- 著者
-
吉田 航太
- 出版者
- 現代文化人類学会
- 雑誌
- 文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
- 巻号頁・発行日
- vol.22, pp.80-105, 2021 (Released:2022-01-29)
- 参考文献数
- 38
本論文は、環境汚染や不透明な民営化などの潜在的な問題を抱えつつもそれが表面化せずに機能しているインドネシアの埋立処分場の事例を通じて、インフラの不可視性の様態を探究するものである。これまでのインフラ人類学は不可視で当たり前の存在とされてきたインフラに光を当ててその在り方を明らかにする試みが中心的である一方、いかにしてインフラの不可視性が日常的に維持されているのかという側面は取り上げられてこなかった。不可視性はインフラという地によって図としての別の何かを可能にする効果を持っており、そのため、不可視性が何によって維持されているのか、そして不可視性の効果として何ができるようになっているのかという観点からの分析が求められている。また、こうした不可視性は新自由主義批判を基調とする近年のダーク人類学でも扱われており、両者の議論を接続させることによって「ダークな不可視性」という観点から埋立処分場を理解することが可能となることを提示する。しかし同時に、本事例の埋立処分場はダーク人類学がしばしば描くような単純な権力関係によって非問題化されているのではなく、実際には物理的形状・統計手法・契約書類・賠償金・処理技術といった様々な要素が動員されることで不可視化が成立している。特にインドネシアの「汚職」概念と内実が曖昧な「ガス化」技術のセットによって未来という時間性が導入されていることが(一応の)安定化に寄与していることが指摘できる。埋立処分場の「民営化」とは権力者の腐敗だけでなく廃棄物処理システム全体の改善や将来への先延ばしといった様々な理解が折り畳まれた複雑な状態なのである。結論では、埋立処分場が不可視であることによって住民レベルのゴミの問題化=可視化という別の政治が可能となっており、「不決定」という政治の形式が見られることを論じる。