著者
密山 要用
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.23, pp.58-77, 2022 (Released:2023-01-28)
参考文献数
5

本論文では、医師が地域医療に携わる上で生活者の視点と医療専門家の視点をどのように取り扱えばよいか、その振る舞いにフィールドワークの経験と人類学者との対話がどのような影響を与えうるのかについて、一人の医師である私の事例を基にして検討する。 医師になるとは、生活者である若者が異文化の場としての医学部に入り、医療の「あたりまえ」を自文化としていく過程であり、一方で生活者としての視点を失っていく過程でもある。生活者目線の「ふつうの医師」を志し、大学ではなく地域で、臓器別専門医ではなく家庭医への道へ進んだ筆者だが、次第に医師の視点が強化され、生活者の視点を失っていった。一方で地域医療という生活と医療が交差する現場で、両者の「あたりまえ」の違いに悩み、「もやもや感」が生まれていた。そこでもやもや感の探求のために一度臨床現場を離れ、島根のとある集落で酒づくりをする人たちとコミュニティナースを自称する看護師たちの実践を調査者としてフィールドワークする経験を得た。そして、人類学者らとの対話を通して、当初のもやもや感がいずれも医師の視点から一方的に地域の生活を捉えるものであったことに気付かされ、また地域に住む生活者の視点をそのままに受け取るというフィールドワークにおける重要な姿勢を学んだ。医師にとって、地域での医療の実践を深めていく上で、生活と医療の境界に生まれる様々な「もやもや感」を大切に扱うこと、医療と生活両方の視点を包括する「いかにしてともに生きていくか」という問いを立てて生活者視点を再構築すること、「健康づくり」ではなく「地域づくり」の一員として地域の人々の仲間に加わることが重要かもしれない。このような医療と生活の境界をフィールドワークする営みを「地域でふつうの医師として医療をすること」と呼びたい。
著者
竹村 瑞穂
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.2-11, 2021

<p> 本稿では、競技スポーツ界が要求する競技者の身体の自然性にまなざしを向け、そこに浮かび上がる矛盾や問題性について指摘したい。</p><p> スポーツとは、じつに長い歴史をもつ人間の身体文化であるが、その過程で、科学技術の恩恵を受けながらさまざまな変貌を遂げてきた。トラック環境一つ取り上げてもその変化には驚かされるものがあり、科学技術による外的環境の改変が、スポーツ・パフォーマンスを向上させてきたことは事実である。このようなスポーツの高度化の過程において、外的環境の改変とともに注目に値するのは、スポーツをする人間の身体に向けられた改変への志向、すなわちドーピングの問題である。</p><p> ドーピング問題に対する倫理・哲学的研究の中では、ドーピングを禁止する直接的な根拠は見当たらないという議論も展開されてきた。ドーピング禁止理由の一つの論点に「身体の自然性」という視点があるが、しかし、この自然な身体こそが競技スポーツ界で排除の対象となる場合も生じている。先天的にテストステロンの値が高い女性アスリートの場合は、この身体の自然性こそが問題視され、ナチュラル・ドーピングとして人為的にその自然性を治療しなければ競技に参加できないような事態が生じているのである。</p><p> 競技スポーツ界において求められる身体の自然性とは、いったい、どのような自然性なのだろうか。生殖細胞や体細胞を操作する遺伝子改良は"自然"なのだろうか。先天的にテストステロン値が高い女性アスリートは先天的に"自然ではない"のだろうか。このような疑問を背景に、競技スポーツ界が求める身体性をめぐる揺らぎと、要求する"恣意的な"自然性の在りようを読み解くこととする。</p>
著者
松崎 かさね
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.106-120, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
13

The purpose of this paper is to discuss the dignity that Mr. B, who was once “Nushi” of a pachinko parlor (head of a store), emphasized, with reference to Max Weber's theory of charisma. From Mr. B's story, it can be said that he was in a considerably advantageous situation to get money, such as having the privilege to enter the store first. However, on the other hand, he didn't dare to get the money rationally which he emphasized was due to dignity. What is important to learn from Mr. B's practice is based on consideration for the store and general customers. In other words, the key of his practice was to express the attitude of valuing the relationship with the store and customers. This, in turn, kept him as a dignified person and also helped him to maintain the position of “Nushi” of the store.
著者
竹村 瑞穂
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.2-11, 2021 (Released:2021-01-21)
参考文献数
7

