著者
淺沼 操
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理 (ISSN:21851697)
巻号頁・発行日
vol.5, no.2-3, pp.165-195, 1942-10-01 (Released:2010-03-19)
参考文献数
9
著者
磯崎 優
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理 (ISSN:21851697)
巻号頁・発行日
vol.4, no.4, pp.468-491, 1941-11-01 (Released:2010-03-19)
参考文献数
7

1. 新河岸川は武藏野臺地の東側に並行し、其の水路は川越。志木間約二十粁、更に荒川合流地點迄約五粁の間を非常な自由蛇行をする。其の短距離にもかゝわらず驚くべき水量をもつてゐる。これは武藏野臺地の地下水の湧水の豐富なることゝ、崖端川Wet-Weather streamや湧泉池沼の地形的條件に基くもので、河川交通上高瀬舟の自由な舟行を許す要因である。2. 川越城下町の外港としては、古く川越の東北、荒川と入間川の合點に老袋河岸が開かれ、新河岸川には志木の北方上流本河岸があつた。老袋河岸と川越城下の間は低濕地であり、入間川・赤間川の氾濫の危險があつた。松平信綱以後藩主によつて、河港を城下町に吸引せんとして先づ本河岸上流の新河岸川を改疏により、新河岸を開設し、更に扇河岸に、明治に及んでは仙波沼を利用して仙波河岸が開設され遂に川越城下町に到達した。3. 城下町の外港として扇河岸、上新河岸、下新河岸、牛子河岸、寺尾河岸が五河岸と呼ばれ、川越藩並に城下商人と密接な連繋が結ばれた。藩は此等河岸の開發には地子免や、舟問屋株の特權による保護を與へた。物貨輸送の安全のためには、河岸問屋は主として、臺地のスパアーや、 Natural Leveeに位置し、水害の危險を免ると共に、背後地との交通連絡が重視された。4. 物資輸送の保證のために、船頭・馬士は沿岸、近接地域の住民が選ばれ、遂に他國船(よそ舟)の排斥となり、土地舟の特權となつた。馬士・船頭は各河岸問屋と主從關係が成立し其の配屬が明瞭に統制された。5. 陸上運送連絡としての馬士は、物資の多寡により雇傭は不定、不時期のため特に問屋近在の者に限る分布となつた。斯くて彼等の多くは半農半馬士の生活である。6. 出航舟は高瀬舟で並舟・早舟・飛切舟等運送の遲速と物貨に應ずる種類が生じ、定期船として早舟が利用された。三・八、五・十と言ふ如く五日間隔の輪番を持ち、舟と船頭の確定があつた。河川上下航の時宜に應ずる自然的障碍、天候、流速等や積載量の多少により、遡航の際は補助船頭たる「のつけ」を要し、曳舟又は桿つきを行つた。「のつけ」を要するのは、「河の口」新倉河岸より上流であり、新倉河岸に「のつけ宿」の發生となり、此近邊には「のつけ」を職業とする住民が生じた。7. 城下町商人と各河岸問屋との間は夫々組合を組織し物貨運漕に對する爭は常に河岸組合と商人川越十組との間に行はれたが、多くは河岸場の敗北に歸したことは、藩の城下町繁榮策によるものであつた。8. 新河岸川沿岸地域は或は船頭、馬士、のつけ等となり新河岸川の舟行を中心とする活動が行はれ、專業或は農閑利用によつて、農業上の不利を克服してゐた。9. 中河岸の開設活動については尚今後の詳報の機を俟つ。
著者
淺香 幸雄
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理 (ISSN:21851697)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.14-32, 1942-06-10 (Released:2010-03-19)
参考文献数
23

