著者
保田 孝一
出版者
岡山大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1992

1992年ペテルブルグのロシア海軍資料館で、1861年の対馬事件に関するロシア側の一次史料を発見した。それに基づいて、当時幕府の非公式の顧問だった有名なフォン・シ-ボルトが、この事件と東禅寺事件を解決するためにどのような役割を果たしたかを明らかにすることができた。その中心資料は、1861年にシ-ボルトが横浜と江戸から、ロシア東洋艦隊提督リハチヨフに宛てた5通の手紙である。これらの手紙を読むとシ-ボルトが、ロシア側からも、幕府からも尊敬されていたことが分かる。しかしシ-ボルトが親日的、親露的立場から事件を解決しようとして日露両国へ行った提言は、事件を解決するために直接の効果をもたらしはしなかった。明治時代の日露関係は、今想像するよりもずっと友好的であった。両国の皇室外交は、日露戦争の前にも後にも活発で、両国の皇族や重臣は相互に友好訪問をくり返していた。たとえば日露戦争の前に訪露した皇族には、有栖川宮熾仁・威仁両親王・小松宮彰仁親王・閑院宮載仁親王らがいる。ロシアからはアレクセイ大公、アレクサンドル・ミハイロヴィチ大公、キリル・ヴラディーミロヴィチ大公らが訪日している。訪露した最大の政治家は伊藤博文であった。かれは生涯に3回ロシアを訪れている。かれの持論は、日露戦争を避けるために満韓を交換するという提案である。つまり韓国は日本の、満州はロシアの影響下におくというのである。伊藤のこの提案は、日露戦争後に日露協商として実を結んだ。