- 著者
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宮山 昌治
- 出版者
- 学習院大学
- 雑誌
- 人文 (ISSN:18817920)
- 巻号頁・発行日
- no.5, pp.57-79, 2006
大正期のベルクソン哲学の大流行(1912─1915)は唯心論の興隆の波に乗って、〈直観〉をしきりに喧伝した。だが〈直観〉を強調するあまり、〈知性〉と〈他者〉を排除する傾向が強くなり、それが大流行を終焉に導くことになった。以降、ベルクソン受容は低調に終始するが、1941 年のベルクソンの逝去を機にベルクソンに関する論文が多数発表されて、わずか半年ではあったが、小さな流行を引き起こした。 1941 年の小流行では、ベルクソンは〈直観〉と〈知性〉を区別したが、これらは実は相補関係にあるという指摘が多く見られた。また、ベルクソンは〈直観〉と〈知性〉の結合を図ったが、それは弁証法にまでは至らなかったという批判も見られた。だが、前者は〈直観〉の唯心論の枠組みを温存して、その上に〈知性〉を添加しただけである。むろん〈他者〉の問いも解決していない。また、後者はベルクソン哲学を弁証法によって批判しているが、なぜ弁証法なのであろうか。それは、1932 年の『二源泉』批判に端を発する。 1932 年の論壇は、全体主義の擡頭を受けて政治論が興隆していた。孤高を保ってきた哲学界もこの状況を無視することはできず、媒介者としての能動的な主体を強調する弁証法を打ち出して、マルキシズムとファシズムの攻勢に対して抵抗を始めた。これは、能動的な主体を強調するという点で、大正期の唯心論の系譜を引くものであった。 この1932 年に『二源泉』が刊行されたが、そこで取り上げられた「神秘家」の受動性は能動的な主体の弁証法とは相容れないものであった。それゆえに、ベルクソン哲学は最終的に弁証法には到達しなかったという批判が生じたのである。この批判は1941 年の受容でも繰り返されたが、『二源泉』を受け入れなかったことで、ベルクソン受容は大正期の唯心論の枠から外に出ることはできず、その継続にとどまった。唯心論の外にある〈他者〉についても、主体の弁証法はこれを従属させることしかできなかったのである。 しかし、大正期以降の思想史において唯心論を定着させるのに大きく寄与したのはベルクソン受容なのである。それは、たしかに〈他者〉の問いに対しては無力であり、社会論としては限界があったかもしれないが、ベルクソン受容が主体の能動性を強調して、全体主義に対する抵抗の一拠点を築いていたという事実は忘れてはならないであろう。