一、清見潟西岸地域の辻・江尻兩部落の境界を見ると、江尻町東側地先海岸地域は、凡て北方の辻村に所屬し、江尻町は海岸線に部落疆域を直接臨ましむることなく、巴川以北の舊東海道沿ひ以西北地區を部落疆域とし、一見特異な部落疆域をなしてゐる。二、本稿は右境界線而して部落疆域の政治經濟地理學的研究であり、境界劃定になる係爭經過並にその裁許に大量的な關聯性を見出す諸要因を考察した。資料は關係兩部落並に附近諸部落所藏の舊幕時代の文書・古記録によつた。三、係爭經過1. 辻・江尻兩部落の南限決定 兩部落南方の現入江受新田の地域は、正保四年 (二三〇七年) 以來幕府の御舟手用地 (關船藏用地) とされてゐたが、元祿十一年 (二三五八年) 關船廢止に際しその用地跡の歸屬に關し、北方より辻・江尻兩部落、南方より巴川西岸の清水町とが共に自己部落に所屬方を願出でた。北方の兩部落は右御舟手御用地は收用以前に於て、既に辻村は田畑、江尻は畑・松林・草苅場としての利用してゐた實績を理由として、右收用前に復歸方を主張し、巴川の郡界河川たることをも附加して強調した。清水町は湊稼・漁稼用地として缺くべからずとして出願した。裁許結果は右三者の何れにも歸屬せず、位置的には中間地區であり、右關船本庫の所在地たりし入江町御預地となり、北方兩部落の南限が決定した。2. 徳川初期に於ける江尻宿東側の海岸地形を見ると現東海道線附近 (補遺第一圖) には簡單乍らも波除堤が設けられてあり、汀線はこの浪除堤の直下で、暴風雨等の際には、浪除堤内側の一枚通りの畑については、漁船の船揚場利用は御免であつた。又北方愛染川口附近では、閂洲は前記 「寛延度御裁許江尻漁業場」 見通し地域迄は未だ發達してゐなかつた。寶永地震には海岸一帶が陷没し、一部では宿の直ぐ裏迄海浸が行はれた。又三保岬の尖端部も陷没し、江尻浦に對する防波堤的作用もなくなつてゐた。3. 延享三年 (二四〇六年) 右江尻浦浪除堤外の芝間地區に對し、第一次の新開願が辻村より提起された。a. 辻の申立は、開墾許可の上は浪除堤は辻村自普請にてなすこと、願所芝間については他部落との入會關係なく、地形發達によつて場廣であるので江尻漁業にも支障なく、又漁業用地としては、愛染川向にも、願所の南北に隣る空地にも利用可能地がある旨を具陳した。b. これに對する江尻宿答申の要旨は、辻村新開願所は船役米・肴運上上納の江尻漁業場であること、又舊來諸種の出役をなし居ること、これらに對し、辻村では嘗て運上・諸役勤の實績のなきこと等を擧げて、新開に反對した。c. 裁許は寛延二年 (二四〇九年) になされたが、 (イ) 江尻裏田地は凡て辻村地籍である。浪除堤敷・堤上松林も又辻村所屬とする。 (ロ) 但し、辻の新開願場所は豫て運上納入の江尻魚獵場につき、依然江尻利用とし、新開は許可しない。從つて右地所に對し江尻より芝永を上納すること、と全般的な地籍は辻村歸屬とし、その中漁業用地に限り、江尻宿自由進退場として裁許された。4. 翌寛延三年辻村より追訴し、前々新開願場所の芝永及び船揚場見取年貢の納入につき、江尻より直納せるを辻村經由に改め、自村の地籍權の所在を年貢納入法に於ても明確に示さんとした。が、この地區は辻村農業支障とはならないので、この願は單なる名義要求として却下され、運上納入は依然江尻より直納として裁許された。5. 上記 「寛延度御裁許江尻漁業場」 へ對し、安永七年 (二四三八年) に江尻出作より、又同九年には江尻役人より夫々新開願を提出したが、何れも不許可となつた。特に江尻宿へ對しては自部落の裁許魚獵場につき新開出願を爲すのは不見識とし、將來に對して嚴重戒告された。6. 寛政六年 (二四五四年) 右御裁許魚獵場の一部 (江尻申立では二反歩) に對し、江尻漁民が甘蔗植付をなし辻村より摘發された。江尻では半ば官命によるものと申立てたが、裁許に際し、從來江尻は累次の辻村の薪開願に對し 「魚獵場支障」 を以て反對し來れるも、自らその意義を喪失せしめたるものとして、嚴禁の旨示達され、又獵師惣代へ對し過料錢を命ぜられたのであつた。7. 天保十二年 (二五〇一年) には辻村とその北隣の嶺村と共同にて、各々自己部落海岸附屬洲への新開を提出したその理由としたのは、兩部落の耕地は人口數に比し狹少に過ぎ、爲に從來他部落耕地を請作してゐる等部落經濟の窮状を述べ、海岸附寄洲も寛延度に比し著しく發達し. 開發可能地域も廣まり、魚獵場支障もなしとした。特に嶺では愛染川上流部に惡水落口樋の取替により、廣地域 (三五町歩) の田畑が出來る旨を述べた。しかしこれも不許可となつた。8. 弘化二年に至り辻村は再び、 「寛延度御裁許魚獵場」 南北の芝間空地の開墾を出願した。出願理由は前々の出願に於けるものの繰返しに過ぎなかつたが、弘化三・四年
著者
宇賀 籌徳
出版者
The Association of Japanese Geographers
雑誌
地理 (ISSN:21851697)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.65-101, 1942-06-10 (Released:2010-03-19)
参考文献数
22