著者
上田 琢哉
出版者
学習院大学大学院
巻号頁・発行日
2016-04-21

井筒俊彦(1983)は和歌の分析から,わが国には,あえてぼんやりさせ,そこに存在の深みを感得しようする意識態度があるとし,それを「眺め」意識として提案した。これは通常の意識のあり方とは大きく異なりながら,しかも意識であることにおいては変わりがない,ユニークな様式の提案であった。本論文は,「眺め」という意識のあり方が心理療法という営みの本質的な理解に役立つものであることを事例研究によって実証するものである。本論文は全8章から構成される。第1章は,本論への導入として大きく問題提起をした。通常の意識は<分離し,はっきりさせる>働きを本質とし,われわれはそのような意識の機能を中心に生きることで様々なものを認識・理解・操作するようになった。それは科学的な思考法と結びつき,現在のわれわれの生活を極めて豊かに発展させた。一方で,そのような意識のあり方があまりに有効であったために,われわれはそれ以外の意識のあり方をまったく考慮できなくなってきている。その意識の偏りは,現代人の抱える心理的な問題と密接に結びついていることが推測される。よって,通常の意識とは異なる意識のあり方を,心理臨床学的な文脈において取り上げて検討する意義があると述べた。第2章では,まず本論の前提となるべき意識の基本機能をNeumann, E(1971)の『意識の起源史』をベースにしながら確認した。Neumannは世界の様々な神話や祭礼を分析し,人の精神発達とは,意識が無意識から明確に分離していくプロセスであることを明らかにした。そこからNeumannは,意識体系の本質が「距離をとること」,すなわち<分離し,はっきりさせる>働きにあるとした。この意識の基本機能は,体験的には「見る」ことによってもっとも直截的にもたらされる。本章では,様々な心理学的研究を引用し,「見る」ということが意識の最も重要な機能であり,人を人たらしめている事象であることを論証した。以上から,本論文では通常の意識のあり方を「見る」意識と表現した。 次に,井筒俊彦(1983)の『意識の本質』から「眺め」意識の定義を確認した。「眺め」意識とは,事物の「本質」的規定性を朦朧化して,そこに現成する茫漠たる情趣空間の中に存在の深みを感得しようとする意識主体的態度であることを述べた。それは通常の<分離し,はっきりさせる>意識とは異なるが,明確な自我の関与があり,また一つの方向性をもったものでもあることから,単なるもうろう状態や幻覚妄想状態とは明確に区別されることを示した。第3章では,和歌の中に「眺め」がどのように詠み込まれているかについて確認し,「眺め」意識の実相についてさらに詳しく論じた。もともとわが国には,梅雨時の長雨のときに「雨季忌み」する習俗があり,そこから転じて「長雨=ながめ」は禁欲時のもの思いを意味していた。しかし,新古今和歌集の時代になって,「眺め」は「本質」のもつ規定性を肯定しながら消去する手段として展開し始めた。すなわち,「眺め」には,「見る」ことで本質が明らかになってしまうことを避ける効果があり,結果的に,それは詩的情緒を含む一種独特な存在体験をもたらす意識態度となったのである。これらの経緯について,実際の和歌を引きながら説明した。続いて,和歌の分析から,「眺め」意識の特徴を三点指摘した。第一点は,「眺め」と「あくがれ」の親近性についてである。「あくがれ」とは,「魂が肉体から離れ抜け出すこと」,「何かに心奪われて,ぼんやりすること」などを意味する古語である。「眺め」と「あくがれ」が同時に詠み込まれている和歌の分析から,もの思いの実質的状態が「あくがれ」で,それを導く方法的態度が「眺め」と考えることができることを示した。第二点は,「眺め」が今現在の眼前の世界のことを歌ったものだけなく,むしろ未来や彼岸など現実にはない世界を想像して歌っているものに多いことを発見したことである。この点について,良経や西行の和歌を例に挙げ,「眺め」は<あちら>の世界へアプローチするための意識態度であることを述べた。第三点は,「眺め」は,その情趣を他者に共感してもらうことが重要であることを指摘した点である。山崎正和(2008)は,わが国ではあらゆる芸術表現が他者を前提として製作されており,和歌もまた歌集に収められることを前提としている点で同様であると述べた。これは西洋の芸術表現が,神との関係で,その美しさ自体を讃えることで完結し,他者への波及は二次的なものと考えられていることと対照をなしている。この山崎の論を援用して,「眺め」はもともと言語化しづらい情趣を他者に共感してもらうことによってはじめて成立する一種のコミュニケーションと考えられることを論証した。以上の三点は,当初の井筒の「眺め」意識では触れられていなかった点であり,本研究で新しく見出された特徴である。第4章は,本論文独自の観点として,日本人の石に対するかかわり方から「眺め」意識の実相を明らかにした。石を祀る神社の多さや石にまつわる神話伝説の豊富さなど,日本人が石に対して宗教的・美的観点から特別に強い関心をもっていることは明らかである。本章では,竜安寺や東福寺の石庭を例に挙げ,わが国の庭では石が極めて重要な役割を担っていること,かつ,そこでは石がわざわざ象徴学的な解釈や分析を拒むように配置されていることを示し,石は「見る」対象ではなく,「眺め」るために置かれているのではないかと述べた。これは石のもつ,言語化を拒むような複雑精妙なイメージをそのままに受け止める日本人の感性を示している。また上田(2010)やUeda(2012)は,わが国には石庭だけでなく,日常の町中にも分析的な態度を拒むようなありふれた石がよく置かれていることを見出した。