著者
岩崎 正吾
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.69, no.2, pp.215-226,317_2, 2002

ペレストロイカ以降、教育分野へのグラースノスチの進展とともに、従来閉鎖されてきた多くの情報が開示されるようになった。マカーレンコについても、これまで知られなかった情報が明らかにされつつあり、活発な議論が展開されている。当論文は、これまで日本において、マカーレンコの教育実践を映画化したものとして紹介されてきた『人生案内』と『教育詩』及びマカーレンコとの関係について、最近明らかになってきた諸資料に基づき解明することを課題としている。これまで映画『人生案内』は、ア・エス・マカーレンコの教育実践、とりわけ、彼の著『教育詩』をモデルとして撮影されたものと見なされてきた。映画『人生案内』は、1931年にソビエト最初のトーキー映画として制作され、第1回ベネチア国際映画祭の監督賞を受賞した。この映画は、興行的にも成功し、1932年には日本でも上映された。この映画は、1920年代の法律違反児童や浮浪児の再教育をテーマとしていたこと、また、エフ・ジェルジンスキーを記念して制作されたことから、ア・エス・マカーレンコの教育実践と同一視された。映画では、法律違反児童や浮浪児がコムーナでの労働教育を通して再生されていく過程が生き生きと描かれており、この点でも、ア・エス・マカーレンコの『教育詩』における教育実践と二重写しとなった。この映画が、ア・エス・マカーレンコの教育実践と同一視された別の理由は、『教育詩』が英語やドイツ語で『人生案内』と翻訳されて出版されたことにあった。とりわけ、イギリスでは、『教育詩』の販売部数を増やすために、興行的に成功した映画『人生案内』の表題をつけて『教育詩』が出版された。また、ヘルマン・ノールをはじめとするドイツのマカーレンコ研究者達も、『人生案内』を『教育詩』と同一視していた。ソビエトだけでなく、ドイツを経由してマカーレンコ情報を入手していた日本では、これらの理由が重なり、『人生案内』と『教育詩』とが同一視された。『人生案内』と『教育詩』とが同一視されたもう一つの重要な理由は、映画のモデルとされたこのコムーナの創設者達が、スターリン体制下で粛清され、このコムーナについての情報が隠蔽されたことにあった。このコムーナの創設には、ゲ・ゲ・ヤゴーダとエム・ア・ポグレビンスキーが重要な役割を果たした。このコムーナはゲ・ゲ・ヤゴーダを記念してつくられたものであり、彼の下でエム・ア・ポグレビンスキーが総括責任者となり、エフ・ゲ・メリホフが所長となって、このコムーナが設置され、運営された。コムーナの正式名称は、「内務人民委員部付設ゲ・ゲ・ヤゴーダ記念ボルシェフ労働コムーナ」である。ボルシェフ・コムーナは、ポグレビンスキーの書いた2つの本、即ち『合同国家政治安部労働コムーナ』(1928年)と『人々の工場』(1929年)により、世間に知られるようになる。また、このコムーナをいっそう有名にしたは、エム・ゴーリキー編集のルポタージュ集『ボルシェフ人』(1936年)であった。彼はこのルポタージュ集の中で、このコムーナの活動と指導者としてのポグレビンスキーを高く評価した。しかしながら、スターリン体制の下で、1937年4月3日、ヤゴーダはゴーリキー等の毒殺嫌疑で逮捕され、1938年3月に銃殺さた。かっての上司が逮捕されたことを聞いたポグレビンスキーは、1937年4月4日に自殺する。このような一連の事件の後、雑誌『赤い処女地』(1937年7月、第7号)に、編集部による『ボルシェフ人』の書評が掲載された。この書評は、ボルシェフ・コムーナに関わるヤゴーダの事業とその活動を厳しく弾劾するものであった。これ以後、『ボルシェフ人』だけでなく、ポグレビンスキーの本も書店や図書館から撤収された。マカーレンコも、それらについて言及することを用心した。また、マカーレンコがかつてそれらについて発言した書評や記事は、彼の死後、編集者達によって削除され、出版された。こうして、マカーレンコとボルシェフ・コムーナの関わりは、後生のマカーレンコ研究家達の眼から隠された。隠された書評や記事から判ることは、マカーレンコがボルシェフ・コムーナについて、大きな関心を抱いていたことである。彼は、書物からだけでなく、実際にこのコムーナを訪問して、その活動の意義や長所について学ぶとともに、その短所や自分の教育方法との相違についても研究していた。マカーレンコのゴーリキー・コローニヤやジェルジンスキー・コムーナの教育実践には、子どもへの信頼、労働教育を通した人格形成、集団の組織方法など、少なからずその影響を認めることができる。1932年に上映された映画『人生案内』は、1970年代にもリバイバル上映された。当時の浮浪児の状況や彼らの労働を通しての再教育の過程が見事に形象化されており、多くの聴衆に大きな感動を与えた。
著者
Jennifer M. McGuire
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
Educational Studies in Japan (ISSN:18814832)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.41-56, 2021 (Released:2021-10-21)
参考文献数
45
被引用文献数
1

