著者
近畿大学民俗学研究所 網 伸也 藤井 弘章 鈴木 伸二 渡辺 良正
出版者
近畿大学民俗学研究所
雑誌
民俗文化 No.30 (2018. 10) (ISSN:09162461)
巻号頁・発行日
no.30, 2018-10-31

〈目次・その他 (30: 2018)〉 表紙・口絵写真--滋賀県の民俗
著者
近畿大学 民俗学研究所 胡桃沢 勘司 網 伸也 藤井 弘章 渡辺 良正
出版者
近畿大学民俗学研究所
雑誌
民俗文化 No.29 (2017. 10) (ISSN:09162461)
巻号頁・発行日
no.29, 2017-10-31

〈目次・その他 (29: 2017)〉 表紙・口絵写真--和歌山県の民俗
著者
網 伸也
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.134, pp.111-136, 2007-03

古代都城において「京」の空間に方形街区が形成されるのは天武朝以降であり、藤原京(新益京)には計画的な条坊街区が造営された。そして、平城京以後の諸宮では、「京」における条坊の存在が既成事実として議論されてきた。しかし、「京」は王権の所在地として周辺地域から視的あるいは理念的に区別される空間であり、方形街区としての条坊の有無は本質的に「京」の必要条件とはならない。実際に、奈良時代における「京」の概念には条坊街区の存在はあまり考慮されておらず、宮を中心に広がる特別な政治領域を「京」として捉えていたことがわかる。そして、宮城を取り囲む「京」に街区が形成される場合にも、計画的に条坊街区が造営される場合と、必要に応じて街区が造営されていく場合が想定できる。ここでは、まず都城成立期である藤原京の考察を行い、日本の古代都城がいかにして確立していったかを明らかにし、平城京をはじめとする奈良時代の「京」の実態分析を行った。その結果、古代都城の構造には、全体の京域条坊プランを計画的に設定し宮城もその計画線の中に収めていくタイプ(計画線閉合型)と、まず宮の造営を行い必要に応じて京域の条坊を施工していくタイプ(中軸線開放型)があることが判明した。厳密にいえば、全体の方形地割計画線を設定する前者のタイプは藤原京と平城京だけであり、その構造原理は形を変えて平安京にも引き継がれたと想定できる。その他の都城は宮の造営が先行し、宮の造営中軸線あるいは東西計画線を基準にして京域街区が形成された。長岡京も宮城の造営がまず先行して行われており、その京域にできるだけ計画的条坊を施工しようとした特殊な都城であったため、構造的矛盾を孕む結果となってしまったと考えられる。桓武天皇の再度にわたる平安京遷都は、特殊な長岡京造営の中で実現することができなかった計画的都城の完成をめざして行われたと考えられるのである。The adoption of a block street pattern for the space of the "capital" ("kyo") in ancient walled cities began during the Temmu era when Fujiwara-kyo (Aramashi-kyo) was built following a planned grid pattern. The existence of a grid pattern as a fait accompli for capitals with palaces from the time of Heijo-kyo onwards has been the subject of debate. However, as the location of imperial power, the capital was a space that was visually and conceptually separated from the surrounding area so that in essence the presence of a grid pattern for the streets was not an absolute requirement to make it a capital. In fact, little consideration was taken of the existence of a grid pattern for streets within the concept of a capital during the Nara period. We know that a special political sector that expanded outward from a palace at the center was viewed as constituting a capital. We may also assume that even when streets were built in a capital with an enclosed palace there were instances when a planned grid pattern was adopted and others in which streets were built as the need arose.This paper considers Fujiwara-kyo which was built at a time when walled cities were first established in Japan. It discusses the process by which ancient walled cities were built and investigates the capitals of the Nara period, of which Heijo-kyo was the first. The findings reveal that either one of two structures was adopted for these ancient walled cities. One entailed a planned grid pattern for the entire capital with a palace incorporated in the plan (planned closed type), while in the other type the palace was built first and a grid pattern implemented for the area of the capital as the need arose (central axis, open type). Strictly speaking, the first type with its grid pattern covering the entire area applies to only the Fujiwara and Heijo capitals. However, following a change to its underlying principle, this structure was also most likely adopted for the Heian capital. In other walled cities the construction of the palace occurred first, whereupon the streets were created based on the palace located along a central axis, or on a line projecting east to west. In the case of Nagaoka-kyo too, the palace was built first, and because an attempt had been made to build a unique walled city following a planned grid pattern wherever possible, the result included some structural contradictions. It is possible that Emperor Kammu shifted the capital to Heian for a second time with the aim of completing the planned walled city that he was unable to achieve when building Nagaoka-kyo.
著者
網 伸也
出版者
THE JAPANESE ARCHAEOLOGICAL ASSOCIATION
雑誌
日本考古学 (ISSN:13408488)
巻号頁・発行日
vol.12, no.20, pp.75-92, 2005

日本における瓦積基壇の成立は,大津宮周辺の古代寺院で初期の瓦積基壇建物が検出されていることから,百済滅亡と大津宮遷都が大きな画期になったと考えられる。実際に瓦積基壇建物が検出されている古代寺院の分布をみると,近江から南山背にかけて多く分布しており,大津宮との強い関連を想起させる。しかし,百済での瓦積基壇の展開を再検討し,日本の事例との比較を行なうと多くの相違点が指摘でき,百済滅亡後の渡来系氏族による新しい技術伝播として瓦積基壇の成立を単純に把握することができない。何よりも,ヤマト政権の中心地である飛鳥はもとより大和地域で初期の瓦積基壇建物がいまだ発見されていないのは等閑視できない事実である。<BR>この歴史的背景として,初期寺院造営において百済から全面的に造営技術を学んだが,百済で一般的であった瓦積基壇については積極的に採用しなかった姿勢を窺うことができる。そこには新しい文化技術を導入しつつも,掘立柱建物および石敷空間を重視する伝統的な宮殿構造に規制され,格式が高く既存の技術体系の中で受け入れやすい石積基壇は採用しても,外来的要素の強い瓦積基壇は認めない取捨選択が働いた結果が見て取れる。そして,日本で瓦積基壇が成立する素地として半世紀にわたる寺院造営技術の発達があり,大津宮遷都という飛鳥の伝統的呪縛から開放された新しい宮都で初めて寺院の基壇外装として瓦積基壇が定着し,近江と大和を結ぶ地域で大津宮周辺寺院とともに従来の大和諸寺院の影響を受けた瓦積基壇が展開したものと考えられる。<BR>さらに,瓦積基壇の初源は近江地域だけでなく,渡来系氏族が古くから居住した河内石川流域の新堂廃寺とともに,孝徳朝の難波遷都に伴う四天王寺の伽藍整備にも想定できる。難波長柄豊碕宮と想定される前期難波宮は後の朝堂院の原形となる広大な構造をもっており,律令国家成立期の画期的な宮として認識されている。四天王寺では百済との強い関連のもとに扶蘇山廃寺や定林寺と共通した伽藍で整備しており,大津宮と同じく開明的な都の整備の中で瓦積基壇の成立の端緒をみることができるのである。