これは,現代の日本人がいまだに「眺め」意識を大事にしている一つのあらわれであることを述べた。さらには,村上春樹(2005)の『日々移動する腎臓のかたちをした石』を取り上げ,現代の物語の中にも石と「眺め」の関係が描かれていることを示した。以上,本章では石庭の石,町中の石,物語の中の石などから,日本人が石に対して「眺め」るという態度で接しているものが多いことを論証した。さらに,石を「眺め」ることによって,非常に深い体験を得ていると推測できることも述べた。このような石に対する態度は,日本人の意識のあり方の特徴をなす点だと考えられる。第5章と第6章は,本論文の中心課題である「眺め」意識の心理療法における意義の検討をおこなった。第5章では,『内的なイニシエーションにおける「見る」ことの意味』(上田, 2009)で扱った強迫神経症の男性の事例を題材とした。本章では,永遠少年元型にとらわれたクライエントの夢に何度も現れた「見る」という行為の意味を中心に考察した。夢では,まず「見るなの禁止」を破ることによって母性の否定的側面を「見る」というモチーフがあらわれた。精神分析的には,このような幻滅を通して自立が達成されると考えられるが,実際の面接ではこの段階で問題が解決したとは言えなかった。面接が進むと,クライエントは「他者と一緒に海を眺める」夢を見た。この夢の後,症状は消失し,クライエントは社会へ参加することができた。本事例の経過から,「母なるもの」の力の強いわが国では,<分離し,はっきりさせる>すなわち,「見る」意識のあり方だけでは十分でなく,あきらめをベースにしてある情趣を感じ取る「眺め」意識まで獲得することが必要だったと考えられた。特に,本事例ではいったん西洋的な(厳しい)「見る」意識を経た後,「眺め」意識を獲得したことが重要であったことを述べた。第6章は,『中年期のイニシエーションのあり方を考える』(上田, 2012)で取り上げた女性の事例を題材とした。クライエントは中年期にあって,これまでとは違う新しい意識のあり方を取り入れる必要に迫られていた。これは<あちらの世界>への移行というテーマとして箱庭によって繰り返し表現された。このテーマに対して,最初は「移行する先」(あちらの世界)に何があるかが重要だった。しかし,クライエントにとってそのような「明らかにしようとする意識」は先の問題について十分な納得を与えることができるものではなかった。クライエントは終盤の箱庭で,<あちら>岸にマリア像を置き,橋を架けて渡ることができるようにした。しかし,結局納得できず,次の回にマリア像を一輪の小さな花に置き換え,それを「何かあるというサイン」だと表現した。それは単にあいまいにするということではなく,むしろ<あちら>への移行を支える大きな決断であったことがわかった。考察では,本事例のプロセスが「見る」意識から「眺め」意識へという構造の中で理解できることを示した。第7章では,これまでの議論をふまえて,「眺め」意識のもつ心理臨床的な意義とその独自性を整理した。第7章第1節ではクライエントの獲得すべき新しい意識という観点から,「眺め」意識がもつ心理臨床的意義をまとめた。本論文の事例と議論を通して,「眺め」意識には強すぎる「見る」意識の一面性を補うという治療的意義があることがわかった。この「眺め」意識のもつ「意識の一面性を補う」という働きは,Jung, C.Gの補償とは異なる仕組みであることも説明した。第7章第2節ではセラピストの治療的態度という観点から,「眺め」意識のもつ心理療法上の意義をまとめた。これは,第一に,症状に対する「眺め」と表現できるもので,当の問題に対する,焦点を当てないでぼんやりとした受け方を意味するものである。この治療的態度は,森田療法の「不問」やJohn Keatsのnegative capabilityと近いものであることを述べた。第二に,北山修(2005)の「共視」という概念を援用して,「ともに眺めること」に含まれる治療的意義を論証した。これは第3章で,「眺め」が他者からの共感を得てはじめて成立すると指摘した点と軌を一にしている。また,セラピストの態度としての「ともに眺めること」は,箱庭療法がわが国で極めて発展したことと関係があると考えられることを示唆した。本章のまとめとして,「眺め」意識は,クライエントの症状理解やセラピストの治療技法という面から心理療法における重要な問題を解く鍵となりうる可能性が示唆された。第8章は,本研究の現代的意義を論じて結論とした。「眺め」意識をめぐる問題は,事例の個別性を越え,現代人の抱える共通の心理的課題を示していると考えることができる。これについて,近年急速に発達した「新型出生前診断」の問題を取り上げて論じた。診断とは「知る」こと(すなわち「見る」意識そのもの)だが,それを推し進めていって解決しない問題があることにわれわれは気がつき始めているのである。ゆえに,現代人の共通の課題は,非常に強力にわれわれを支配してきたこれまでの<意識パラダイム>からはずれた,新しい意識のあり方を模索することだと言うことができる。本論文では,「眺め」意識にその新しい可能性を探ったのである。ただし,真の問題は,「眺め」意識が重要だと言って,単純に通常の意識の働きを否定したり,後戻りするわけにもいかないということにある。本研究で重要な知見は,事例研究によって,単なる古代的な「眺め」意識に戻ることより,それを獲得するプロセスが重要であったことを見出した点にある。なにより,そのプロセスには共感してくれる他者が必要だったのである。ここに,心理臨床学的な観点から「眺め」意識を検討したもっとも重要な意義あると考えられる。