本稿では、競技スポーツ界が要求する競技者の身体の自然性にまなざしを向け、そこに浮かび上がる矛盾や問題性について指摘したい。 スポーツとは、じつに長い歴史をもつ人間の身体文化であるが、その過程で、科学技術の恩恵を受けながらさまざまな変貌を遂げてきた。トラック環境一つ取り上げてもその変化には驚かされるものがあり、科学技術による外的環境の改変が、スポーツ・パフォーマンスを向上させてきたことは事実である。このようなスポーツの高度化の過程において、外的環境の改変とともに注目に値するのは、スポーツをする人間の身体に向けられた改変への志向、すなわちドーピングの問題である。 ドーピング問題に対する倫理・哲学的研究の中では、ドーピングを禁止する直接的な根拠は見当たらないという議論も展開されてきた。ドーピング禁止理由の一つの論点に「身体の自然性」という視点があるが、しかし、この自然な身体こそが競技スポーツ界で排除の対象となる場合も生じている。先天的にテストステロンの値が高い女性アスリートの場合は、この身体の自然性こそが問題視され、ナチュラル・ドーピングとして人為的にその自然性を治療しなければ競技に参加できないような事態が生じているのである。 競技スポーツ界において求められる身体の自然性とは、いったい、どのような自然性なのだろうか。生殖細胞や体細胞を操作する遺伝子改良は“自然”なのだろうか。先天的にテストステロン値が高い女性アスリートは先天的に“自然ではない”のだろうか。このような疑問を背景に、競技スポーツ界が求める身体性をめぐる揺らぎと、要求する“恣意的な”自然性の在りようを読み解くこととする。
著者
里見 龍樹
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.1-8, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
22

本特集は、「これまで『自然』と呼ばれてきたもの」がさまざまなかたちで取り上げられている現代の人類学において、では、そのような「自然」を記述する民族誌はいかなるかたちをとりうるのか、という方法論的な問題を提起するものである。2000年代後半に登場したいわゆる存在論的転回は、「自然/文化」という近代的な二分法、および狭義の「自然」概念を批判することによって、「広義の自然」と呼ぶべき人類学的主題を明確化した。本特集では、この主題を「いかに民族誌を書くか」という方法論的な問いと結び付けることで、現代における一つの「外の思考」としての人類学/民族誌がとりうるかたちを探究する。
著者
橋爪 太作
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.9-33, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
39

過去100年間のメラネシア地域における文化・社会人類学は、西欧近代的な自然/文化概念の民族誌的批判から、熱帯の自然と社会が互いに互いを創造し合うメラネシア的な社会性のモデルを打ち出してきた。しかしそこで前提とされている熱帯の自然の能産性は、熱帯林の大規模開発や人口増加といった人新世的状況が進行する現代のメラネシアでは、必ずしも自明なものではなくなってきている。本論はソロモン諸島マライタ島北部西ファタレカ地域における森林伐採事業の進出と、それと並行する現地の人々と土地の力の新たな関わりを、自然・社会双方における「ギャップ・空白」の創出に着目して描くことを通じて、自己と他者が入り混じる現代メラネシアの自然‐人間関係を概念化し、さらにそこから人間化された地球という新たな自然と向き合う我々自身について省察することを試みる。 マライタ島の山間部に居住してきた西ファタレカの人々は、ギャップ創出によって更新される熱帯林の特性を焼畑農耕として模倣することで土地の成長力を引き出してきた。しかし伝統的な生業が森林の一部を利用するのに対し、森林伐採事業は1つのクランの土地のほとんどが伐採される。このギャップと森林の図地反転は、土地と数百年以上関わり続けてきた人々の中に、自らの将来の生活や未解決の過去の問題といった、現在の自己を断絶させるような「空白」を創出している。他方、我々にとっては生態系の劣化として見える、地面が抉られ岩盤が露出した伐採後の景観は、不動の大地こそ「生きている」ものと考え、その内部に秘められた力を予感する現地の人々にとっては別様に立ち現れている可能性がある。 切り開かれ、予測不能なポテンシャルを露呈する新たな自然と向き合うメラネシアの人々は、不穏な未来の予感に怯える我々の同時代人である。こうした人々の経験を民族誌的に記述することを通じて、人新世に対しメラネシアから応答する道筋が開かれるであろう。
著者
古川 不可知
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.34-53, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
48

