著者
吉田 太郎
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.8, pp.123-139, 1968-12-20

明治初年から10年代までの歴史教育の方法は,根本は儒者の教授法式の域を超えたものではないが,上述のごとく幼童に学習の苦痛の軽減を図る改善の跡は十分見うけられる。長年の陋習とも云うべき素読は,入門時に幼童が通らなければならぬ苦難の関門であった。このことはつぎの回想記で明らかである。「総て今までの教へ法は,・・・七・八歳の童子を教ふるに,四書五経などの六づかしきものを読せ,厳しき規則を設け,順序もなく,高尚なる学科を無理に教ふる法ゆゑに,児童は早くも倦が来て,書を読むは水火の責に逢ふ思ひをなす。」(明治文化全集20巻85頁辻弘・開化のはなし)明治の初年は頼山陽著日本外史などを教科書として使った。漢文の棒読と暗誦の連続であり,加うるに板の間に正座して姿勢を崩すことは許されず,常に叱責の教師の姿に幼童はおののいての通学であった。歴史教授の目標は,教師とか教科書を丸暗記することが中心であり,記憶力の分量によって成績の優劣が決定した。積極的に教授に努力したのは,主として暗誦による史実の理解であった。歴史教育によって尊王愛国心を植えつけるこのころの教育方法はどのようであったろうか。歴史教科書は,江戸時代の教科書即ち歴史書そのものであったが,次第に幼童用に解り易く文体を改良したのであっても,史観は変っていない。歴史の視点は,朱子学派の大義名分を重んずる儒教倫理史観で書かれている。そのために皇室関係の用語には敬語が一般化しているし,忠臣については,その事蹟を詳細に伝えているが,殊更に賞讃の文字を使ってはいない。賊臣については,淡々とその史実を述べるに留めて筆誅を強めてもいない。これは,後年の記述に比べて注目すべきである。歴史教育によって明治14年以後の教則によるごとく尊王愛国心に励むようなことは,この時代にはまだ見られない。ただ教科書の基調が君臣の分を重んずるのであるから,読誦する間に自ら尊王心の方が強く印象づけられたと思う。しかし教師によっては,尊王愛国の思想を史実に托して強烈に教えたことはあり得たと思われる。(山崎闇斎の門流の教師であれば,絶対尊王心を強調した筈である)歴史教育の方法は,学習に生徒を参加させる方法として上述のごとく独見輪講とか口授問答の形態をとったが,教授方式はあくまでも教師中心で教科書の暗誦に終始し,史実の暗記量の多いほど秀才と云われた。初等教員養成を使命とする師範学校が設置されたのは,明治5年のことであり,12年になって全国に70の師範学校が設けられた。この学校の付属小学校は各県下の俊才が集っていたので各県下の教育実際界の指導的地位を占めていた。しかしこのような教育をうけた教師の輩出は明治十年代後半のことである。従って明治10年代は,教師自身が儒者の教授形式を踏襲しただけで,新しく歴史のための教授方式を工夫したのでないから旧態依然たる暗誦法に終ったことになる。このために歴史教育独自の新しい教授方法を案出した訳でもなく,経書,史書,文学書を含めての書物の読解法を幼童に行なったに過ぎなかった。明治14〜36年までの約22年の歴史教育は,明治政府の教育政策は,国是の富国強兵を達成するために,国民教育は着々整備され地方にまで文部省からの法令が流通し,中央統制の教育が普及した。歴史科の教育内容は,明治14,24,36年の3回に及ぶ教則によって国家によって規定された。教則は改定ごとに臣民育成を強化し,修身・地理・国語・唱歌の他教科の援助を得て,歴史科はその中核教科となってきた。教科書は,この期間は検定教科書を使用したが,著者が児童の関心と興味をそそるように直観資料を多く取り入れ,自学自習を促がす問題を加えたり,文章は簡潔な文語文にするなど,随分細心の注意を払って改良を加えている。教材は,教則によって大綱は定められているので皇国のために活躍し,尊敬すべき人物中心の物語をも加えて,児童の魂に焼きつくように教師は教えることに力を注いだ。教授方式は,外来の開発主義からヘルバル流の段階教授法を定型化し,歴史科もこの定型に従って5〜3段階に従って授業を区分し一斉教授を行なった。この教授法式は,児童の学習心理の姿を足場にした方法だけに明治初期の伝統的な空読暗誦式の苦脳多き教授方式より遙かに優れた定型であった。歴史教育の内容は,純正史学とは別個の皇国民育成の教育的歴史という国家統制の強いわが国独自の歴史教材であった。これを教える授業形式は,外国の教育理論からなる教授形式を公的に定型化した。歴史教材は純粋な独自の国粋型であるのに,その教育方法は欧米の理論による教授形式を公的に定型化し,全国の教師に利用された。この国粋型の歴史教育の内容と舶来の教授形式との奇妙な結合は,外見からは水と油との間柄であるとみるのは皮相な見解である。明治24年の小学校教則大綱は,ドイツの教授法を基礎にしていることを注目すべきである。