著者
木下 眞二 小田切 正
出版者
北翔大学
雑誌
人間福祉研究 (ISSN:13440039)
巻号頁・発行日
no.5, pp.147-158, 2002

サッポロ・オリンピックの直前に完成した,札幌の地下鉄「南北線」も,30周年を迎えた(2001年12月)。その頃は,札幌の人たちは皆,「なんぽく」線と呼んでいた。地下鉄の標識も"Nanpoku Line"であったと思っている。ところが,二年ほど前,地下鉄大通駅の標識が"Nanboku Line"となっていることに,偶然気付いて,びっくりした。初めは,交通局の間違いと思ったが,こちらの間違いであることが,分かった。何十年も,疑うことなく「なんぼく」と信じ,その間違いに気が付かないことに,二度びっくりしたのである。私だけの錯覚なのか。そこで,周りの同年輩の札幌出身の人たちに聞いてみる。皆,「なんぽく」である。しかも,私と同様に,何十年も「なんぽく」と信じて疑うことがなかった。この,まことに不可思議な,札幌の方言「なんぽく線」のことを,同窓会誌などに(資料1, 2),エッセーとして載せたところ,札幌だけでなく北海道,東北地方,関東,関西の,沢山の方々から,意見をいただいた。とくに,俳人の嵩文彦氏,国文学の工藤芳雄氏,英文学の久末弘氏,ケセン語研究者の山浦玄嗣氏,文筆家の遠間昌平氏からは,貴重な資料が寄せられた。ここに,これらの資料の一部と,私たちのその後の調査を記録しておきたい。この「方言」の不思議な現象の実体が,かなり見えてきたように思う。しかし,まだ分からないことが沢山あるようである。以下に述べることは,これらの資料をもとに,私たちの考えをまとめたものである。間違っているところは,また,ご指摘いただきたい。(資料の中で,[]の部分は,私たちが後から加えたものである。)
著者
木下 眞二 小田切 正
出版者
北翔大学
雑誌
人間福祉研究 = Human welfare studies (ISSN:13440039)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.147-158, 2002

サッポロ・オリンピックの直前に完成した,札幌の地下鉄「南北線」も,30周年を迎えた(2001年12月)。その頃は,札幌の人たちは皆,「なんぽく」線と呼んでいた。地下鉄の標識も"Nanpoku Line"であったと思っている。ところが,二年ほど前,地下鉄大通駅の標識が"Nanboku Line"となっていることに,偶然気付いて,びっくりした。初めは,交通局の間違いと思ったが,こちらの間違いであることが,分かった。何十年も,疑うことなく「なんぼく」と信じ,その間違いに気が付かないことに,二度びっくりしたのである。私だけの錯覚なのか。そこで,周りの同年輩の札幌出身の人たちに聞いてみる。皆,「なんぽく」である。しかも,私と同様に,何十年も「なんぽく」と信じて疑うことがなかった。この,まことに不可思議な,札幌の方言「なんぽく線」のことを,同窓会誌などに(資料1, 2),エッセーとして載せたところ,札幌だけでなく北海道,東北地方,関東,関西の,沢山の方々から,意見をいただいた。とくに,俳人の嵩文彦氏,国文学の工藤芳雄氏,英文学の久末弘氏,ケセン語研究者の山浦玄嗣氏,文筆家の遠間昌平氏からは,貴重な資料が寄せられた。ここに,これらの資料の一部と,私たちのその後の調査を記録しておきたい。この「方言」の不思議な現象の実体が,かなり見えてきたように思う。しかし,まだ分からないことが沢山あるようである。以下に述べることは,これらの資料をもとに,私たちの考えをまとめたものである。間違っているところは,また,ご指摘いただきたい。(資料の中で,[]の部分は,私たちが後から加えたものである。)
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.207-218, 1999-02-10

菅季治(1917-1950)は,若くして逝った北海道が生んだ哲学者であり,教師である。本稿は,ひきつづき菅の戦中における生活・思想・哲学のもつ意義をあきらかにすることである。とくに今回は,アミエル(H-F Amiel 1846-1881)について再度とりあげ,菅にとってアミエルとはなにか,について検証を行なった。キエルケゴールが,魂へのふかい洞察をもたらしたことについては,これまでみてきたが,アミエルの自然・人間観,社会観,自由論があたえた影響も深刻だと考えられたからである。(戦争について-読者には戦争下のなかであった-,あらゆる真理を解体するもの,誤謬たいして誤謬をたたかわせるもの,醜悪そのもの,と指摘したのも,アミエルだったことが忘れられない。岩波文庫(四)1879年3月3日参照のこと)こうして,到達した菅の思想・哲学の結節点である主体-主体関係論(前回,「相互承認論としてとりあげたが)について考察するとともに,両者がともに生きるために構想された,「場」とはなにかについてもふれ,その将来展望について,検討を行なっている。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-12, 1994-03

