著者
醍醐 龍馬
出版者
日本政治学会
雑誌
年報政治学 (ISSN:05494192)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.1_132-1_154, 2021 (Released:2022-06-15)
参考文献数
28

明治初期の日露国境問題 (樺太問題) に関する先行研究では、明治政府に対する駐日英国公使パークスの樺太放棄勧告の影響が強調されてきた。これに対し国内要因に着目した本稿では、従来思想分析の対象に留まってきた黒田清隆の樺太放棄論が、政府内の重層的な対立構造のなかで政策実現していく政治過程を跡付けた。黒田は大久保利通に推され樺太専任の開拓次官に就任すると、組織内を対露宥和路線に統一した。さらに樺太開拓使と北海道開拓使の合併後は、札幌本庁から岩村通俊を駆逐し樺太放棄論で開拓使全体を纏めた。岩倉使節団外遊中の黒田は樺太放棄を建議し、外征派の外務卿副島種臣の樺太買収論、分界論と対抗した。そして、明治六年政変により副島から対露外交の主導権を奪い、外征優先ではなく内治優先に立脚する対露宥和路線を確立させた。最後には、木戸孝允ら政府内の慎重論を抑えながら自らと政策理念を共有する榎本武揚をロシアに送り込み樺太千島交換条約を結ばせた。こうして終止符が打たれた樺太問題を契機に大久保政権内に開拓使を基盤とした黒田グループが重要な位置を占め、そのなかにその後の対露外交で重要な役割を担う黒田、榎本、西徳二郎を中心としたロシア通の政策集団の原点が形成された。黒田とその周辺の位置付けを明治初期にまで遡り検討することは、長州閥中心で描かれがちな明治政治史の枠組みを薩摩閥の視点から再構成することにも繫がる。

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