“Accessibility” features promote inclusive education but do not guarantee it. Communication accessibility, such as sign language interpretation or note-taking, may facilitate the academic inclusion of deaf students in general classrooms but does not necessarily enable their full social inclusion. Whereas in general classrooms deaf students are often the only deaf person present, in co-enrollment programs a “critical mass” of deaf students is educated alongside their hearing peers. These co-enrollment programs may employ a wide range of communication modalities; however, sign bilingualism has the greatest potential to create a socially inclusive environment, because deaf and hearing children can communicate directly without mediation. In this article, I explore the potential of sign bilingual co-enrollment programs as pathways to belonging, or ibasho, in Japanese education. The analysis is based on existing research on co-enrollment practices across the globe, an in-depth interview and ongoing correspondence with one of the founding members of the first co-enrollment program in the world, as well as my long-term fieldwork with deaf communities in Japan. Based on these findings, I argue that sign bilingual co-enrollment environments go beyond cosmetic accessibility to true inclusivity, creating opportunities for peer interactions, meaningful communication, and belonging.
著者
佐久間 亜紀
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.333-343, 2000

本稿では、19世紀初頭にエマ・ウィラードが設立したトロイ女子セミナリーに焦点をあて、彼女の教師像と教師教育の実際を明らかにし、その意義を考察した。トロイ女子セミナリーは、女子教育史の領域で研究対象となってきたが、教師教育者としてのウィラードの業績や、トロイ女子セミナリーにおける教師教育の検討は日米いずれにおいても行われておらず、課題として残されていた。この事例の検討によって、従来のアメリカ教師教育史の理解は以下五点において書き換えられたことになる。第一に, 従来のアメリカ教師教育史研究においては、教師教育の成立は1830年代の州立師範学校であるとされてきた。しかし1810年代には既に、ウィラードら女性教育者によって教師養成機関や教授理論が創造され、その女子セミナリーにおいて開拓された理論こそが、州立師範学校設立の理論的素地を提供していたのである。第二に、先行研究において教職専門職化運動は、コモンスクール再興運動による教職の需要急増によって生まれたと説明されてきた。しかしウィラードの事例は、教職専門職化のロジックが、教職需要の急増以前に既に提出されていたことを示している。アメリカでは、専門職化への社会的需要が教師教育の成立を促したというよりもむしろ、経済的自立や教育機会拡大の方途を探る女性たちが、自らのサービスの需要を創出するために、教職を専門職化するロジックを必要としていたのである。第三に、この事例の検討によって、アメリカの教師教育は、女子教育として開始されてきた側面を持つことを明らかにした。この発見によって、なぜ州立師範学校の学生のほとんどが女性であったのかの説明がつく。さらに従来全く看過されてきた教師教育と女性教育の関係、特に教師の社会的地位の低さと女性のそれとの関連を示すことができた。当時のジェンダー規範における女性性を根拠として、教職への女性の適性を主張したウィラードの戦略は大きな成功を収めたが、しかし一方でそのロジックは、教職の低賃金や社会的低地位、偏った性比や男性管理職との階級格差など、意図せざる結果を生んでいた。第四に、従来の教師教育史は、教師の学識を重んじるアカデミーの系譜と、教職準備教育を重んじる州立師範学校の系譜の、軋轢の歴史として描出されてきたが、本事例においては、両者を統合したカリキュラムが創造されていた。ウィラードは社会からの反発を避けるための戦略として、あえてカレッジの名をつけなかったが、トロイ女子セミナリーのカリキュラムは、実質的には男子学生を対象としたカレッジ相当のものであった。この発見によって、デューイより80年ほど前から「第三の系譜」が存在していたことになり、注目に値する。第五に、ウィラードやトロイ女子セミナリーの指導者たちが、既に1820年代から、ペスタロッチに学んだ視覚的理解を促す図版を多く取り入れた独自の教科書と教師教育方法を開発していたことを明らかにした。従来の先行研究においては、アメリカにおけるペスタロッチ教育学の教師教育への応用は、オスウィーゴ-師範学校のシェルドンにより開拓されたと説明されてきた。
著者
木村 涼子
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.3, pp.302-310, 2000

