著者
大友 達也 Tatsuya Otomo
出版者
同志社大学人文科学研究所
雑誌
社会科学 = The Social Science(The Social Sciences) (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
no.79, pp.187-203, 2007-10-20

昭和43年11月駐車場500台を持った日本最初の本格的なダイエー香里ショッピングセンターがオープンした。その後、ダイエーが同じ型の店舗を太平洋ベルト地帯に次々オープンすると、ジャスコの店は面白いように閉店させられた。ジャスコは慌ててダイエーが出店しない北陸、東北、山陰へ出店する「逃げの戦略」に切り替えた。そのため、ダイエーは平均30万人の商圏に対して、ジャスコの店舗のお客様は8万人が平均だった。こんな小さな商圏なので、ジャスコは高占拠率が取れるノーハウを努力して蓄積していった。これが今ジャスコの最大の武器になっている。平成に入って、ジャスコはダイエーの店がある太平洋ベルト地帯へ、蓄積したノーハウで千台以上の駐車場を持つ大型店を出店して来た。そうすると、ダイエーの店舗は戦いに敗れ、次々潰れた。私はこの現象を「イオンの弔い合戦」と名づけた。これに対して、ダイエーはアメリカのウオルマートやフランスのカルフールの店舗を研究し、新型の「ハイパーマート」でイオングループに対抗した。だが、結果は惨敗。中内さんは責任を取って、ダイエーを去った。次の若い社長は「ハイパーマート」の店に修正を加えて対抗したが、駄目だった。政府は巨額負債のダイエーの倒産を恐れ、強圧的に産業再生機構を適用し、丸紅主導でダイエーの再建を計ったが上手く行かず、丸紅はイオンに助けを求めた。5月24日のダイエー株主総会はイオンから2名の取締役を受け入れた。昭和40年代馬鹿にしていたあの弱小ジャスコ(現イオン)の軍門にダイエーが入ると誰が想像したであろうか。
著者
黒野 伸子 大友 達也 岡崎女子短期大学 安田女子大学
雑誌
岡崎女子大学・岡崎女子短期大学 研究紀要 (ISSN:21882770)
巻号頁・発行日
no.52, pp.57-66, 2019-03-15

筆者らは、これまでに王朝文学に現れる「病」の扱いについて、「他者からの要求を回避する口実、自己の希望を叶えるための理由づけ、体験の特殊さを強調する効果など、対象者の願いをかなえる便利ツール」のような扱いがなされていることを明らかにした。しかし、筆者らは古代の人々が持つ疾病観、医療観を論じるには、多方面からのアプローチも重要だと感じていた。そこで本稿では、古代医療史に関する先行研究レビューを基礎として、山上憶良と大伴家持の作品にみる表現とメトニミー両面からのアプローチを試みた。その結果、少なくとも、奈良時代の知識人が持つ疾病観、医療観には重層性があることが示唆された。
著者
大友 達也
出版者
同志社大学
雑誌
社会科学 (ISSN:04196759)
巻号頁・発行日
vol.79, pp.187-203, 2007

昭和43年11月駐車場500台を持った日本最初の本格的なダイエー香里ショッピングセンターがオープンした。その後、ダイエーが同じ型の店舗を太平洋ベルト地帯に次々オープンすると、ジャスコの店は面白いように閉店させられた。ジャスコは慌ててダイエーが出店しない北陸、東北、山陰へ出店する「逃げの戦略」に切り替えた。そのため、ダイエーは平均30万人の商圏に対して、ジャスコの店舗のお客様は8万人が平均だった。こんな小さな商圏なので、ジャスコは高占拠率が取れるノーハウを努力して蓄積していった。これが今ジャスコの最大の武器になっている。平成に入って、ジャスコはダイエーの店がある太平洋ベルト地帯へ、蓄積したノーハウで千台以上の駐車場を持つ大型店を出店して来た。そうすると、ダイエーの店舗は戦いに敗れ、次々潰れた。私はこの現象を「イオンの弔い合戦」と名づけた。これに対して、ダイエーはアメリカのウオルマートやフランスのカルフールの店舗を研究し、新型の「ハイパーマート」でイオングループに対抗した。だが、結果は惨敗。中内さんは責任を取って、ダイエーを去った。次の若い社長は「ハイパーマート」の店に修正を加えて対抗したが、駄目だった。政府は巨額負債のダイエーの倒産を恐れ、強圧的に産業再生機構を適用し、丸紅主導でダイエーの再建を計ったが上手く行かず、丸紅はイオンに助けを求めた。5月24日のダイエー株主総会はイオンから2名の取締役を受け入れた。昭和40年代馬鹿にしていたあの弱小ジャスコ(現イオン)の軍門にダイエーが入ると誰が想像したであろうか。
著者
黒野 伸子 大友 達也 岡崎女子短期大学 安田女子大学
雑誌
岡崎女子大学・岡崎女子短期大学 研究紀要 (ISSN:21882770)
巻号頁・発行日
no.52, pp.57-66, 2019-03-15

筆者らは、これまでに王朝文学に現れる「病」の扱いについて、「他者からの要求を回避する口実、自己の希望を叶えるための理由づけ、体験の特殊さを強調する効果など、対象者の願いをかなえる便利ツール」のような扱いがなされていることを明らかにした。しかし、筆者らは古代の人々が持つ疾病観、医療観を論じるには、多方面からのアプローチも重要だと感じていた。そこで本稿では、古代医療史に関する先行研究レビューを基礎として、山上憶良と大伴家持の作品にみる表現とメトニミー両面からのアプローチを試みた。その結果、少なくとも、奈良時代の知識人が持つ疾病観、医療観には重層性があることが示唆された。
著者
黒野 伸子 大友 達也 岡崎女子短期大学 安田女子大学
雑誌
岡崎女子大学・岡崎女子短期大学 研究紀要 (ISSN:21882770)
巻号頁・発行日
no.50, pp.31-40, 2017-03-25

王朝文学において「病」は不吉な事象の代表として扱われており、雅を旨とする文学世界にはそぐわない内容 に思えるが、王朝文学には「病」が登場する場面が多い。本稿は、王朝文学成立当時に流布していた病名および 病を表す言葉(以下、病を表す言葉と記す)に目をつけ、神尾(1995)の疾病規定を用いて落窪物語での扱いを 検証し、平安王朝期の知識階級が持つ医療観を可能な限り明らかにしようとした。その結果、落窪物語には、具 体的な病名や症状を表す言葉が多用されていることがわかった。さらに、病名を表す言葉は、すべて、事象に対 する口実、理由づけ、身分や関係性を明らかにする等の作用を持っていることが明らかとなった。平安王朝期は、 科学的治療の恩恵を受けられる階級がごく一部しかおらず、多くは加持祈祷に頼っていた時代である。その中で、 知識階級は、巷にあふれている病を現実的に見つめ、生活に取り入れる術を身につけており、現代人に通じる医 療観を持ち合わせていたことが示唆された。