著者
井口 治夫
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.57-93, 2003-03-31

本稿は,太平洋戦争末期から連合国による対日占領初期における,ダグラス・マッカーサー将軍の信任が厚いとされた軍人ボナー・フェラーズの考えと行動を考察の対象としている。フェラーズは,1944年から1946年までマッカーサーの副官を務め,また,終戦までマッカーサーのもとで推進された対日心理作戦の中心人物であった。本稿で紹介されている,フェラーズの天皇・天皇制と日米戦争終結に対する見解,フェラーズが1946年夏に退官を決意するに至った理由と状況,そして最も重要である終戦後フェラーズが滞日中に行ったことなど,フェラーズに関する詳細の多くは,いまだ紹介されたことのないものである。終戦前後の日米関係におけるフェラーズの多大な貢献は,マッカーサーが指揮する軍隊内で,天皇制を利用することにより,終戦,武装解除,占領改革を達成するという見解を積極的に後押ししていったところにあったといえよう。フェラーズは,滞日時代に日本が降伏を決断するに至った経緯に関する歴史資料や証言を集め,これらをもとに1946年の最初の三ヵ月間で1944年から1945年にかけて彼が推進した対日心理作戦を総括する報告書を書き上げたが,この執筆作業を通じて彼は,ドイツの降伏から広島へ最初の原爆が投下されるまでの期間,日米両国は,太平洋戦争を早期に終結させる機会をなぜ有効利用できなかったのかという疑問に関心を強めていったのであった。
著者
井口 治夫
出版者
上智大学
雑誌
アメリカ・カナダ研究 (ISSN:09148035)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.75-105, 2007

エルバート・トーマス(Elbert Thomas)は、1933年から1951年までユタ州選出の連邦上院議員(民主党)であった。当時の連邦議会には中国通のウォルター・ジャッド(Walter Judd)下院議員と元大学教員(東アジア史)のマイク・マンスフィールド(Mike Mansfield)下院議員(のちに上院議員、駐日大使)がいたが、当時の議会では東アジア情勢に詳しい議員はこの3人しかいなかった。彼らのうち、トーマスが最も注目された政治家であり、また、米国の東アジア政策をめぐる議論で足跡を残したのであった。トーマスは、日露戦争直後にモルモン教の宣教師として妻とともに来日し、6年ほどの滞在中に日本社会に溶け込んだのであった。トーマスとその白人の妻は日本で生まれた長女にチヨという日本人名をつけたのであった。トーマスは帰国後、上院議員になるまでの時期の大半をユタ大学で東アジア研究の教授として教鞭をとっていた。本論文は、トーマスの日米関係、太平洋戦争、対日原爆投下、対日占領に対する考えを、太平洋戦争に看護婦として従軍した娘チヨとの書簡、トーマス文書、トーマスの著書、演説そして論評を通じて考察したり、分析を行う。トーマスは、(1)日米関係が悪化していった1930年代前半軍拡競争ではなく日米文化交流の活性化を推進すべきであると提唱したり、(2)対日原爆投下直後に原爆使用の意味を歴史的洞察力に富んだ論文で考察している。こうしたトーマスの考えや行動は、人道主義的であり、また、国際連合と国際法に立脚した世界秩序を支持するリベラルな国際主義を反映していた。彼の日本に対する見方は、彼の滞日経験に基づいた日本社会と文化に対する親近感と、典型的なウィルソン主義的使命感(日本を含めた全世界に米国が提唱する価値と規範を受容させていく考え)が並存していた。トーマスは、その突然の死の直前、40年ぶりに訪日しており、そのさい、靖国神社を参拝していた。
著者
井口 治夫
出版者
同志社大学
雑誌
同志社アメリカ研究 (ISSN:04200918)
巻号頁・発行日
vol.44, pp.1-26, 2008-03

論説(Article)