シェルパの人々が居住するネパール東部のソルクンブ郡クンブ地方は、全域がユネスコ世界遺産の自然遺産に登録された山岳観光地である。エベレストをはじめとするヒマラヤの山々を眼前に望むこの地域には、毎年多くの観光客がその自然を見るためにやってくる。他方で観光客の流れはいまやエベレストの頂上にまで達し、人間から切り離された領域としての自然はもはや想像もしがたい。 本稿の目的は、自然/文化という素朴な世界の見方が問い直されつつある現在において、「自然的なるもの」をどのように考えてゆけばよいのか、ヒマラヤの「大自然」を背景に検討することである。本稿ではティム・インゴルドの自然と環境をめぐる議論を手掛かりとしながら、対象化された自然という領域が想像される以前に、私たちは有機体かつ人格として環境内に位置付けられているという事実を確認し、「環境の中の私」を自然的なるものを記述するための立ち位置として定める。そのうえで山間部における道のあり方を事例に、環境の中における存在とは関係的なものであることを指摘し、「自然」についても同様であることを主張する。 そして米国のNGOが現地の若者に自然教育をおこなう登山学校の事例を取り上げながら、単一の自然とそれを解釈する複数の文化という図式が生じる手前の環境から、複数の自然的なるものが立ち現れ、接触する様相を考察してゆく。結論となるのは、同じ物理的環境でも自然は別様に立ち現れること、また他者に立ち現れる自然は注意の向け方を通して学びうるものであり、とりわけ他者とともに高山中を歩くことを生業としてきたシェルパの人々は、パースペクティヴを切り替えながら複数の自然を生きていることである。
著者
近藤 宏
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.54-79, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
32

本稿では、「存在論的転回」の「真剣に受け取ること」という知的な態度に倣い、「『自然』を/に抗して書くwriting (against) nature」という課題を、パナマに暮らす先住民エンベラの人びとによる「自然を書く」取り組みから考える。具体的には、溺死という出来事をめぐる叙述である。それは文字を使用しない語りによる叙述で、正確には書くことではないかもしれないが、ここでは先住民の考え方を引き受けることを優先させるため、「自然を書く」ことを「自然を叙述する」こととして緩く捉え、人類学者にとっての問いに対応する先住民的な考えを検討する。 その溺死の出来事の叙述は、被害者の身体の様相を詳しく伝えることで、水流の不可解な力に曝された被動作主としての性格を際立たせる。一見すると空白のままとなる溺死を引き起こした力は、不可視の身体を持つ精霊の行為主体性として受け止められている。不幸な出来事の原因を精霊に帰するような語りを、「驚くべき事実Cが観察される、しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、よって、Hが真であると考えるべき理由がある」[米盛 2007: 54]という形式を取るアブダクションと受け止める。「推論的仮説内容H=精霊が食べた」ことが、溺死の原因としてなぜふさわしいのかを、その仮説内容のかたちづくる際にはたらく「創造的想像力による推測の飛躍」を分析し、検討することから、自然の諸力(水流の力)を自然の要素(ナマケモノという動物)によって叙述するという、自然の叙述の様式が浮かび上がる。 こうした自然の叙述の様式に組み込まれている動物の名前の使用や、動物のイメージを別の自然現象に投影する民族誌的事象の分析や、別の先住民グループの民族誌的記述を手掛かりにしながら、エンベラによる自然の叙述の様式を考察すると、別の「イメージ平面」となる、自然の様態がそこには垣間見える。エンベラによる「自然の叙述」は、自然の事物のイメージが、別の自然の諸力のイメージとして照り返される独特な「イメージ平面」を含みこむ自然の様態が浮かび上がる。
著者
吉田 航太
出版者
現代文化人類学会
雑誌
文化人類学研究 (ISSN:1346132X)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.80-105, 2021 (Released:2022-01-29)
参考文献数
38

本論文は、環境汚染や不透明な民営化などの潜在的な問題を抱えつつもそれが表面化せずに機能しているインドネシアの埋立処分場の事例を通じて、インフラの不可視性の様態を探究するものである。これまでのインフラ人類学は不可視で当たり前の存在とされてきたインフラに光を当ててその在り方を明らかにする試みが中心的である一方、いかにしてインフラの不可視性が日常的に維持されているのかという側面は取り上げられてこなかった。不可視性はインフラという地によって図としての別の何かを可能にする効果を持っており、そのため、不可視性が何によって維持されているのか、そして不可視性の効果として何ができるようになっているのかという観点からの分析が求められている。また、こうした不可視性は新自由主義批判を基調とする近年のダーク人類学でも扱われており、両者の議論を接続させることによって「ダークな不可視性」という観点から埋立処分場を理解することが可能となることを提示する。しかし同時に、本事例の埋立処分場はダーク人類学がしばしば描くような単純な権力関係によって非問題化されているのではなく、実際には物理的形状・統計手法・契約書類・賠償金・処理技術といった様々な要素が動員されることで不可視化が成立している。特にインドネシアの「汚職」概念と内実が曖昧な「ガス化」技術のセットによって未来という時間性が導入されていることが(一応の)安定化に寄与していることが指摘できる。埋立処分場の「民営化」とは権力者の腐敗だけでなく廃棄物処理システム全体の改善や将来への先延ばしといった様々な理解が折り畳まれた複雑な状態なのである。結論では、埋立処分場が不可視であることによって住民レベルのゴミの問題化=可視化という別の政治が可能となっており、「不決定」という政治の形式が見られることを論じる。