本稿の目的は、そもそもフェミニズムが近代社会における「公私」の区別をいかにとらえたかを踏まえた上で、近年のフェミニズムと公教育に関する議論を検討することにある。20世紀初頭の婦人参政権獲得運動に代表される第一波フェミニズムの主張は、近代的な「公」の定義を前提として、「公」的領域への平等な参加を求めるものであった。しかし、1960年代以降の第二波フェミニズムは、「公私」間の線引き自体を疑問視した。「個人的なことは政治的なこと」という第二波フェミニズムの有名なスローガンは、「公私」の区別に対する批判を表明している。第二波フェミニズムは「公」領域のみならず「私」領域においても性差別が存在することを告発した。生活世界全体をつらぬく、男性優位の権力関係を問題にしようとしたのである。現在、フェミニズムは日本社会において市民権を獲得していると言われる。近年の議論の中では、かつて反体制運動であったフェミニズムが、今や権力側に身をおいているのではないかということを憂慮する主張もみられる。教育に関して言えば、フェミニズムは学校における性差別を告発し、女子にとっての学習環境の改善を要求してきたが、そうした運動は、初等教育から高等教育まで、さまざまな学校段階に影響を与えてきた。その結果、「男女平等教育」や「ジェンダー・フリー教育」といった名の下に、フェミニズムの公教育への制度化とよぶべき事態が生じてきている。公教育そのものを批判してきた第二波フェミニズムにとって、公教育内部へのフェミニズムの制度化は、内在的な矛盾となる。フェミニズムは、学習-教授プロセスに関して、独自の方法論を発達させてきた。第二波フェミニズムが重視する方法論は、たとえば、従来の教師-生徒間の序列的な関係を前提とした一方的かつ受動的な学習を拒否し、「個人的なことは政治的なこと」という原則に基づいて、学習者自身の主体性の確立やコンシャスネス・レイジングの実現を目指すものである。フェミニズムの観点から子どもたちは平等や自由や解放について学ぶべきという理念は、教師-生徒間の不均衡な権力関係が存在する学校の状況と矛盾せざるをえない。そうした矛盾を抱えつつ、男女平等をめざす教育のゆくえはいかなるものになるのか。今後のジェンダーと教育研究の課題は、現在進行中の男女平等をめざす教育推進の実態と、それが何を教育現場にもたらしているのかを、実証的に明らかにしていくことである。
著者
秋山 麻実
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.67, no.2, pp.191-200, 2000

本稿は、19世紀イギリスにおいて、ガヴァネスとその雇用者との葛藤および家族の純化について論じたものである。「ガヴァネス問題」とは、当時のガヴァネスの供給過多によって浮上してきた問題であり、これまでこれは、彼女たちの経済的困難に関する問題として捉えられてきた。また、この問題は、階級とジェンダーの境界に関わる彼女たちの微妙な立場という問題を含むものとして捉えられてきた。これらの問題は、19世紀中葉の多くの定期刊行物、とりわけフェミニズム雑誌において言及されている。しかし、そのような定期刊行物の記事のなかでも、特に今日代表的とされているものにおいてさえ、それらを仔細に読んでいくと、ガヴァネスに関する問題におけるより根本的な要素が浮び上がってくる。それは、ガヴァネスが、雇用者の家族のなかにポジションを得ようとしているのではないか、という中産階級の不安である。ガヴァネスに関する問題におけるこうした側面は、階級の越境という問題に収斂されるべきではない。家族の境界を脅かすことは、階級の越境より危険視されることである。というのも、ガヴァネスが狙っているのは、単に家族の一員であるというポジションではなく、母のポジションだからである。彼女は、単に境界を侵すというだけではなく、家族関係の秩序そのものを乱すのである。ガヴァネスは、1848年のガヴァネスに関する有名な論稿において言われているように、「タブー化された女性」 (tabooed woman)なのである。ガヴァネスのポジションに関する中産階級の不安は、彼女たちが母の代理としての役割を果たす存在であるということと、19世紀半ばに〈家族〉(family)観念が変化していったことに起因している。〈家族〉という語は、サーヴァントをその範疇から排除し、核家族を中心とした集団を指すようになった。その変化に伴って、ガヴァネスのポジションは、曖昧なものとなってきたのである。ガヴァネスの経済的困窮を緩和するために、フェミニズム雑誌においては、彼女たちと雇用者が契約書を作って、報酬や労働条件を決めることを奨励した。しかし、契約書を作るということは、ガヴァネスを近代的雇用関係の文脈に置くことにほかならない。そのため、結果的には、契約書を作るということは、ガヴァネスを雇用者の家族から外部へと移行させることに貢献することとなった。すなわち、〈家族〉はその境界領域に住う存在を排除し、よりいっそう純化していく方向へと向ったのである。
著者
Hiroshi OTA
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
Educational Studies in Japan (ISSN:18814832)
巻号頁・発行日
vol.12, pp.91-105, 2018 (Released:2018-10-17)
参考文献数
32
被引用文献数
18 46