天皇制憲法を支える教育勅語の徳目教育の中核教科は修身と歴史科である。ヘルバルトの教育学は,道徳教育を重視する教育思想であるから,意図的に森有礼文相がわざわざドイツからハウスクネヒトを招き東大で教育学の講義をさせその門下生がここの派の学説を舌と筆で唱導した。このような背景があるのでヘルバト教育学説は,公的に承認された教育学になり教授技術の段階説も全国に広まった。この教育学は,知識の伝授よりも徳育の陶冶を重んじたので,歴史教育の内容が教則で定められた尊王愛国心の養成にあることと合致することになる。教授方法は,心理学から発足した教授方式が授業の方法に適合したので当時の学者も教師もこれにとびついたのは当然であった。かくして明治19年以後のこの教授段階説は,ドイツ本国よりも日本で熱狂的に歓迎をうけ急速に全国の教師に流布した。この熱狂的な流行の風潮も20年代の後半になると反省や批判も盛んになってきた。批判の中心は,ヘルバルトの教育学は難解であって多くはその精神は消化し得ず,ただその形骸をまねることに終り,教師独自の考案による授業法の活用をはかるまでに至らなかった。(この部分は倉沢剛小学校の歴史II1023〜1026頁を参考にした。)しかし教育実際界は,五段〜三段の教授法は,上述の批判をよそに明治35,6年ごろまでは「明けても暮れてもヘルバルト一天張り」という盛況であった。こうしたヘルバルトの段階説も明治40年ごろから漸く衰微するに至った。一度全国的に浸透した教授方式は,昭和初年まで実際界ではなお支配力を持ち続けたといわれている。顧みれば,明治前期はわが国の歴史教育の外国に例のない独自であるのに対応して,わが国独自の他教科にみられない歴史教育の方法を創り出さずに終ったといっても過言でないと思う。
著者
前島 のりこ 丸山 剛 岸本 圭司 鶴巻 俊江 清水 朋枝 石川 公久 吉田 太郎 江口 清
出版者
日本理学療法士協会(現 一般社団法人日本理学療法学会連合)
雑誌
理学療法学Supplement Vol.36 Suppl. No.2 (第44回日本理学療法学術大会 抄録集)
巻号頁・発行日
pp.E3P3178, 2009 (Released:2009-04-25)

【目的】脊髄は脳に比べ、血管の構造上梗塞は起こりにくいとされている.当院では、ここ2年で4例の脊髄梗塞症例を経験した.1例は、現在入院中である.当院で経験した症例と過去の文献を検討し、予後予測の妥当性と予後に向けたPTとしての対応を検討する.【対象】2007年4月~2008年10月の期間の脊髄梗塞症例4例.症例1(入院中症例):60歳、男性.胸部下行大動脈瘤人工血管置換術後に発症.病変はTh8-11、脊髄灰白質前方(左優位).左優位の対麻痺.MMT IP2/1、Quad3-/2-、TA3/2.車椅子移乗中等度介助レベル.現時点でリハ期間2か月.症例2:68歳、男性.腹部大動脈瘤人工血管置換術後に発症.病変はTh11/12以下脊髄円錐部、対麻痺.下肢筋力MMT2.車椅子移乗自立で自宅退院.リハ期間は8か月.症例3:63歳、女性.大動脈弁閉鎖不全術後4日目、約1時間に渡る心停止後に発症.病変はTh8-12、脊髄前方1/2.対麻痺.下肢筋力MMT1-2.車椅子移乗一部介助レベルで他院へ転院.当院リハ期間は5か月.症例4:72歳、女性.特発性、後脊髄動脈症候群、Brown-Sequard型.病変はTh11-L1、左後索.感覚性失調症状を主とした左下肢麻痺.発症時は下肢筋力MMT2-3、発症後5カ月でMMT4以上.深部感覚障害は改善傾向も、失調症残存.屋内両松葉杖歩行、屋外車椅子駆動自立にて、自宅退院.入院リハ期間は約2か月半、現在は週1回当院で外来フォロー中.独歩も数mであれば見守りで可.【考察】文献では、脊髄梗塞において予後不良となる因子として大動脈疾患由来、両側性の障害、発症時の麻痺が重度、女性、梗塞巣が灰白質と白質に拡がっていることなどが挙げられている.また、予後良好因子は、片側性で梗塞巣が前角に限局していること、発症時のまひが軽度に加え、Brown-Sequard型であることが挙げられている.症例2,3ともに予後不良因子のうち2つ以上該当しており、車椅子レベルであった.症例4は、Brown-Sequard型で文献通り予後は良好に推移している.症例1は、予後良好因子と予後不良因子を併せ持つ症例である.過去の報告より、大動脈疾患由来の前脊髄動脈症候群の症例では、4例中3例が車椅子レベルとなっている.以上から、機能的には何らかの形で歩行可能となるが、実用的には車椅子レベルであると予測する.プログラムとしては、歩行練習を実施しながら、車椅子移乗練習などの車椅子動作練習を中心に立案し、自宅改修等の環境調整についても検討の必要が考えられる.【まとめ】脊髄梗塞の病因や病変部位、発症時の状態から、ある程度の予後予測ができる可能性が示唆された.PTとして予後を適切に判断し、予後に応じたプログラムの立案・実施と、早期から他職種と連携し環境調整を進めていくことができればと考える.