菅季治(1917〜1950)は,若くして生涯を閉じた,ひとりの忘れられた哲学者であり,北海道が生んだ教師でもある。その残したしごとは,25才から26才にかけて執筆されたものであるが,自由のない,不毛な時代にもかかわらず,その哲学,思想,文学,人間にむけた関心は,知識人としてのたしかな思索のあとをしめしており,その稀有な思想と生き方は,いまに生きつづけている。その核心は,自己同一性がいかにして成りたつか,という自己と他者との関係性,相互関係(はたらきかけ,相互活動)にむけられている,と同時に,同一性における,一人ひとりの内面のうごき,欲望(そのあらわれとしての快と不快)のあらわれ方にたいする,心理・行動の観察(記録)にむけられているのが特質である。菅の遺著「哲学の論理」は,人間のあり方のうちでも「他者」との関係性を追求しているが,これにたいして「人生の論理-文芸的心理学への試み」は,獲得されるべき自己,同時に,そとにあるものをつつみ,みずからをつくりだしていくなまの自己実現のプロセスをえかきだして,感清-情念の世界を基本に一個の人間学の構築をめざしている。本稿は,その成りたち,内容と方法,ならびにその先駆としての意義をあきらかにした。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.17, pp.225-234, 1998-02

菅の「人生の論理」の執筆は,1943年9月,戦時である。本論では,菅の論述のもとになっている,キエルケゴールならびにアミエルに焦点をあて,その整理と解釈を試みた。菅がうけたキエルケゴールやアミエルの影響についは,これまでも指摘があったが,誤解にもとづくと思われるものがある。これまでみてきたことからあきらかなように,菅の,豊かな感性のうえに築かれた,哲学的土台は,戦時にあって人間的価値をもった教養をしめていて,その心理の論述も,冷静な観察の眼を生かした考察となっている。とりわけ,絶対的,一元的な哲学の伝統のなかで,他者との自由な,人間的な社交と交際,それによるさまざまな問題の解決につなげていくことを見通した「相互承認論」の展開は,じつにあらたな人間関係の転換点をしめしている。すべての人が「自由な人」になることが,人間の根本のありかただというのが,菅の哲学の基本である。「自他」「相互承認論」を基礎づけているのが,この人間観であり,その原点となっているのが,人間を縛するものからの自由ということである。その批判のキーワードは,「世間」である。戦時の全活全般が,「他者抹消」(戦時がこの死生観のうえに築かれていたし,哲学がそうであったことに注目したい)が公の論理とされていただけに,菅がいまわれわれによびかけていることの意味は,時代を超えて重い。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.20, pp.265-274, 2001

これまで菅季治(1917〜1950)の生活思想,哲学思想の意義をあきらかにしてきた。その主要著書は「人生の論理」(1950年,草美社)「哲学の論理」(1950年,弘文堂刊)である。本稿は,遺稿「語られざる真実」(1950年,筑摩書房)にふれながら,戦後における菅のシベリア抑留体験をあきらかにするとともに,抑留者引揚問題が国内政治の最大の問題になるなか,証人としての菅の,国会における意見陳述,ならびにその意見表明にしめされた立場,内容について解析を行なったものである。それ自体,菅の生活・哲学思想の論理の展開でもある。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.19, pp.263-270, 2000

本稿の目的は,ひきつづき菅季治(1917〜1950)の戦中における生活思想,哲学のもつ意義をあきらかにすることである。菅の哲学研究の命題は,「ものははたらくはたらきは矛盾的自己同一 関係 関係のろんり」の追求であり,「なる 動く はたらく」,または「生成・運動」論の探求である。では,その「論理」は,どのような「はたらき」を対象化して,みちびかれたものかが,重要な,菅の哲学研究の課題となる。本稿では,とくに「人生の論理」(1950)「哲学の論理」(1950)のなかから,学問研究のあり方として,なにを探求し,なにを方法・内容としているか,をあきらかにするとともに,彼の戦中における研究・実践の一つの到達点をしめした。また,菅の西田幾多郎にむけられた批判点,ならびにコミュニケーション(交わり)論も,あらためて着目すべきものとしてとりあげた。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.15, pp.217-230, 1996-03

「天の下にあるものはすべて,同じ法則,同じ運命のもと,すべては同一の自然の相の下に現れるにすぎない。人間を縛って,この秩序の棚の内に拘束しなければならない」菅季治(1917-1950)の「人生の論理-文芸的心理学への試み」の「前かき」に,モンテーニュからかりたこのことばがある。地上にあるすべてのもの,そして人間すべて上も下もなく同一であり,「宇宙における人間の位置」についての,このただしい自覚がいまや必要だという。現実の人間の,この理念とはなんとひどくかけ離れていることだろうか,たがいに傷つけあい倒し合う人間,かがれ歪んでいる人間,争いのなかの傷つけあう人間を見聞きするくらいかなしいことはない,と菅はいう。本稿では,ひきつづき戦中におけるひとりの哲学徒の,人間心理の内面をとらえた思索と行動(観察と記録)をあきらかにしたが,その文学,哲学,思想,文芸をかりた臨床的な研究方法のなかに,今日のあらたな教育的人間学の構築への手順も期待できると思われる。とくに今回は,菅のキエルケゴールの考察から多くとった。末尾に,「人生の論理」から「孤独」「弱い魂」「たいくつ」の各節を資料掲載とした。
著者
小田切 正
出版者
北海道教育大学教育学部旭川校特殊教育特別専攻科障害児教育研究室
雑誌
情緒障害教育研究紀要 (ISSN:0287914X)
巻号頁・発行日
no.14, pp.138-152, 1995-03