This paper discusses the meaning of the internationalization of higher education in Japan, based on a review of global trends in this area. Globalization has brought major changes to higher education, and in order to deal with them, the Japanese government has promoted internationalization as an important policy for higher education reform with a series of competitive funding programs. Universities in Japan, too, have made efforts to internationalize themselves. Despite the government's policy initiatives, the internationalization of Japanese higher education has not been understood as a high-priority issue at the institutional level, with many examples of superficial or partial add-ons of the international aspect, and has even been criticized as unable to contribute to transformative change at universities. Internationalization tends to be used as a means to prevail in the domestic competition between universities (inward-facing internationalization) and does not necessarily result in initiatives which lead to the improvement of learning in a globalized environment.All in all, the government's competitive funding projects for internationalization have indeed intensified domestic competition among universities. However, it is not certain that the funds have increased the international competitiveness and compatibility of Japanese higher education as a whole.
著者
Yuka Kitayama Yoriko Hashizaki Audrey Osler
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
Educational Studies in Japan (ISSN:18814832)
巻号頁・発行日
vol.16, pp.31-43, 2022 (Released:2022-08-25)
参考文献数
34
被引用文献数
1

Both education for democratic citizenship and human rights education tend to emphasise political and legal learning. In both human rights education and moral education in Japan, however, there has been a tendency to give particular attention to interpersonal elements of learning such as kindness and sympathy. This article draws on feminist thinking and on Nel Noddings' concept of the ethics of care to propose a learning framework that combines emotional and socio-political elements, arguing that since motivation is an important element in acting for social justice, learning for social justice must be cognisant of emotional learning. The authors then present the case of a university teacher in a gender studies classroom to consider how these two elements, the emotional and the political, might be combined to enhance students' commitment to social justice when the topic under consideration is LGTBQ+ rights.
著者
宮本 健市郎
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
教育学研究 (ISSN:03873161)
巻号頁・発行日
vol.65, no.2, pp.141-150, 1998

本稿の目的は、(1)フレデリック・リスター・バークの教育思想において自発性の原理が形成される過程を精査すること、(2)自発性もしくはダイナミズムの意味の変化に焦点をあてて、児童研究と進歩主義教育との関係を解明すること、である。 1899年から1924年まで、サンフランシスコ州立師範学校の初代校長を務めたフレデリック・リスター・バークは、児童研究運動と進歩主義教育運動との重要なつながりを代表している。彼は、児童研究運動の父G.S.ホールの弟子であり、1920年代の進歩主義教育に大きな影響力を与えたカールトン・W・ウォシュバーンおよびヘレン・パーカーストの恩師であったからである。 バークは1890年代の半ばにクラーク大学で心理学を学んで、G.S.ホールの賞賛者になった。彼は、子どもは完全な自由を与えられれば自然と人類の発展を繰り返すと信じ、子どもの内部の力がその発展を導くと考えた。したがって、幼稚園のカリキュラムはその発展の過程に、すなわち遺伝的な順序に、基づかなければならないと彼は主張した。 バークは1898年に、カリフォルニア州サンタバーバラ公立学校の教育長に就任した。彼は児童研究と反復説に深く心酔していたので、サンタバーバラの公立幼稚園にフリープレイを導入した。フリープレイはいかなる障害もなく自然に発達するための機会を子どもに与えると考えたからである。バークとサンタバーバラ公立学校のスタッフは、子どもの自由で自発的な活動を良く調べ分類する実験をおこなった。この実験から、思いがけずバークが発見したことは、子どもの自発的な活動はただ下等な人類の繰り返しではなく、子どもの創造的な表現を含んでいるということであった。 この実験の後、バークは子どもの発達に関してホールとはかなり異なった見解に到達した。ホールが子どもの生まれつき、すなわち遺伝的に決定された発達を信じていたのに対して、バークは子どもの発達を方向づける環境と創造的表現の重要性に気がついたのである。 1899年にバークはサンフランシスコ州立師範学校の初代校長に就任した。彼は画一的一斉授業をやめて、子どものダイナミズムを開発するための個別教育法を創案した。ダイナミズムは自発性や内部の力だけでなく、子どもの創造性を含んでいると考えられていた。サンフランシスコ州立師範学校でバークの下で働いていたカールトン・ウォシュバーンは、バークの個別教育法を学んで、後にそれを修正し、ウィネトカ・プランと名付けた。当時アメリカ合衆国のすべてのモンテッソーリ学校の監督者であったヘレン・パーカーストは、バークの個別教育法を真似て、ドルトン・プランを発明した。 児童研究を通して、バークは子どもは自然と遺伝に応じて教育されるべきであることを学んだ。しかし、彼は自然と遺伝をあまりに強調する反復説の決定論的見方を変更した。子どもの自発的な活動と思考の中に創造的な衝動があることを発見したからである。彼はそれをダイナミズムと呼んだ。
著者
Tatsuhei Morozumi
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
Educational Studies in Japan (ISSN:18814832)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.69-81, 2021 (Released:2021-10-21)
参考文献数
30
被引用文献数
1