著者
吉田 太郎
出版者
横浜国立大学
雑誌
横浜国立大学教育紀要 (ISSN:05135656)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.39-59, 1966-12-26

During the period of about 260 years of the Edo Dynasty 1610~1868, there had developed throughout the country a total of over 15,500 Terakoya schools or private educational institutions for the public. The purpose of Terakoya schools was to give the mass of the people fundamental knowledge necessary for their daily lives as well as to teach them writing and reading. This was just what had happened with Writing schools or Reading schools found in the seventeenth-century Europe. At Terakoya schools in Japan the students were free to enter and to leave when they liked. The graduation from the same involved no social privileges of any kind on the part of the students. Most of such institutions were of one-room and one-teacher, with completely meagre educational content. One should not, however, overlook the fact that the prevalence of Terakoya schools in Japan had contributed towards a very small number of the illiterates, as compared with those of the world at large in its contemporary period. Some of the textbooks or readers used at Terakoya schools consisted of articles, dealing with works of great men in history or with main historical events of Japan. The present writer intended to analyze the content of such textbooks or readers, and to look into the educational influences such textbooks or readers had left upon the people. He regrets to say, however, that on account of the extreme shortage of relevant materials he has not been able to make researches into the actual curriculum building, and methods of examination as well as of evaluation of the results. In conclusion, it must be emphasized that the role of Terakoya schools was so important and their educational achievement was of such great magnanimity that in 1872, when western educational system was first introduced to Japan and the elementary school was made compulsory, the ratio of enrolement was extremely high, proving that Terakoya schools had cultured the enthusiasm of the people for the necessity of education.
著者
鶴卷 俊江 前島 のりこ 丸山 剛 岸本 圭司 清水 朋枝 石川 公久 吉田 太郎 江口 清
出版者
JAPANESE PHYSICAL THERAPY ASSOCIATION
雑誌
日本理学療法学術大会
巻号頁・発行日
vol.2008, pp.B3P1298-B3P1298, 2009

【はじめに】現在、脳性麻痺失調型の診断でフォローしているが、幾多の臨床所見より進行性疾患が疑われる患者を担当している.今回、麻痺性側彎症の術後リハビリテーション(以下リハ)を経験する機会を得たので、若干の考察を加え以下に報告する.<BR>【症例】14歳 女児 特別支援学校寄宿舎生活中.身体機能は側彎症、鷲手様変形、Joint Laxityあり.GMFCSレベルIII.移動は施設内外車いす自走、自宅内では殿部いざり.両側感音性難聴のため、コミュニケーションは手話および読唇法にて実施.<BR>【現病歴】1歳3か月、発達遅滞指摘され来院.脳性麻痺失調型の診断にて理学療法開始.独歩3歳.小学4年生で凹足に対し手術施行.以後介助歩行レベルとなり車いす併用.中学2年まで歩行器見守りまたは一側腋窩介助での歩行レベルであったが、徐々に歩行能力低下および脊柱側彎増悪.本年2月側彎症の手術実施.<BR>【経過】FIMで術前94点、術後53点、現在91点とセルフケア・移乗・移動で変動がみられた.中でも最大の問題点は、退院後の学校・寄宿舎生活での介助量増大であった.そこで連絡ノートや訪問による環境調整などで教員と連携をとり動作および介助方法の変更を検討・指導した.今回、術後一時的に動作能力は低下したが、退院後週3回の外来リハの継続により動作の再獲得に至った.また、生活の中心である学校・寄宿舎生活を支援する教員・介助員等との連携によりスムースに日常生活に復帰することが出来た.しかし、その反面歩行能力の改善に時間を要し、術後8カ月現在においても介助歩行は困難.訓練レベルの歩行であるため、学校内での安全性を考慮し歩行器をメイウォークに変更した.なお、13年間の経過をカルテより後方視的にGMFMを用い比較すると、9歳時58.09点から現在44.79点、GMFCSレベルも_II?III_へ悪化していた.<BR>【考察】経過からFriedreich失調症が疑われる症例である.脊髄小脳変性症など失調症に対するリハは機能維持だけではなく改善効果もあることが報告されている.本症例も術前生活と同程度まで改善が認められた.しかし、症状は徐々に増悪し、安全に学校生活を送ることは困難となってきている.今回は学校との連携により、リハと同一方法で日常生活動作を行うことで動作再獲得の時間は短縮出来、さらには日常生活の汎化につながったと推察する.教育との連携により達成できたと思われる.さらに、本児が進行性疾患であれば、今後どのように本人家族を支援していくかが課題となる.学校という集団生活の中でどこまで活動させることが良いことなのか、学校での支援体制、本人家族の願い、客観的機能および環境評価を考慮した上で現在の連携をすすめていくことが肝要と推察する.