菅季治(1917〜1950)の主としてスピノザ(B. Spinoza 1632〜1677)哲学による「心理学への試み」の特質と,その心理学的論述について考察するのが,本稿のねらいである。人間が他の人(他者)をみとめ,他者からみとめられる相互の人間関係がなりたつには,なによりも自由で平等な,たがいの人格がみとめられるということがあってのことである。自分と他者とを一体のものとみなし相互にはたらきかけあうことのなかに,自分(他者も自分)を見出していくというのが,人間のあり方である。菅が,戦争・国家・権力・支配という総力戦のなかで,人間どう生きるかを問いながら,その哲学の課題としたのも,この相互の関係の基本についてのものだったのである。(「哲学の論理」にくわしく展開されている)私の手もとに,菅が使用したスピノーザ「哲学体系」(原名倫理学)(小尾範治訳,昭和2年発行岩波文庫)がある。これには,菅がつけたいくつもの傍線のもと,赤鉛筆で三ヶ所,つよくうったものが目をひく。その一ヶ所は,概括するならつぎのものである。「われわれの存在を維持し,その活動能力を増大するものを善といい,これにたいしてわれわれの存在の維持を妨げ,阻害するものを悪という。こうしてわれわれは,あるものが,われわれの喜びとなり,あるものが悪となるものであることを知るのである」(第四部人間の屈従,或いは感情の力について下線は菅のもの)戦争真ただ中の菅の哲学ならびに心理学的論述の前提は,このなかにいいつくされているといってより。人間,どうあるべきか,同生きるべきか,の目標をかかげるとうよりか,まず人間,どう生きているか,どうあるかのほんとうのあり方(欲望,感情-よろこびとかなしみ)をあきらかにすることが,根本と考えられたのである。人間のあり方とは,なによりも自分をまもることであり,自分を維持し,肯定されることをのぞむものであり,けっしてきずつけられ,屈従すること,否定されることをのぞむものではないということである。菅の遺著「人生の論理」は,戦中に書かれたことを基本にしているが,人間,どうあるかのありのままのあり方と,その生き方を凝視し,観察・記録(主として文学・哲学・思想と菅自身の人間観察による)したものであり,同時に,その日常性,通俗性にたいする,するどい批評をとおして,人間,どう生きるかをふかく問うものとなっている。末尾には,資料として「愛」「競争意識」「世間」「卑屈」の各節を採った。
著者
木下 眞二 小田切 正
出版者
北翔大学
雑誌
人間福祉研究 = Human welfare studies (ISSN:13440039)
巻号頁・発行日
no.5, pp.147-158, 2002

サッポロ・オリンピックの直前に完成した,札幌の地下鉄「南北線」も,30周年を迎えた(2001年12月)。その頃は,札幌の人たちは皆,「なんぽく」線と呼んでいた。地下鉄の標識も"Nanpoku Line"であったと思っている。ところが,二年ほど前,地下鉄大通駅の標識が"Nanboku Line"となっていることに,偶然気付いて,びっくりした。初めは,交通局の間違いと思ったが,こちらの間違いであることが,分かった。何十年も,疑うことなく「なんぼく」と信じ,その間違いに気が付かないことに,二度びっくりしたのである。私だけの錯覚なのか。そこで,周りの同年輩の札幌出身の人たちに聞いてみる。皆,「なんぽく」である。しかも,私と同様に,何十年も「なんぽく」と信じて疑うことがなかった。この,まことに不可思議な,札幌の方言「なんぽく線」のことを,同窓会誌などに(資料1, 2),エッセーとして載せたところ,札幌だけでなく北海道,東北地方,関東,関西の,沢山の方々から,意見をいただいた。とくに,俳人の嵩文彦氏,国文学の工藤芳雄氏,英文学の久末弘氏,ケセン語研究者の山浦玄嗣氏,文筆家の遠間昌平氏からは,貴重な資料が寄せられた。ここに,これらの資料の一部と,私たちのその後の調査を記録しておきたい。この「方言」の不思議な現象の実体が,かなり見えてきたように思う。しかし,まだ分からないことが沢山あるようである。以下に述べることは,これらの資料をもとに,私たちの考えをまとめたものである。間違っているところは,また,ご指摘いただきたい。(資料の中で,[]の部分は,私たちが後から加えたものである。)