This study attempts to clarify Japanese youth participation policies' characteristics by analyzing four national youth policy documents in the 2000s. Compared with European youth policy, the article will investigate the challenges Japanese youth policy faces.Though recent Japanese national youth policy sees young people as active agents for society, Japan's youth participation policies mostly employ educational and volunteering approaches. Today's youth policy has reconsidered the inclination to promote voting behavior; however, the documents seldom cover new forms of the youth-led political movement and structural changes in youth policy governance. The reflection of young people's voices has recurrently been considered important over the decades. Yet Japanese youth participation policies only listen to youth via the Internet and roundtables. On the other hand, the Council of Europe's co-management system enables young people to influence the European youth policy decision-making process. Failing to conduct structural changes may lead to youth policy without young people.
著者
Shinichi AIZAWA
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
Educational Studies in Japan (ISSN:18814832)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.33-48, 2016 (Released:2016-06-27)
参考文献数
38
被引用文献数
2 6

This paper addresses the following two research questions: What role does senior high school choice play, in terms of the choices between public and private and between academic and vocational education in Japan and Taiwan? How do senior high school students matriculate to tertiary education in Japan and Taiwan? Japan and Taiwan have both experienced a rapid expansion of upper secondary education in the process of late industrialization. In these two societies, senior high school tracking decides students’ educational careers. In addition, people living in these two societies have been inclined toward the belief that national and public schools are more prestigious than private schools. Therefore, the role of private senior high schools is different in these societies than in Europe or America. In both Japan and Taiwan students with higher grades tend to attend public academic senior high schools, whereas students with lower grades tend to enroll in private senior high schools. During the educational expansion in both societies, private senior high schools have provided opportunities for students of lower grades as well as lower social status. This research confirms the existence of a new trend in private school education: the rise of private academic education in the younger cohort. We need to continue to monitor this trend not only in these two societies but also in other East Asian countries.
著者
Patrick Naoya Shorb
出版者
Japanese Educational Research Association
雑誌
Educational Studies in Japan (ISSN:18814832)
巻号頁・発行日
vol.14, pp.53-68, 2020 (Released:2020-07-10)
参考文献数
63
被引用文献数
1

Building upon the recent English-language scholarship (Kawaji, 2017, Miyazawa, 2015; Hiraoka, 2011) on the Japanese pedagogy movement of seikatsu tsuzurikata (“daily life writing,” hereafter referred to as DLW), this essay seeks to locate its significance within a broader global context. It is as much a polemic for why DLW should be better known outside of Japanese academic circles as it is meant to be a dispassionate, historical analysis of an education movement per se. The fact that such a large-scale, politically radical grass-roots education movement as DLW took place within Japan's highly technocratic and centralized educational tradition is intrinsically interesting. Greater international awareness of DLW can thus serve as a valuable touchstone for a broader reconsideration of 21st century education change. This essay highlights three ways that DLW complicates understandings of modern Japanese education as well as education development more generally. First, the spread of DLW in the 1930s reminds us that discourses of liberation and socio-economic empowerment proved surprisingly enduring, even during the supposed “dark-valley” era of prewar Japan. Second, the essay explores how DLW's critical pedagogy arose from a hermeneutical skepticism of “intent observations” that emerged from a humanistic (particularly Diltheyan) philosophical tradition distinct from the progressive, Anglo-American discourses that have come to dominate contemporary Japanese education (Takayama, 2011). Finally, this paper explores the subversive ways DLW de-centers conventional understandings of educational change, by noting how previously marginalized groups (in terms of geography, class and education status) generated compelling critiques of dominant education discourses. DLW's similarities with later, better-known, movements of critical pedagogy overseas suggest a globalized discourse of educational iconoclasm that is longer-lived and more geographically varied than is often recognized. To give overseas readers a better sense of DLW ideology, this essay includes extended quotes from key DLW writers and documents.