、登録資料と未登録資料という具合に分かれたが、これは図書の内容による区分とは考えがたく、未完了な図書整理プロセスを反映していると考えられる。以上から、民研本は、20 世紀の激動とその未解決な「戦後」を物語る「生証人」といえそうである。
著者
末田 智樹 Sueta Tomoki
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書2 -日本列島周辺海域における水産史に関する総合的研究-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 2 -Integrated Research on the History of Marine Products in the Waters around the Japanese Archipelago-
巻号頁・発行日
pp.117-131, 2013-03-01

本稿では、近世中後期の西海捕鯨業地域における平戸藩生月島の益冨組の経営展開について分析することが目的である。具体的な分析内容と結論の概略は以下の通りである。 筆者は、益冨組が本格的に文政・天保期(1818 ~ 1843)以降、平戸藩領域よりも春鯨を多く捕獲することが可能であった大村・五島両藩の捕鯨漁場へ幕末期まで藩際経営を展開した点について明らかにした。その後、筆者は、神奈川大学日本常民文化研究所に所蔵されている『漁業制度資料 筆写稿本』所収の益冨治保家文書に含まれる重要な資料を翻刻する機会を得ることができた。そのなかで、益冨組が他領国における藩際捕鯨業へ転じる以前の宝暦・安永期(1751 ~ 1780)に平戸藩領域の有数な捕鯨漁場を掌握する過程を解明した。 今回も筆写稿本所収の益冨家文書を翻刻および活用し、益冨組が平戸藩領域を越えて他領国の捕鯨漁場において藩際経営の展開を開始した時期はいつ頃であり、生月島より南に位置する大村・五島両藩の捕鯨漁場以外に出漁した領国はなかったか、という点について解明することを目的とする。第1 に、天明8(1788)年の的山大島の冬浦と翌寛政元(1789)年の平戸島津吉の春浦における益冨組の運上銀史料を翻刻し、天明・寛政期(1781 ~ 1800)の平戸藩領域における益冨組の経営展開について分析した。第2 に、文化期(1804 ~ 1817)前半の益冨組による対馬藩の廻浦への出漁に関する史料を翻刻し、対馬藩における益冨組の藩際経営について分析を行い、次のことを明らかにすることができた。 益冨組は、天明期までに平戸藩領域の有数な冬・春両浦の捕鯨漁場を、平戸藩壱岐の土肥組とともに多額の運上を支払うかわりに獲得した。しかし、それらの捕鯨漁場の地域性から春浦では冬浦に比べて不漁となることが多々あった。そのために益冨組は、寛政期後半から文化期にかけて捕鯨漁場を大村・五島両藩の春浦のみならず、対馬藩の春浦へも拡大した。これは、益冨組が近世後期の西海捕鯨業地域における最大の巨大鯨組に成長し、独自の西海捕鯨業地域を形成することに繋がることであった。