著者
原口 耕一郎
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.204-188, 2008-06-25

『古事記』『日本書紀』においては、かなり古い時代の記事から隼人は登場する。この隼人関係記事の信憑性をめぐって、大きく二つの議論がある。一つは天武朝以降の記事からならば、それなりに信を置くことができるとする理解であり、これは現在の通説になっているといえよう。もう一つは、天武朝より前の時期の記事にも史実性を認めようとする理解である。小論は、これまでの隼人研究史を回顧し、隼人概念の明確化をはかり、『記・紀』に史料批判を加え、天武朝より前の隼人関係記事については、ストレートには信を置きがたいことを論じようとするものである。つまり、可能な限り通説の擁護を目指すことが小論の目的である。まず、文献上にあらわれる隼人様を整理し、隼人概念の明確化を行う。次に考古資料と隼人概念との対比を、最近の考古学研究者の見解を踏まえながら行う。さらに畿内隼人の成立について触れる。その結果、『記・紀』編纂時における政治的状況、すなわち日本型中華思想の高まりの中で、政治的に創出された存在としての隼人の姿が明らかにされるであろう。このような、現在の隼人理解において中核的なテーゼをなす、「隼人とは政治的概念である」という主張を確認したうえで、天武朝より前の隼人関係記事は漢籍や中国思想により潤色/造作を受けていることを明らかにする。
著者
原口 耕一郎
出版者
名古屋市立大学大学院人間文化研究科
雑誌
名古屋市立大学大学院人間文化研究科人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
no.15, pp.232-204, 2011-06

『古事記』『日本書紀』においては、かなり古い時代の記事から隼人は登場する。この隼人関係記事の信憑性をめぐって、大きく二つの議論がある。一つは天武朝以降の記事からならば、それなりに信を置くことができるとする理解であり、これは現在の通説になっているといえよう。もう一つは、天武朝より前の時期の記事にも史実性を認めようとする理解である。小論は、これまでの隼人研究史を回顧し、隼人概念の明確化をはかり、『記・紀』に史料批判を加え、天武朝より前の隼人関係記事については、ストレートには信を置きがたいことを論じようとするものである。つまり、可能な限り通説の擁護を目指すことが小論の目的である。まず、文献上にあらわれる隼人像を整理し、隼人概念の明確化を行う。次に考古資料と隼人概念との対比を、最近の考古学研究者の見解を踏まえながら行う。さらに畿内隼人の成立について触れる。その結果、『記・紀』編纂時における政治的状況、すなわち日本型中華思想の高まりの中で、政治的に創出された存在としての隼人の姿が明らかにされるであろう。このような、現在の隼人理解において中核的なテーゼをなす、「隼人とは政治的概念である」という主張を確認したうえで、天武朝より前の隼人関係記事は漢籍や中国思想により潤色/造作を受けていることを明らかにする。
著者
原口 耕一郎
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.15, pp.232-204, 2011-06-30

『古事記』『日本書紀』においては、かなり古い時代の記事から隼人は登場する。この隼人関係記事の信憑性をめぐって、大きく二つの議論がある。一つは天武朝以降の記事からならば、それなりに信を置くことができるとする理解であり、これは現在の通説になっているといえよう。もう一つは、天武朝より前の時期の記事にも史実性を認めようとする理解である。小論は、これまでの隼人研究史を回顧し、隼人概念の明確化をはかり、『記・紀』に史料批判を加え、天武朝より前の隼人関係記事については、ストレートには信を置きがたいことを論じようとするものである。つまり、可能な限り通説の擁護を目指すことが小論の目的である。まず、文献上にあらわれる隼人像を整理し、隼人概念の明確化を行う。次に考古資料と隼人概念との対比を、最近の考古学研究者の見解を踏まえながら行う。さらに畿内隼人の成立について触れる。その結果、『記・紀』編纂時における政治的状況、すなわち日本型中華思想の高まりの中で、政治的に創出された存在としての隼人の姿が明らかにされるであろう。このような、現在の隼人理解において中核的なテーゼをなす、「隼人とは政治的概念である」という主張を確認したうえで、天武朝より前の隼人関係記事は漢籍や中国思想により潤色/造作を受けていることを明らかにする。
著者
原口 耕一郎
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.204-188, 2008-06

『古事記』『日本書紀』においては、かなり古い時代の記事から隼人は登場する。この隼人関係記事の信憑性をめぐって、大きく二つの議論がある。一つは天武朝以降の記事からならば、それなりに信を置くことができるとする理解であり、これは現在の通説になっているといえよう。もう一つは、天武朝より前の時期の記事にも史実性を認めようとする理解である。小論は、これまでの隼人研究史を回顧し、隼人概念の明確化をはかり、『記・紀』に史料批判を加え、天武朝より前の隼人関係記事については、ストレートには信を置きがたいことを論じようとするものである。つまり、可能な限り通説の擁護を目指すことが小論の目的である。まず、文献上にあらわれる隼人様を整理し、隼人概念の明確化を行う。次に考古資料と隼人概念との対比を、最近の考古学研究者の見解を踏まえながら行う。さらに畿内隼人の成立について触れる。その結果、『記・紀』編纂時における政治的状況、すなわち日本型中華思想の高まりの中で、政治的に創出された存在としての隼人の姿が明らかにされるであろう。このような、現在の隼人理解において中核的なテーゼをなす、「隼人とは政治的概念である」という主張を確認したうえで、天武朝より前の隼人関係記事は漢籍や中国思想により潤色/造作を受けていることを明らかにする。
著者
原口 耕一郎
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.2-18, 2015-03-30
著者
原口 耕一郎
出版者
名古屋市立大学
巻号頁・発行日
2018

平成29年度
著者
原口 耕一郎
出版者
名古屋市立大学
雑誌
人間文化研究 (ISSN:13480308)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.150-132, 2006-01-10

かつて大和の国の吉野山中には国栖とよばれた人々が暮らしていたという。『記紀』では彼らの先祖が王権と出会うことにより贄を献じ歌笛を奏上することになった起源譚が語られている。日本古代において夷狄とされた人々の中においても、国栖はこれまであまりとりあげられることがなかった。研究の蓄積がある隼人や蝦夷とは異なり、国栖について論じた研究はきわめて少ないといえる。しかしながら、国栖は吉野という飛鳥・奈良・京都にほど近い場所に居住しているのであり、また、大嘗祭など王権にとって重要だとされる儀礼に贄を献上し歌笛を奏上することが規定されているのである。このような点から、国栖は夷狄研究の文脈において無視することのできない存在であるといえよう。小論では『古事記』『六国史』『延喜式』といった史料をもとに、国栖の歌笛奏上と、これまで具体的な研究のなかった国栖の歌笛奏上に関わる官司について論じたい。まず国栖の服属を説く説話/「神話」について触れ、国栖の特徴について大まかに論じる。次に国栖の歌笛奏上を管轄した官司について考察し、貞観年間において国栖の歌笛奏上が宮内省に管轄されていたことを確認する。またそれは遅くとも天長年間後半まではさかのぼることを指摘する。さらに天武朝以降の歌舞に関する王権の関わりや、隼人司の成立状況などに言及し、大宝令制定の時期あたりまで宮内省管轄下に国栖の歌笛奏上が行われていた可能性に触れ、最後に国栖という「概念」自体が遅くとも『記紀』編纂の最終段階までにはほぼ成立していたことを論じる。
著者
原口 耕一郎
出版者
名古屋市立大学
巻号頁・発行日
2018-03-26

平成29年度