- 著者
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網 伸也
- 出版者
- THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
- 雑誌
- 日本考古学 (ISSN:13408488)
- 巻号頁・発行日
- vol.12, no.20, pp.75-92, 2005
日本における瓦積基壇の成立は,大津宮周辺の古代寺院で初期の瓦積基壇建物が検出されていることから,百済滅亡と大津宮遷都が大きな画期になったと考えられる。実際に瓦積基壇建物が検出されている古代寺院の分布をみると,近江から南山背にかけて多く分布しており,大津宮との強い関連を想起させる。しかし,百済での瓦積基壇の展開を再検討し,日本の事例との比較を行なうと多くの相違点が指摘でき,百済滅亡後の渡来系氏族による新しい技術伝播として瓦積基壇の成立を単純に把握することができない。何よりも,ヤマト政権の中心地である飛鳥はもとより大和地域で初期の瓦積基壇建物がいまだ発見されていないのは等閑視できない事実である。<BR>この歴史的背景として,初期寺院造営において百済から全面的に造営技術を学んだが,百済で一般的であった瓦積基壇については積極的に採用しなかった姿勢を窺うことができる。そこには新しい文化技術を導入しつつも,掘立柱建物および石敷空間を重視する伝統的な宮殿構造に規制され,格式が高く既存の技術体系の中で受け入れやすい石積基壇は採用しても,外来的要素の強い瓦積基壇は認めない取捨選択が働いた結果が見て取れる。そして,日本で瓦積基壇が成立する素地として半世紀にわたる寺院造営技術の発達があり,大津宮遷都という飛鳥の伝統的呪縛から開放された新しい宮都で初めて寺院の基壇外装として瓦積基壇が定着し,近江と大和を結ぶ地域で大津宮周辺寺院とともに従来の大和諸寺院の影響を受けた瓦積基壇が展開したものと考えられる。<BR>さらに,瓦積基壇の初源は近江地域だけでなく,渡来系氏族が古くから居住した河内石川流域の新堂廃寺とともに,孝徳朝の難波遷都に伴う四天王寺の伽藍整備にも想定できる。難波長柄豊碕宮と想定される前期難波宮は後の朝堂院の原形となる広大な構造をもっており,律令国家成立期の画期的な宮として認識されている。四天王寺では百済との強い関連のもとに扶蘇山廃寺や定林寺と共通した伽藍で整備しており,大津宮と同じく開明的な都の整備の中で瓦積基壇の成立の端緒をみることができるのである。