著者
上田 琢哉
出版者
公益社団法人 日本心理学会
雑誌
心理学研究 (ISSN:00215236)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.327-332, 1996-10-28 (Released:2010-07-16)
参考文献数
15
被引用文献数
9 5

In past studies, the concept of self acceptance has often been confused with self evaluation or self-esteem. The purpose of this study was to distinguish these concepts, and operationally define self-acceptance as Carl Rogers proposed: feeling all right toward the self when self-evaluation was low. Self-acceptance as adaptive resignation, a moderating variable, therefore should raise self-esteem of only those people with low self-evaluation. Self-acceptance was measuerd in the study as affirmative evaluation of own self-evaluation. Two hundred and forty college students, 120 each for men and women, completed a questionnaire of self-evaluative consciousness and self-esteem scales. Results of statistical analyses showed that among subjects with low self-evaluation, the higher self-acceptance, the higher the person's self-esteem, The same relation was not observed among those with high self-evaluation. Thus, it may be concluded that self-acceptance was adaptive resignation, and therefore meaningful to only those with low self evaluation.
著者
上田 琢哉
出版者
The Japanese Psychological Association
雑誌
心理学研究 (ISSN:00215236)
巻号頁・発行日
vol.67, no.4, pp.327-332, 1996
被引用文献数
1 5

In past studies, the concept of self acceptance has often been confused with self evaluation or self-esteem. The purpose of this study was to distinguish these concepts, and operationally define self-acceptance as Carl Rogers proposed: feeling all right toward the self when self-evaluation was low. Self-acceptance as adaptive resignation, a moderating variable, therefore should raise self-esteem of only those people with low self-evaluation. Self-acceptance was measuerd in the study as affirmative evaluation of own self-evaluation. Two hundred and forty college students, 120 each for men and women, completed a questionnaire of self-evaluative consciousness and self-esteem scales. Results of statistical analyses showed that among subjects with low self-evaluation, the higher self-acceptance, the higher the person's self-esteem, The same relation was not observed among those with high self-evaluation. Thus, it may be concluded that self-acceptance was adaptive resignation, and therefore meaningful to only those with low self evaluation.